第2話・二人の妖狐



 ここは時間の止まった大山。

 

 人間の国から東にかなりの距離を進んだ所にある深海の森。そんな深淵の奥地には巨大な湖が隠されており、その中央に聳え立つのが人々から忘れ去られ、時間が止まっているという表現が相応しい大山である。


 山を囲う湖では小さな波がゆらゆらと愉しげに流れ、それらの行き着く先では白い泡が満月の光を反射し、またひとつと美しい波の音に消えていく。

 

 そんな湖の浜辺には月明かりの下で銀色の毛に、菫色を添えた大きな獣が波と陸地の境界線を優雅に進んでいた。

 その姿はただの獣とは違う美しさと知性を感じさせ、月が浮かぶ湖の風景と同化したその姿は神秘的とすら感じさせる。

 そして、そんな獣は大きさと身に纏う雰囲気は別物だが、狐をそのまま大きくしたような見た目だった。

 

 ふと、どこまでも進み続けていた狐の歩みは止められ、視線は一つの籠に止められた。


(あれは……)


 視線の先にあるのは高価そうな籠。そんな、今も波に打たれている籠は湖から流れ着いた物だろう。

 狐は波を掻き分ける様に籠の元へ向かい、籠の中を覗き込む。

 

 籠の中に入れられていたのは、なんと人間の赤子だった。


(なぜこんな所に人間が……)


 様々な疑問が浮かび上がってくる。

 この場所は人間など近寄る筈のない場所で、ましてや赤子を連れてこの場所に来るのは通常の人間には困難である。

 それに外界の状況については分からないが、どこまでも巨大で危険な森が続いているだけで、わざわざそこで暮らすような人間も居ない筈だ。


(さて、どうしたものか……)


 ここは人間の生きる場所ではなく、自らの手で育てるというのは気が進まない。とはいえ、自分自身もこの場所から離れる訳にはいかない。故にどうするべきか困っていた。


(それに、彼女は納得しないだろうな)


 共に暮らしている彼女はただ一人を除いて全ての人間を憎んでいる為、もしもこの子を連れて帰れば猛反対されるのは目に見えていた。

 それに、人間の育て方など見たことも聞いたこともない。

 ふと見なかったことにするという考えが脳裏にちらつくが、即座にその考えを振り払う。


(見殺しにするのは目覚めが悪い)


 なぜ赤子がこんな所にいるのか気になったというのはあるが、それよりも心のどこかで何らかの運命な気がしてならない。

 

 そうと決まればと籠の取っ手を咥え、眠っている赤子を起こさぬようにゆっくりと持ち上げる。そして、湖に背を向けて山に足を踏み入れた。

 

 夜の山は妙に静かで、胸いっぱいにひんやりとした空気を吸い込むと、生い茂る緑と土の匂いが全身に広がる。


(私も、人間が好きでは無いのだがな)


 運んでいる籠の中の赤子を見下ろし、思索に耽る。


(いや、そもそも私が育てても大丈夫なのか?人間の赤子の食事についても詳しくないからな……ふむ、いずれ大きくなったら人間の世に……?ならば最低限の力を付けさせるべきだろう)


 人間の中にも強者はいる。ならば鍛えればその域に届かずとも、自分の身を守れる程度にはなる筈だ。それに、実力がなければ人間の国まで辿り着くことすらできないだろう。

 ただ、問題は人間どころか他人を一から鍛えた経験など皆無だということ。


(そればかりは……)


「あぁぁぁぅぅ…ううぁぁぁぅぅ!」


(おっと、起きてしまったか)


 起きてしまったことに焦る反面、無事に目を覚ましたことにホッとしつつ籠を下ろし、泣き止まない赤子に顔を近付ける。


『起きるにはまだ早い、もう少し眠っていなさい』


 鼻先をツン、と赤子の頬に触れる。


「『睡魔』」


 言葉を発すると同時に体内を巡る妖気が放出され、赤子を眠りに誘う。


(さて、先を急ぐか)


 再び起こさぬ様にゆっくりと籠の取っ手を咥え、歩みを進める。





 山頂では霧のような薄い雲が流れる中、それらを消し飛ばすような朝日がひょっこりと顔を覗かせている。

 

 縁側に腰を下ろし、そんな騒がしい朝日を背にした女と、その膝の上で丸くなった小さく真っ白な狐の姿がある。

 女は華奢な体でありながら、どこか力強さを感じさせる女だった。

 銀色の髪が眩い朝日をキラキラと反射させ、和服から見える一見細い体は鍛えこまれている。しかし、その佇まう姿は儚げで、まさにこの世の美しさを体現しているかの様だ。

 

 膝の上に眠る狐を毛並みに沿って撫でる手は白魚のようで、そんな雰囲気を纏いながらも頭を見ればひと目で人間では無いことがわかる。

 銀色の髪の間から真っ直ぐと天に伸びた耳は頭程ある大きさで、とある動物の特徴を捉えたものだった。

 例えるならば、それは人間に狐の耳を取って付けたような見た目だ。

 

