36 フィーティアの青年
「ぎゃあああああああああああ!」
「なんだ⁉」
バシャバシャと水を跳ね除け、ゼノとリィグは走る。
「———っ!」
横道を駆け抜け、その先の道に出た瞬間だった。
目の前で、誰かの腕が飛んだ。
(なにが……)
バシャリと音を立てて水路の中へ腕が落ちると、すぐにぐらりと本体が傾いた。
その奥の暗闇に、ふたつの影がある。
ひとりは短剣を持った娘で、サフィールの首に刃を向けている。どうやら、突然現れた来客に驚いているらしい。髪と同じ、柔らかな若葉色の瞳を大きく見開いている。
もうひとりは、まだ幼さの残る少女だ。年齢はリフィリア姫くらいか。ゼノたちには見向きもせず、楽しそうに口元を歪めている。その手に持つ槍の切っ先から、ぽたりぽたりと赤い雫が滴り落ちる。彼女らの傍らに転がる兵士たちが、腕を押さえて
「ななな、なにをする⁉ お前たちはいったい何者だ!」
僅かに灯るランプの光。いましがた、誰かが持っていたのだろうそれは、地面に落ちて、ぼんやりと周囲を照らしている。その脇で、ビスホープ候が恐怖を顔にはりつかせて、座り込んだまま叫んだ。
「うむ! 誰だというからには答えてやろう!」
甲高い声だ。
闇の中でも光輝く銀髪に、好戦的なスカイブルーの瞳と、白と青の神官服をまとっていることから、彼女がフィーティアの人間だということは理解した。
その少女が袂をひるがえし、右手を前に突き出して高らかに告げた。
「調停機関
ふふんと、小さな胸を張る少女に、一瞬場が
「七剣星だと? そんなものは聞いたことが無い。だいたいフィーティアの騎士長ならば顔を知っておるが、貴様のような小娘では——」
そこまで言いかけて、侯爵の言葉を
「マルルーニャ……姫。なぜここに……」
呆気にとらえたような表情でつぶやくサフィール。侯爵が目を剥いて聞き返した。
「なっ……マルルーニャ⁉ まさか、パトシナ
ありえないと言いたげな叫びに、マルルと名乗った少女は
「違う、違う。ここにおるのは姫ではなく、フィーティアが騎士第四席……いや、七・剣・星! の、騎士長マルルである!」
「「…………」」
やはり再び場が白けた。しかし少女は気にする様子もなく、得意げに続けた。
「ふふ。なかなかにかっこいい呼び名であろう? 実は拙が考えたものでな。由来は——」
「マルル……」
彼女のうしろから、戸惑うような声がかかる。
「はやく捕まえないと……。すぐに戻らないといけないのに時間がないよ」
「むぅ。そう急かすな、メルディス。名を聞かれたからには答えるのが流儀であろう?」
「そう……なのかな?」
メルディスと呼ばれた娘は、困り顔で首を傾け、ちらりとこちらに視線を向けた。けれどすぐに瞳を左右に彷徨わせて、マルルのほうに目を戻した。
「まぁよい。そなたたちはこのまま連行する。詳しくは馬車の中で語ってやろう。メルディス縛れ」
「う、うん」
マルルが合図すると、メルディスは手際よくサフィールを気絶させ、
「殿下!」
「お前も寝ておれ」
「————ぐっ」
ごんと鈍い音がなり、侯爵がばしゃりと水路に倒れる。マルルが槍の柄で侯爵の首を殴ったのだ。そのまま振りまきざまにゼノの彼女の目が合った。
「それで、そなたたちは加勢の兵か? こやつらを取り返しに来たというのなら相手になるが」
少女の目がきらりと光る。まるで新しい
「——駄目ですよ、マルル。その人に手を出したら」
優しい、声だった。
彼女たちの後方から音が近づいてくる。かつんかつんと、暗がりから革靴が見えたかと思えば、現れたのは背の高い男だった。騎士のような服装に、馬のしっぽのような、細く長い黒髪。その姿に思わず息を呑んだ。
