妖狐の子

春風です

第1話・全てが始まる刻



 時折、全てが闇に消えてしまうような、そんな気持ちに苛まれる。

 空は真っ暗で、本来の静寂と寂しさを紛らわすように騒然たる光が行き交い、その騒ぎの間を通り抜けるように一人の少女は進む。

 しかし、その歩みに目的は無い。強いて言うならばその行為自体が目的だった。


 曇天から降り注ぐ虚しい霧雨が少女の髪を湿らせ、気温の下がった風が肌を撫でて妙に心地好い。

 視界の隅には雨ざらしにされていたアスファルトが街の光を反射し、星々のように輝いて見える。


(一見綺麗だけど…なんの意味も無い。私と同じ)


 もしも、自分に酔ってるのかと聞かれたら否定はしないだろう。それでも、彼女にとって必要な行為だった。

 どうしようもなく辛くても、どうしようもなく悲しくても、それら全てを受け入れるために。言わば、この行為は世界に彼女を繋ぎ止める細い糸のようなものだった。


(このまま私も消えてしまいそう)


 今まで無視してきた感情が溢れ出し、ついに涙が零れそうになる。それでも、通行人に見られないように必死に堪える。


(もしも生まれ変われるなら……私は……)


  そんなことを考えながら進み、小さな水溜まりをパシャリと踏むと、流れる波紋が水面に映した雲を蹴散らした。

 違和感を感じた少女は歩みを止め、ふと空を見上げる。


(え?)


 雨が止んだ。

 空は闇に覆われているままだったが、先程まで姿を隠していた筈のまん丸の月が少女を照らしていた。

 気が付けば先程までの心地好い風も消え、いつの間にかこの世界に残っているのは彼女だけになっていた。


(なんで急に……痛ッ!?)


 ドガンと頭の中に強い衝撃が走る。

 まるで内側から金属バットで殴られているかのような鈍痛が脳内で爆発した。


「痛ツッ!」


 唐突の痛みに為す術なくその場で蹲り、頭を押さえながら言葉にならない悲鳴を上げるが、その間もズキズキとした痛みが頭の内側から全身へ暴れ回る。


(痛い痛い痛い痛いッ!)


 張り裂けてしまうような痛みが全身を駆け回り、足に力が入らず再び立ち上がることすらできない。


(痛い痛い痛いッ!誰か…ッ!)


 助けを求めるように周囲に視線を向けるが、誰一人として彼女に気が付かない。まるでこの世界から彼女だけが消えてしまっているかのように。


(死……待って……ま……)


 蹲る少女を中心に曇天が消え去り、中心に浮かんでいる満月が彼女を見下ろしている。

 そしていつの間にか想像を絶する痛みは消え、地面に伏したまま指先の感覚が冷たく、ゆっくりと消えてく。


(……あ、あ……きれ……い……)


 しかし、少女が最後に思ったのは突然の理不尽に対する怒りでも絶望でもない、この世からの解放に対する感謝だった。

 全身の感覚がどこかに消えていくのがわかる。

 しかし、それは凍り付いた心が優しく、ゆっくりと溶かされていくような感覚だった。


 そして、最後に見た光景はその死を祝福しているようで、何よりも美しかった。





 ゆらゆらと上下左右に揺れている。

 その独特な感覚は水に浮かんでいるようだった。


(ここは……)


 目を開いてもぼやけたように何も見えない。何かを思い出そうとしても、何ひとつとして思い出せない。

 真っ暗な視界の中、感じるのは今にも沈んでしまいそうな不安定な浮遊感。


(う……うごけない……)


 寝転がっているのか、起き上がろうと力を入れるが全身に力が入らず、指先すらも自由に動かせなかった。

 そんな状況で不安と恐怖が交互に入り交じり、抑えられない感情が溢れて喉に熱いものが込み上げてくる。


「あぅぅ…ううぅぅ」


 声を出そうとするが、喉を震わせることはできても思うように声が出せない。

 そして僅かに動かせる指には力が入らず、起き上がれるような気配は一切なかった。

 まるで自分の考えに体が言うことを聞かないような、そんな感覚だ。


(どうして……!?)


