第32話 一瞬の恐怖と不安
やっと最初の一時間が過ぎたと告げられた。
シャケさんはヒトも見当たらないとため息を吐いた。
「次の手を打つ前に──大家、確認をしておこう」
衣擦れの後に、プラスチックの蓋を開ける軽い音。そして、俺の左肩を強く掴むシャケさんの低い声が、さっきとは違って近くで聞こえて思わず息をのんだ。
「今から大家の左肩の関節を、腕を無理やり後ろに引っ張って、外す。骨折よりも痛いし、素人がはめなおそうとしたら神経を傷つける可能性もある、脱臼ってやつだ」
淡々としゃべりながらシャケさんは俺の左肘を掴んで軽く前後に動かす。これからくる痛みを想像してどんどん浅くなる呼吸の中、俺はできるだけ力を抜いてされるがままに身を委ねた。
上層部で揉めていた解決策の中には、指名手配犯をおびき出す為に俺を拷問したらすぐにくるのではないか、というものがあった。人でいうところの母性本能に呼びかけるってやつだ。
あの一件の再現を繰り返すということは、少なくとも俺に執着心のようなものがあり、それを利用できないか──と、あの上層部の女性が提案したらしい。容易に想像できる。
爺ちゃんの介入で拷問ではなく、入院不要の範囲での怪我と、鮮血ではなく採血を使う方針で話を無理やりまとめたと聞いた。百ミリも採られた時は貧血気味になったが、切り傷を増やさないための爺ちゃんなりの優しさかもしれない。
まあ向こうが俺に興味がなかったり気づかなかったら、それまでの話だけど。
仮に実行前に指名手配犯が襲撃してきても、シャケさん相手なら顔見知りで少しは向こうの動きを鈍らせられるかもしれない。相手が職員だろうがシャケさんだろうが関係なく殺しにかかってくる可能性もあるけど、それでもシャケさんはわかった上で受け入れてくれた。
こんなかもしれないばかりの確実性のない作戦に悩むことなく乗ってくれるってことは、シャケさんの中ではこれで来る確証があるのか。一時間毎の段階を踏む提案をした理由も、おそらく彼の中ではちゃんとあるのだろう。
「脱臼させた後、地面に大家の血を撒いて様子を見る。血の臭いでヒトも集まりやすくなるから絶対にアイマスクは外すなよ」
汗が首筋をつたう。右手で目元を押さえてアイマスクも濡れていることに気づいた。浅く短い呼吸で薄くひらいた唇も震えている気がする。座っているのに足や手が、体が震えてじっとしていられない。
怖い。
痛みに特別強いわけでもない俺が逃げも止めもしないのは、俺のせいで指名手配犯の犠牲になった子供がいるから。
こんなことで帳消しになるようなことではない。それでもこれぐらいしないといけない。そう思って囮になることも、怪我も採血も受け入れた。
でもその覚悟と感情は別だ。
三百年はこっちの世界にいるシャケさんなら人体の扱いも慣れている。慣れているからこそこんなことをお願いできるし下手なことはしないだろう。
その信頼が大きいからこそ彼の言う事が怖くて仕方ない。
「舌を噛まないようにタオル突っ込むぞ」
俺の前から聞こえた声に口を開けようにも、震えてうまく開けられなかった。それでもシャケさんは口に指を当ててこじ開け、なんとかタオルを噛ませてくれた。
「合図はしないが……本当にやっていいんだな?」
そう言って声が俺の後ろにまわり、俺は震えながらも頭を縦にふった。
「あー……先に血を撒いとくぞ」
量なんてそんな多くないから音はしなかったけど、自分の震えと乱れた呼吸音でかき消されたのかもしれない。シャケさんの手が体が離れたのは一瞬だけで、すぐにまた左肩と二の腕を掴んだ。
この状態でいつ激痛がくるかわからない。
体の左側に意識がいき過ぎてシャケさんの手の力加減がわかる。わざとなのか、手の力を入れたり抜いたりしてるせいで、いつやるかわからない。すぐにやると思っていただけにこの待ちの時間が辛い。いや、やられても楽になるわけじゃないからすぐにやれっていうのもまた違うけど、この時間が早く終わってほしいとは強く思っている。
刹那、俺は首を絞められたように息ができなくなった。
左側にシャケさんの両手がある感覚はある。背筋に氷塊をつきつけられたようなゾクゾクとした寒気と、背中を鋭い針で何箇所も滅多刺しにされるような痛みを感じた。
だけど左側から手が離れる感覚がして、咄嗟に俺は歯を食いしばったが思っていた痛みはなく、代わりに体を突き飛ばされて地面を転がる衝撃がきた。
「アイマスクを取って中に入れ!」
散々震えていたのにシャケさんの大声で体はなんとか言うことを聞いてくれた。
すぐにアイマスクを外して上体を起こしたら、数メートル離れたところでシャケさんが見覚えのある女性と取っ組み合いをしていた。ああ、俺を育てたヒトだ。
「おい! ボサっとしてんじゃねぇ!」
思わずその場に立ち尽くしていたら爺ちゃんが俺の腕を掴んで敷地内に引っ張られた。
そのわずかな間に物陰で待機していた職員達が捕縛の陣を展開しており、俺が力無く座り込むと、もう仕事を終えたと言わんばかりに余裕で歩いてシャケさんも敷地内に戻ってきた。
「お疲れさん、大家。怪我はねぇか? 関節は外してないけど思いっきり蹴飛ばしたからなぁ」
俺の口からタオルを引っこ抜き、酷い顔だと笑うシャケさんに時間を聞いた。
たったの一時間半で、事は無事に終わった。俺は軽い擦り傷のみで、他シャケさんや職員たちは無傷とのことだった。
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