第3話・今日という日
・
山頂の気まぐれな風が少女の漆黒の髪を揺らし、空中に消える。
少女は虫の音に耳を澄ませ、新たな季節の変化を感じ取りながら小さな足で歩き始める。
「ヒカル?」
「なあにじいさま」
ヒカルはくるりと振り返り、声の主の方を向く。
銀色の髪は短く切り揃えられ、大きな体には優しげで渋い顔がよく似合っており、その姿からは一切の不快感を感じない。
「どこへ行くんだい?」
ここで暮らし始めてからかなりの時間が経ち、赤子の姿で目覚めてから彼、カグラという妖狐に拾われて育てられていた。
ヒカルも初めは人間ではないことに驚いたが、今では尊敬する父親のような存在だ。
「んー、けしきが見たくて」
ここは山頂、少し高い所に移動すればそこから山の周囲全体がよく見える。
ヒカルはそこから見える景色が大好きだった。
「そうかい、なら私も行こうか」
「うん!」
カグラはヒカルの小さな手を優しくギュッと握り、ヒカルの歩幅に合わせて歩いてくれる。
ヒカルはなぜ自分が赤子になってしまったのか、ここに来た頃はそんな事ばかりを考えていたが、最近は気にしなくなっていた。
(わたしは……わたしだからね)
しばらく進むと大きな岩の上に続く階段が見え始め、その上から見える景色にワクワクしながらヒカルは歩みを早める。
「はやくはやく!」
カグラのゆっくりとした歩みに焦らされ、少しでも早める為にカグラの手を強く引く。
「わかったわかった」
早足でやっと辿り着いた階段は乱雑に敷き詰められた岩で構成されており、小さな体では階段を登るのにも一苦労だ。
そして等身大ほどある岩に苦戦していると、ほら、と言ってカグラがヒカルを持ち上げて乗り越えさせてくれる。
「ありがと」
「はは、どういたしまして」
二段目からは手を使えば簡単に登ることができ、カグラの手を借りることなく登れたことに小さな達成感を感じる。
そして最後の一段を登り、その景色に息を飲んだ。
「この景色が好きなんだな」
それは絶景。
今日の様な雲が晴れている日は、どこまでも続く緑と陽光を反射した湖が視界を覆い尽くす。
「うん、大好き」
カグラの問に大きく頷いて答える。
ヒカルの目が見えるようになって、初めて見たのがこの景色だったのだ。
しばらく眺め続け、自分の足が疲れている事に気付いて解放されたように座り込む。
すると、カグラが口を開いた。
「風が強いが……寒くないか?」
「うーん、ちょっとだけ」
あまり気にならなかったが、確かに少し肌寒い感じがする。
なぜこんな質問をするのかというと、彼ら妖狐は寒さに強く、人間との体感温度に大きな差があるからだった。
「ふむ、これでどうだ?」
そう言ってカグラは妖気で創り出した布をヒカルに被せる。
「あったかい、ありがと」
被せられた布を小さな手で掴み、布に包まる。
ヒカルにとって、布の暖かさよりもカグラ優しさが何よりも温かかった。
・
少し大きなテーブルには、大きな絵の描いてある本を読んでいるヒカルと、それを見守るカグラが向かい合う形で座っていた。
「これはなんて読むの?」
ヒカルは本をカグラの方に向け、ひとつの単語を指さす。
その本は文字が極端に少ない、いわゆる子供向けの絵本だ。
「それは魔術、魔法のことだな」
「魔法?」
今まで聞いた事の無い言葉だったが、何度か見たことはあるような気がする。
カグラが何も無いところから食べ物や布を創り出すのは、普通に考えると魔法だろう。
「ふむ……難しいな」
カグラは少し難しそうな顔をしてから再び口を開いた。
「空気の中には魔素というものがあってな、人間らはそれを利用して炎や水を創り出して自在に操るんだ」
(へぇ……本当に魔法使いみたいな……っていうか、人間は?)