「……っ!」
どうしてここに。いや、そうじゃない。
「なんじゃそなたか。魔石の回収はもう終わったのか?」
「ええ、抜かりなく。それよりも時間です。はやく帰らないと、また彼に怒られちゃいますよ」
青年はマルルの前で立ち止まると、柔らかな笑みを浮かべて答えた。
「う……あやつか……。それは嫌なのじゃ……」
「でしょう? ここは引きますよ」
「ふむ。仕方がないのう。ここはいったん戻るとするか」
がっくりと肩を落とし、槍を下げるマルルに青年が楽しそうに笑う。その姿をみて、なんて言葉を出したらいいのか分からなくなる。
「メルディス、貴方も」
「う、うん!」
青年に名を呼ばれたメルディスが、縄ごとサフィールを引きずる。三人はそのまま水路の奥へと歩いていく。そこでようやく声が出た。
「っ! 待て!」
慌てて叫べば、マルルが振り返った。目を輝かせて、「戦うのか⁉」と槍を傾けているが、そんなことはどうでもいい。
「なんで……お前は死んだって……」
目を見開き、闇のなかを凝視する。
間違いない。暗いけれど、見間違えるはずがない。
昔よりも背が伸びて、大人びた顔つき。だけど、どうみても彼は——
「シオン」
青年が、ゆっくりとゼノを見た。
春の陽だまりのような優しい眼差し。その瞳は、深い深い
「えっ、紫……?」
確かシオンの瞳は空色だったはず。人違いか?
思考をめぐらせ硬直するゼノを一瞥し、マルルが青年を見上げた。
「なんじゃ、知り合いか? ステイル」
「いいえ」
ステイルと呼ばれた青年は、笑顔をはりつけたまま首を横にふる。
「きっと誰かと間違えているのでしょう。俺に彼のような知り合いはいませんし」
「そうか? 随分と驚いているようではあるが……」
怪訝そうな顔つきで、マルルがゼノと青年を交互に見比べた。
そこに間延びした声が響く。
「ねぇ、マスター。サフィールって人、取り返さなくていいの? このままだと連れてかれちゃうんじゃない?」
「——え? あぁ……」
そうだった。
青年に気を取れていたせいで忘れていた。ゼノは羽ペンを
「悪いが、そいつは置いていけ。このあと五大会議にかける予定なんだよ。連れていかれると困る」
「ほう、やはりこれの仲間か。ならば我らを倒し、奪ってみせよ!」
マルルが一歩前に出て、カンっと槍の柄で地面を小突いた。
その様子を見たステイルが、困ったように息を吐く。
「……仕方がありませんね。マルル、ここは任せます」
言って彼は、腰に下げた剣を引き抜くと、真横に振った。
同時に暗かった水路がぱっと明るくなる。
「これで足元がよく見えるでしょう」
「おお、良いのか! 戦っても!」
「いいも何も貴女のことだ。どうせ止めても無駄でしょうし、それよりも力はおさえてくださいね? マルルに暴れられると
「わかっておる」
マルルが自慢げに胸を叩いた。
「では、メルディス。俺たちは先に行きましょう」
「うん」
ふたりは水路の奥へ身体を向けた。
「待て! シオン!」
追いかけようと足を踏み出す。ゼノの前にマルルが立ちはだかった。
「そう急くな。そなたの相手は拙がしてやろう」
「邪魔だ、どけ!」
「ふっ! そう言われて退く馬鹿はいまい!」
マルルが槍の切っ先をこちらに向け、姿勢を低くした。そこでふと気がつく。
(あの槍……)
短すぎる。よく見れば柄が折れているようで、小柄な少女の背丈……いや、そこまでは届かないくらいの長さだった。ほんのすこし、そんな疑問を抱いていると、
「さぁさぁ、逃げ惑えよ
少女が地を蹴り、水路のなかを高く飛び跳ねた。
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