 そんな女は、先程からある一点を見つめ続けていた。

 それは朝日が昇るのとは逆の方向、帰ってくる家族の姿を待っていた。


「……何かあったのかな」


 狐を撫でながら問いかけるように呟くと、キューキューと喉を鳴らせて応えてくれる。


「……あの人なら大丈夫よね」


 彼女、カオルは妖狐と呼ばれる種族である。

 今は人間に近い姿をしているが、本当の姿は狐をそのまま大きくした様なものだ。

 そんなカオルは小さくため息を吐いて、誰に言うともなく口を開いた。


「どうしたんだろう……」


 普段通りならば、もう帰って来て話し相手になってくれている頃だ。


(事故……?探しに行った方がいい……?いや、でも待ってるように言われてるし)


「ああ、もう。あの人なら大丈夫でしょ」


 いくつも疑問が浮かび上がり心配になるが、信じて待つことに決めた。

 妖狐の身体能力であればこの大山ですら簡単に登ることができる。故に問題があったのなら直ぐに戻って来れるし、ここらで妖狐よりも強い者は居ないはずだ。

 ならば、私は待つだけだと顔を上げて帰りを待つことにした。


 

 朝日が木々を照らし、まだら模様の影が踊る。

 

 カオルは目を瞑って風の音に耳を澄ましていると、ひとつの大きな影に覆われた。


「お帰りなさい」


 目を開けばそこには大きな狐、妖狐の姿がある。

 妖狐特有の銀色の毛並みに紫が添えられ、その大きさはカオルよりも遥かに大きい。

 そして、その大きな妖狐の口には籠が咥えられていた。


「ああ、ただいま」


 籠の取っ手を咥えながらも、問題なく言葉を発する妖狐にカオルは質問する。


「それは……?」


「拾ったんだ」


 いつもと変わらない声で応え、籠の中をゆっくりとカオルの見える位置に下ろしてくれる。


(これは……人間……の赤子?)


 籠の中で布を身に纏っているのは人間の赤子だった。

 なんでもない、ただの人間。カオルはなぜそんな者を拾って来たのか理解ができなかった。


「言いたいことは分かっているつもりだ」


 突然のことで思考停止してしまったが、突如頭に熱いものが込み上げてくる。


「わ、分かっているならッ!」


 勢いよく立ち上がると、膝の上に乗っていた狐がキャンと慌てて飛び降りる。

 しかし、そんなこと気にする余裕は無かった。

 カオルは反吐が出る程の人間嫌いで、もしも目の前に現れたらその首を即座に掻っ切ってしまいたくなる程だ。


「その考えを否定するつもりはない。勿論私が育てる」


「絶対に嫌です」


 普段反対することなど無いカオルが、絶対に認めないという強い意志を込めて答える。

 しかし、その殺意すら感じる言葉に対しての反応は冷ややかなものだった。


「落ち着いて聞いてくれ。私は人間に可能性があると考えている。あの方がそうだったように、人間全てを嫌うのは違うのかもしれない」


 カオルもその言葉が間違っているとは思っていない。頭で理解していても感情がそれを許さないのだ。いや、妖狐が人間から受けた仕打ちを考えれば、許せるはずがなかった。


「……」


「それに、少しは賑やかになるだろう?」


(まさか……本気で……)


「か、帰りが遅かったのは……」


「起こさぬように登ってきたからな。待たせてしまってすまない」


(そ、そんな……)


 カオルは裏切られたような気分だった。

 妖狐は人間の手によって迫害され、結果追いやられるようにこの大山に住み着くことになった。

 だからこそ、未来永劫憎み続けるのだろうと思っていた。今までも、これから先も。


(それは私だけだったの……?)


「カオル」


 納得のいかないカオルを、まるで子供を窘める父親の様に説得する。


(私が間違ってるの……?もう……分からないよ)


 何も言い返せる言葉が見当たらず、沈黙が続きカオルが折れる形で会話が終わることになった。


「もう……勝手にしてください」


 カオルは背を向け、吐き捨てるようにその場を去った。





「怒らせてしまったな……」


 背を向けて離れていくカオルの姿を眺めながら呟く。

 カオルの人間嫌いは知っていたので、もう少し上手くやれたのではないかという考えはあったが、正直に言うのが一番だと思っていたのだ。

 もし不仲になってしまっても誤解を生むのは不味い。そう考えた結果、帰ってきた言葉は明確な拒絶だった。


「キューン」


 真っ白な狐、雪狐が責めるように鳴く。


「ああ、後で謝っておくよ。今はこの子を……」


(しまった。これからのことを考えていなかった)


 兎にも角にも、手足と籠に付着した泥を落として家の中に入り、籠をゆっくりと下ろす。

 スヤスヤと眠っている赤子の顔は落ち着いていて、今すぐに問題が起こるような雰囲気ではない。


(ならば必要なのは食事か?人間も他の種族と同じで母乳……だったか?いや、ミルクで問題ないのだろうか)


 ふとカオルの顔が浮かび上がるが、首を左右に振り即座にかき消す。

 元々妖狐は食事を必要とせず、食事をすることによる恩恵はあるが、必須という訳ではなかった。


(妖術で創り出せば問題ない筈だ。それと、子は親に似るという。ならば私も食事を取った方がいいか?)


 何が正解か分からぬ以上最善を尽くすべきだと考え、まだ見ぬ子育てとの戦いに挑むのだった。

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