カグラの言い方だと、妖狐は魔法が使えないような、そんな言い回しのように感じる。
そして、ヒカルはひとつの事に気付く。
「なら私も使えるの?」
その質問に対してカグラはむう、と申し訳なさそうな顔をした。
「どうだろうな……人間の中でも特別な才能がある者が使えると聞いたことがある」
「ふうん、じい様は使えないの?」
言い方が悪かったのか、カグラはウッと苦しそうな顔をして、戸惑いながらも答えてくれる。
「……いや、私たち妖狐は魔素の代わりに妖気を操って色んなことができるんだ」
ということは、今まで色んなものを創り出していたのは妖気を使って創り出していた、ということだろう。
「私はできないの?」
「まあ、少し厳しいな」
「そっかー」
できないことは少なからずショックだったが、気にしても仕方がないので本の続きを読む。
この本は勇者が邪悪な竜を討ち滅ぼす英雄譚だ。
今読んでいる所では、魔法習得に苦戦している勇者の努力が描かれている。
「面白いかい?」
「うん、じい様も読む?」
大人が読むような本ではないのだが、もしかしたら読みたいのかもしれないと思って聞いてみる。
「いや、大丈夫だ」
「そう?」
「ああ。ところで……」
「なあに?」
何か聞きたいことがあるのだろうか、と首を傾げて待っているとカグラは真面目な顔で口を開いた。
「ヒカルは強くなりたいかい?」
ヒカルにその質問の意図は分からなかったが、弱いままよりは強くなった方がいいと思った。
それに、いつまでも守られてばかりなのは絶対に嫌だったから。
「もし、頑張れば私もじい様みたいに強くなれるかな?」
「ああ、きっとなれるさ。もう少し大きくなったら鍛えてあげよう」
「ほんと!?」
「ああ、約束する」
その時は寂しそうな声で、それでいて覚悟を決めたような顔をしていた。
・
外は暗く夜の帳が降りている中、静かな部屋でカオルは行き場のないストレスに頭を悩ませていた。
原因は言わずもがな人間の子供、ヒカルである。
(もう……本当に邪魔くさい)
カオルにとってカグラとの生活だけで十分幸せだった。
しかし、突然横から現れた人間によって全て奪われてしまったような、そんな気持ちだった。
いっその事殺してしまいたいが、そんなことをすればカグラが許さないだろう。それに、嫌いだからといって弱い相手を一方的に嬲るのはカオル自身が許せなかった。故にこれ程苦しんでいるのだ。
(本当に何を考えてるんだろう)
驚くことにカオルがヒカルを避けていることに本人も気付いているようで、ヒカルからは何も言って来ないが当然互いの仲は凄く悪い。
そのせいでカオルとヒカルはお互い近付こうとしない。しかし、カグラはヒカルの面倒を見るため大体ヒカルの近くにいる。
(そうなると私とカグラ様は一緒に居られない……ね)
深くため息を吐く。考えれば考えるほど全てが悪い方向に行ってる気がしてならない。
何百年も閉じ込められていて困ること、それは暇である。カオルはその暇を悠久の時を過ごしたカグラと関わることで誤魔化してきた。
「わかってるわよ……」
カオルのその感情は憎しみや怒りとは違う、紛れもない嫉妬から来るものだった。
「私が変わるべきなのかな……」
その時、引き戸がゆっくりと開かれた。
その開き方は焦らされているかのように遅く、そこから想像する人物は一人だけ。そう、ヒカルだ。
「じいさ……あっ」
そこに現れたのは、肩まで伸ばした真っ黒な髪が光輪のように光を反射している少女だった。
完全に引き戸が開いた所でカオルの顔を見つけたのか、ビクリと体が固まる。
(こんな時間に……カグラ様を探してる?)
外は既に真夜中で、カグラは外の見回りに家を出ている筈だ。
カグラの話ではヒカルなら夜は寝ていると聞いていたので、この遭遇は想定外だった。
カオルがそんなことを考えていると、再び動き出したヒカルが引き戸をゆっくりと閉める。
(……放置はできないわよね……はぁ)
カオルは閉められた引き戸に近寄り、ガラガラと一気に開く。
するとヒカルは直ぐにその場を離れようとしたのか、ビクッと飛び上がる。
「どうしたの」
話していて良い気分ではなかったので、少しトゲのある口調になってしまった。そのせいかヒカルは先程よりもビクビクとしている。
「あ、ご、ごめんなさい……」
小さな体をさらに小さくしているような様子で答えるヒカルに、そこまで怯えなくてもいいのにと考えつつ、膝を地面に着けて目線を合わせてから、できる限り優しい口調で再び質問する。
「いいから、どうしたの?」
「あ、ぇっと、ぁ」
しかし、目の前にいる子供はいきなりの状況にパニックになっているのか呂律が回っていない。
(どうしよ……っていうか、なんで私が……)
ただの人間の子供のために何をしているんだ、という気持ちがふつふつと湧き上がってくる。しかし、先程から考えていた事を思い出す。
(嫉妬……ね……)
ヒカルの綺麗な黒髪の上に手をトンと乗せ、再び質問する。
「ほら、どうしたの?」
ヒカルは一瞬驚いたような顔をして、戸惑いながら口を開いた。
「お、お腹か空いて……」
カオルは即座に納得した。
「ああ、そういうこと」
(人間は食事が必要なんだっけ、空腹とかわからないけど急いでどうにかしないとダメなの?)
