井ノ島との接触~④
「今は落ち着いているのかもしれないですね。事件発生から一カ月余り経ちますし、そんなものでしょう。歩いている人達からもそうした会話は聞こえてきません」
目で確認できない分、須依ができるのは耳による調査だ。自分達もそうだが、三回目のワクチン接種は進みつつあるけれど第六波がなかなか治まらない今、感染予防の為に多くがマスクをしている。
その影響もあり、大声を出す者は滅多にいない。その分周囲は静かだった。それでもあちらこちらで、通常の聴覚だと拾えない程度の話し声はしている。それを聞き取るのが須依の役割だ。
「空振りに終わるかもしれないってことか」
「それならしょうがないでしょう。取材なんて無駄足をどれだけ踏むかが勝負です。昔そう教えてくれたのも烏森さんじゃないですか」
するとやや間を空け、躊躇いながら口を開いた。
「確かにそうだが、須依はそれでいいのか。今更だけど」
発言の意図を察した為、平然と答えた。
「収穫がないと確認するのも私達の仕事です。それが例え会いたくない人だった場合でも変わりません。私情を挟んでの取材など無理でしょう」
視力を失って落ち込んでいた頃、あらゆる愚痴を彼にぶつけていた。それを全て受け止め、励ましてくれたことを覚えている。よって井ノ島との関係をそれなりに知る彼なりの気遣いだと感じたからこそ、強がって見せた。
「申し訳ない。最初から覚悟した上でなければ、こんなネタは持ってこないよな」
「そうですよ。また幸いにも、彼の顔は見えませんからね」
須依の自虐ネタを聞き、鼻で笑った気配を感じた。どう返答していいか言葉に詰まり、苦笑いしたようだ。
そうしている間に烏森の様子が変化した。どうやら現れたらしい。そう察した瞬間、声が聞こえた。
「お待たせしました。井ノ島です」
久しく耳にしていなかった響きが耳に届き、須依は動揺した。心の準備はしていたつもりだったが、十数年の時を経て磨き上げられた感知能力のせいだろう。ほんの短い言葉と
意識せずとも戸惑いや驚きと懐かしみや恐れ、怯えなどの想いが流れ込んできた。それらを察知してしまった為、想定していた以上の衝撃に襲われ
言葉を発っせずにいる須依を見て、彼は気付いていないと勘違いしたらしい。もう一度声を掛けてきた。
「お待たせしました。井ノ島です。久しぶり。元気だったか」
須依の態度から察した烏森が、代わりに答えてくれた。
「お忙しい所、突然お邪魔して申し訳ありません。私は彼女のかつての同僚で、今も一緒に仕事をしている烏森と申します」
名刺を渡したのだろう。その肩書を見て驚いたに違いない。
「東朝新聞の方ですか。ということは須依、さんも、まだ記者をしているのか」
慌てて敬称をつけ呼んだ言葉に反応し、須依は心を落ち着かせる為にゆっくりと立ち上がった。そして今度はフリージャーナリストと書かれている名刺を出して告げた。
「お久しぶりです。あらためまして、須依南海と申します。今はかつての職場だった東朝新聞さんのお世話にもなりながら、フリーで記者を続けています。よければお座りになってお話をしませんか。積もる話もありますよね」
通常ならマスコミの取材だと気付き、そのまま立ち去られてもおかしくない。それを防ぐ為にそう言った。
これには二つの意味がある。一つは視覚障害者を立たせたままにするのかというアピールで、もう一つは取材だけでなくかつての元カノとしてここへ来たと思わせる為だ。
「この会社に転職していたのね。いつ頃からなの」
「もう十二年になるけど、俺がここにいるってどこで知ったんだ」
警戒を解かない彼の質問をはぐらかし、話題を続けた。
「ちょっとした情報筋からよ。前の会社で経理部だったから、ここでも同じ部署に配属されたようね」
「名刺も渡していないのに、どうして分かるんだ」
佐々から聞いていたからだが、そうは言わず答えた。
「そんなことはどうでもいいじゃない。それより名刺は頂けないのかしら。目が見えないからって必要ない訳じゃないのよ」
今は昔と違って便利になった。貰った名刺や書類等はスキャナーで読み取り文書化すれば、読み上げ機能を使って耳で聞ける。
自分がパソコンで打った文章も、そうして最終確認ができるからこそ記者を続けてこられたのだ。また取材相手との会話も録音しておけば、後で書き起こせばいい。
ちなみに通常は事前に録音していいですかと確認するのだが、今は内緒で白杖の中に仕込んだボイスレコーダーを使用していた。最初から取材という形式を取れば、相手は必ず拒否すると分かっていたからだ。
「申し訳ありませんが、私にも頂けますか」
烏森がそう促すと、
「ほう。経理部部長代理ですか。須依の同級生だと伺っていますから、四十四歳前後ですよね。これだけの大企業で転職組にしては、かなり出世が早くないですか」
答えたくないのか質問を聞き流した彼は、須依に話を振ってきた。
「今日は一体、何の用だ。取材なら断る。広報を通してでないと話はできない」
「まあまあ、落ち着いて。確かに今あなたの会社は、情報漏洩の件で騒がしくなっていると思うわよ。そんな状況なのに突然訪ねて来た私の面会を受け入れてくれたのは、あなただって話したいことや知りたいことが少しはあったからじゃないの」
図星だったのだろう。言葉を詰まらせたが、なんとか口を開いた。
「今は基本的に外部との接触を禁止されている。だが十数年振りに君が来てくれたんだ。受付で冷たく追い返す訳にはいかないだろう。ただそれだけだよ」
「有難う。相変わらず優しいのね。さっきこの会社に来たのは十二年前だと言っていたけど、詩織と結婚してからすぐじゃない。そういえばこの会社は早乙女グループと繋がりが深かったわよね。もしかしてその伝手で入ったの。それとも無理やり転職させられたとか」
彼は大きく溜息をついてから言った。
「そうじゃない。彼女のお義父さんの紹介なのは確かだ。けれど更なるキャリアアップの為であって、無理やりなんかじゃない」
「そうなの。だったらいいけど、ずっと経理畑なのね」
「しょうがないだろう。こういう仕事は専門職みたいなものだ。それに俺は学生時代から簿記や税理士資格を取得していたしな。その上二十年以上経理一筋でやってきたから、この年で部長代理になれたんだ。コネで出世したと思うかもしれないが、俺なりに努力した結果なんだよ」
やはり先程烏森が触れた件を気にしていたらしい。彼らしい反応だと思いつつ、首を横に振って言った。
「私はそんな風に思っていないわよ。彼も悪気があって言った訳じゃないから。あなたが優秀だったのは良く知っているし」
間を空けた後、再び彼は言った。
「それで今日は一体、俺に何の用だ」
「何よ、つれないわね。詩織は元気にしているの」
「お前、本気でそんなことを知りたいのか」
本音では聞きたくなどない。本題へ入る前の準備段階として必要だった為に触れただけだ。それでも敢えて笑顔を作り答えた。
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