井ノ島との接触~③

 彼の障害は左足だけの為、運転には全くと言っていいほど支障はない。それどころか昔陸上の選手だった彼は、社会人になってから完全に辞めていた中距離走を、障害を負ってから再び始めた程だ。

 僅かなプライベートの時間には、カーボンなどの特殊素材を使った障害者アスリート用の義足に履き替え、トラックを走ったりして体を鍛えているらしい。その結果今や、パラリンピックに出場可能と期待されるほどの記録を持つとも聞いている。

 仕事が忙しく家庭もある為、本格的な練習を行う時間は余り取れないはずだ。もし本気で取り組んでいたなら、昨年東京で行われたあの大舞台に立っていたかもしれないという。

 まだ視力を失う以前に見たが、もちろん普段は普通の義足だ。スラックスの下につけているので、一見しただけでは分からない。よって取材相手が最後まで、障害者だと気付かない場合もあると聞く。

 お昼近くだった為、途中でコンビニに寄って外に出たところ、心地いい春風が頬に当たった。穏やかな日差しに温められたのだろう。

 二人はサンドイッチとおにぎり、飲み物を購入した。そこで須依は移動中の助手席でこぼさないよう、注意してゆっくり食べているとからかわれた。

「何故ツナおにぎり三つにツナのサンドイッチなんだ。量も多いがそれなら別の味にしろよ。それに何故スポーツ飲料を選ぶ」

「だって好きなんだからいいじゃないですか」

 味覚音痴みかくおんち大食漢たいしょくかんを鼻で笑った彼は、ペットボトルのお茶におかかと鮭のおにぎりを一つずつ購入したらしい。

 会社の訪問者用駐車場に停車させ、それを運転席に座ったまま三分で食べ終え彼は外に出た。この業界にいると早食いは仕事における最低限のスキルだ。

 その為須依も急いで呑み込み、追いつこうと車を降りる。そこで彼は待っていて、手を取り自分の肘に絡ませ慎重に歩き出した。コンビを組むようになって長いからか、この辺りの呼吸に無駄がない。しかも他の人とは断然安心感が違う。

 彼の先導で自動ドアを通りビルの中へと入った。まずは受付に寄り、井ノ島を呼び出して貰う必要がある。もちろんアポなど取っていない。よって断られる可能性は高かった。

 大手新聞記者の名刺を持つ烏森の名では、今のタイミングだとまず会ってなど貰えないだろう。しかし白杖を持った須依の名で訪問を告げれば、かなりの確率で面会できると踏んでいた。

 かつての大学の同級生であり、結婚まで考えていた相手だから性格は把握している。よって十数年振りとはいえ、彼ならさすがに門前払いはしないだろうと予測していた。

 その一方で、須依の胸の動悸は鳴りやまなかった。烏森の前では腹を括ったかのように振舞っていたけれど、内心は彼とまともに話せるかどうか、懸念が残ったままだったからだ。

 それでもここまで来て逃げ出す訳にもいかない。よって平静を装い、想定してた通り受付の女性に肩書がフリーランスとなっている名刺を渡しながら告げた。

「アポはありませんが、経理部の井ノ島竜人さんとお会いしたいので取り次ぎをお願いします」

 依頼通り彼女から内線を通じ連絡はしてくれたものの、その気配から当初彼は困惑した反応をしていたようだ。何故突然現れたのか、しかも知らせていないはずの転職先の会社に訪ねてくるなんて、何の用件なのかといぶかしんだに違いない。

 それでもしばらく待たされた後に告げられた。

「少しあちらの席でお待ちいただけますか」

 読みは当たった。複雑な心境でいた須依に、やや離れた場所にテーブルと椅子がいくつかあると、横にいた烏森が耳打ちしてくれた。そこで座っていれば、彼がここまで来てくれるらしい。ビルは二十五階建てだという。その何階に彼の部署があるのかは不明だ。

 別れてから全く連絡していなかったというのに、この状況下で会ってくれるのだから有り難い。といっても盲目となった障害者の元カノを追い返す度胸など、やはり彼にはなかったのだと苦笑せざるを得なかった。

 それに聞き耳を立てて確認したところ、受付の女性は小声で男性が一緒だと説明をしていた。その為彼なら一体どんな奴だろうと、興味を持つに違いないとも思っていた。

 プライドが高いからか、非情な行為をしておきながら自分の事は棚に上げ、人がどうしているのか気になるのかもしれない。

 今ならそんな奴だったと分かるが、付き合っていた頃には気づかなかった。恋は盲目とはよく言ったものだ。それに肝心な事は、目に見えるものでなく心で視るものだと、視覚障害者になった須依は身をもって経験している。

 十分ほど待っただろうか。彼にどういう質問をぶつけるかは既に烏森と打ち合わせ済みだった。よってその間、彼は辺りを見回し会社を出入りする人達の様子を探っているはずだ。

 現在の当該企業は、情報流出騒ぎによってマスコミだけでなく警察からも注目されている。当然取材規制を敷かれ、広報を通さない関係者は敷地に入れなくなっていた。

 よって行き来できるのは、基本的に社員か取引先の人に限られているのだろう。けれど警察は例外だ。烏森はそうした人物をチェックする役目を負っていた。

 もちろん須依達は身分を隠し、単なる訪問者を装って入った。全くの嘘ではないし、また警備員達もまさか視覚障害者が記者だとは思わなかったに違いない。

 さらに同伴者の烏森もわざと左足のスラックスをまくり上げ、義足が見えるようにしてぎこちなく歩いていたはずだ。事前に立てた作戦が功を奏したからこそ、受付まですんなり辿り着けたのである。

「今のところ、警察関係者らしき奴は見当たらないな」

 彼が小声で呟いた。

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