第5話 兄の記憶

僕の脳裏には、作業的に肉片を袋に詰める駅員の姿があった。


電車は緊急停車し、ホームはまだ騒然としている。


当たり前だ。目の前で人が電車に轢かれて動揺しない人はいない。


僕?


僕はまだ現実を受け入れられていないだけだ。


電車が来る直前、兄はホームから落下して止まることのできなかった電車に轢かれた。


向かい側から見ていたから鮮明に残っている。


目の前の事を目では認識できているけれど脳が処理を拒絶する。


だって誰も信じたくないだろう。


目の前で兄が動かくなるなんて。


今でも夢に見るんだ。そんな光景を。


現実を受け止めきれていない僕に不条理を突き付けるこんな夢が嫌いだ。


兄のことは好きだった。


家では生活音がうるさくて、寝起きが悪くて、何もしていない僕を睨み付けるなんてことをされていたけれど。


そんなことどうでもいいぐらい兄が好きだった。憧れだった。


兄の為なら、家族の為ならこの身を傷つけても構わないと思えるぐらいだった。


なのに…


涙の一つも流すことができなかった。


本来なら溢れ出て止まることを知らないはずなのに、一滴も僕の目からは流れなかった。


涙を流せないのはなんでなんだろうか。


兄が嫌いだから。


違う


兄の死を目の当たりにしたから。


違う


兄の死を受け入れられないから。


違う。違う違う違う違う違う!!


全部違ったんだ。


僕が泣けないのは空っぽだからだ。


心では誰かのために泣ける人間だと思っていた。


でも実際は違った。ただ、兄が死んでも何も思えなかっただけだ。


こんな僕がこの先生きてて良いんだろうか。


兄のために泣けない僕はこの先誰のためにも泣けないだろう。


こんなやつはいないほうがマシなのかもしれない。


手首に刃物を押し付けて一気に引いた。


切れるような痛みは一瞬だったけど、切った場所はじんじんと痛みが増していくようだった。


心臓の鼓動に合わせて血が吹き出してくる。


このままじゃ痛いだけ。死ねない。


僕は水を溜めていた浴槽に切った手首を入れる。


切った場所がしみる。


浴槽は僕の血で赤く染まっていく。


あぁ…痛い。兄も痛かったのかな。


痛みの種類は違うのだろうけど死ぬことには変わりない。


少しだけ兄の気持ちが分かるような気がした僕は嬉しくなった。


そして、だんだんと痛みはなくなり意識が薄れていく。


僕の最後の光景は蛇口からポタリと落ちる一粒の滴だった。

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