 理解できない状況に慌てて体を揺らすが、それと同時に自分を浮かせている何かが大きく揺れる。


(ひっ……)


 揺れる感覚は水に浮いているようで、もしもこの体を自由に動かせない状況で沈んでしまえば、確実に死んでしまうだろう。

 もはや、為す術なく文字通り流れに身を任せるしかなかった。

 

 だが、しばらくしないうちに上下の浮遊感が小さくなり、左右の揺れが強くなってきた。


(いったい、いつまで……)


 しかし、そんな不安とは裏腹にガガガガッと引きずられるような強い衝撃を受け、同時に先程までの浮遊感が消えた。


(はぁ、はぁ……と、とまった……?)


 どこかに流れ着いたのだろうと安心するが、このままでは飢えて死んでしまうことは明白だった。

 今はまだ空腹ではないが、どちらかと言うと抗えないような眠気に襲われ始めていた。


(このまましんじゃうのかな……いやだな……)


 体も自由に動かせず、記憶すらも曖昧な状況で意味の分からないまま死ぬのは嫌だった。

 それでも、長時間なにも見えない状況が続き再び恐怖が湧き上がってくる。


(だれか……たすけて……)


 もしも今、目を瞑ってしまったら眠っている間に死んでしまうかもしれない。それでも抗えない力が闇へ誘い、徐々に意識が沈んでいくのがわかる。


(だ……ぇか……)


 眠りを受け入れると、意識を手放すのに時間はかからなかった。


 

 それから必要以上の長い時間を眠り続け、長い間閉ざされていた瞼を開くのには多少の勇気が必要だった。

 

 また、揺れている。

 

 重い瞼は思っていたよりも簡単に開き、気温が低いのか体全体が冷たくなってきているような気がする。


(ここは……みずのうえじゃない……?)


 今度は振り子の真似事をしているかのように空中を左右に揺れており、最悪だった状況が変わたことにホッとする。

 しかし未だに視界は朦朧としており、濁った水の中にいるようで気分は良くなかった。それに加えて体も思った通りに動かせず、泥に埋もれているかのように重い。


(あれ……?)


 思考が落ち着いてきて、冷静に考えると体が妙に小さいような気がする。

 手を握ろうとしても力が入らず、まるで体を動かす筋肉自体が発達していないような、それに加えて声も出せず視界も悪い。


(あ、え?え!?うそ……もしかして……)


 焦る気持ちを抑えつつ状況を照らし合わせると、この体は元の自分の体とは明らかに違う気がする。


(ちいさいからだになってる……?)


 いや、そんなはずはないと否定するが、完全に否定することはできなかった。むしろ考えれば考えるほど当てはまっているような気がするのだ。


(いや、おちついて……まだあわてるときじゃない)


 体が小さくなっているとは言わば、赤子になっているという事だ。


(じゃあわたしは……いや、いまはじょうきょうを……)


 絡まった紐を解くように記憶の中を探り、夜道を歩いていた時突然の頭痛に襲われたことを思い出す。


(そして……めがさめたらここ……?)

 

 現状は籠のような物に入っていて、初めて目が覚めた時はきっと海や湖の上に浮いていたのだろう。そして流れ着いた先で眠ってしまった。


(そしていまにいたる、と……)


 思考を回転させることで落ち着きを取り戻しつつ、現在進行形の問題について考える。

 まず、この浮遊感は誰かが自分を運んでいるものに違いない。しかし、問題はどこに向かっているのか、運ばれているとして自分を運んでいる者は善人なのか、悪人なのか。


 そして、そもそも人間なのか。


(……もしかして、かなりあぶない……?)


 すると不安な気持ちが、止められない感情が溢れ出してくる。


(ぁれ?ぇ?)


「あぁぁぁぅぅ…ううぁぁぁぅぅ!」


 急に爆発した感情に驚きながらも、顏に熱いものがこみ上げてきて大声で泣きじゃくる。不安と恐怖、それらの感情が制御できずにいた。

 

 するとコトン、という感覚と共に揺れが収まる。


「うぅぅ」


 どうやら地面に置かれた様で、不安定な揺れは無くなった。

 ふと顔を上げると頬に冷たく硬いものが触れ、別の意識が流れてくる。


『起きるにはまだ早い、もう少し眠っていなさい』


 暖かい何かに包まれるような感覚。それはまるで幼子が母に抱かれるような、そんな安堵の温もりに包まれた。

 いつの間にか恐怖など消え失せ、再び持ち上げられるような浮遊感と共に強烈な睡魔が襲いかかってくる。


(う……)


 寝てしまっても良いのか悩んだが、不思議と今回はこのまま身を任せて眠ってしまっても大丈夫な気がした。


(まあ……いいか)

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