いや、問題があるから真夜中でありながらここに来たのだろう。ならばカグラが帰ってくるのは朝だろうし、ヒカルの空腹を満たせるのはカオル一人だけだ。
「……作ってあげる」
ふと、気が付けばそう口に出していた。
「え……」
カオルはポカンとしたヒカルを無視し、部屋に戻ってキッチンの前に立つ。
「私のが要らないなら――」
「要る、いただきます」
先程と対して変わらない声の大きさだったが、それでいて力強い確固たる意思を感じさせた。
「……ちょっと待ってなさい」
・
テーブルを前に正座しているヒカルは戸惑っていた。
今までヒカルを避けていたカオルが、なぜか料理を振舞おうというのだ。
急な態度の変化にヒカルも驚いたが、ヒカル自身はカオルと仲良くなりたいと思っていたので断る理由は無かった。
(でも、どうして?じい様がカオル様は大の人間嫌いって言ってたし……それでも優しい人だと思うんだよね)
ヒカルは、カオルが時折遊びに来る雪狐に優しく接していたことを知っていた。
(じい様達に昔、何があったのかな)
時折人間の事が嫌いという話は聞くのだが、実は何があったのかをヒカルは知らなかった。
勿論、何があったのかを遠回しに聞くのだが、カグラは直ぐに話題を逸らしてしまう。
「お待たせ」
テーブルにコトンとスプーンと美味しそうな匂いのする料理が置かれた。
それはお肉と野菜多めのピラフだった。
「い、いただきます」
「……どうぞ」
空腹で目の前のピラフに理性を保てなかったヒカルはスプーンを短い指で無造作に握り、ピラフを物凄い速さで口に運ぶ。
その姿を見たカオルは少し驚いていたが、僅かに嬉しそうな表情をしていたのをヒカルは見逃さなかった。
(って、美味しい!もしかしてじい様のより美味しい!?)
「そんな急がなくても……まあ…いいけど」
カオルがヒカルを落ち着かせようとするが、ヒカルは聞く耳を持たず、諦めたカオルはピラフを食べるヒカルの顔をじっと見つめていた。
そして、食事が終わるのにあまり時間はかからなかった。
「ごちそうさまでしたぁ……」
「お粗末さまでした」
横で食べているところを見ていたカオルが、ヒカルの食べ終わった皿を下げる。
(しまった、忘れてた!)
「ぁ、えっと、ありがとうございます……」
作って貰ったのだからお礼を言わなければならない。
しかし、そんなこと気にもしてないようにカオルが片手を振って応えてくれる。
「ええ、気にしないで」
そして、ヒカルはどうしても聞きたいことがあった。
なぜ、急に優しくしてくれたのか。普段通りなら、気絶しそうになる殺気とも言えるような空気をぶつけてくる程なのに。
「あ、あの、どうして……」
そう質問したヒカルに対してカオルは少し悩んだような様子を見せ、しばらく経ってから今まで見せたことがないような優しい微笑みを向けて答える。
「ただの気まぐれよ」
(ただの気まぐれ……?)
「それにしても、人間の子供って賢いのね。他の生き物とは随分と違うよう……」
一瞬ビクッとなったが、もしかしたらこの世界の人間はそういうものなのかもしないという考えが頭を過ぎる。
この世界に迷い込んでしまったのでは、と思う反面それがこの世界では普通なのかもしれない。ならば、自分は誰でもない、ただの自分なのだろう。
「うーん……どうなんだろ……」
カオルに答えるでもなく、心の底からの疑問だった。
「まあいいわ。ほら、もう寝なさい。人間には睡眠が必要なんでしょ」
少し急かすようにカオルがヒカルの背中を押してくる。
「あ、はい!おやすみなさい!」
「ええ、おやすみ」
そう言って、ヒカルは元気に部屋を出た。
(今日は良い夢が見れそう。ああ、よかった……)
廊下を通って自分の部屋に戻る時、自分を誰かが見ているような気がしたのはきっと気の所為だろう。
妖狐の子 春風です @Harukaze0123
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