情報漏洩事件発生~⑦

 何を言っているのか分からず首をかしげると、溜息が聞こえてきた。

「そうか。知らないのならそれでいい。政治家や官僚達だけを追いかけていれば、関わる可能性も無いからな。悪かった。じゃあな」

 再び立ち去ろうとした為、慌てて尋ねた。

「どういう意味よ。あいつって誰なの。はっきり言わないなら、もっとしつこく付きまとうから」

 しばらく躊躇したらしく間が開いた後、ようやく口を開いた。それは驚きの言葉だった。

井ノ島いのしまだよ。井ノ島竜人りゅうと。あの会社の経理部にいる」

 須依は固まった。十数年振りに聞いた名前だ。それでも覚えている。忘れるはずがない。かつて結婚まで考えていた元彼だからだ。 

 同じ大学の同級生である佐々は、それを知っていたからこそ言いよどんでいたのだろう。しかし疑問を持ち聞いた。

「彼の勤務先は不動産会社だったはず。もしかして転職していたの」

「そうだ。しかも早乙女さおとめ財閥のコネらしい。あの会社とは関係が深いからだろう」

 またも久しく耳にしていなかった名だ。井ノ島は須依と別れた後、かつて親友だった早乙女詩織しおりと結婚した。彼女の家は代々続く名家で資産家だった為、当時彼は逆玉を狙ったのだと周囲から陰口を叩かれていた事を思い出す。

 さすがに言葉を失っていると、佐々は気を遣ったらしい。

「もう昔の話だろうが、政治家達を追いかける仕事に専念していれば、まずからまないはずだから気にするな」

 そう言い残し今度こそ立ち去った彼に、須依は何とか口にした。

「ありがとう。じゃあね、また」

「ああ」

 彼は振り返らずに返事をしたらしい。こもった声が須依から離れていく。ぼんやりとしか見えないその後ろ姿を眺めながら、須依は呟いた。

「よりにもよってあの人が」

 頭の中で前例のない危険信号がともる。ただ別の疑念が湧いた。

 あの会社に井ノ島がコネを使って転職した事実を、何故彼は知っていたのか。もしかすると捜査する中で、何らかの関係者として彼の名が挙がったのではないか。

 彼の言う通り、このまま与えられた仕事だけをしていれば、古傷に触れる必要はないだろう。それなりの時間が経っているとはいえ、正直言えば完全にトラウマが消えているとは言えない。

 人生には多くの試練が待っている。その中の一つが視力を失ったことだろう。実をいうと、中学生の頃から視力は徐々に低下していた。最初はメガネやコンタクトで矯正きょうせいしていたが、時々突然視野が狭くなったりもした。

 大好きだったサッカーを高校で辞め勉強に励むようになったのは、それが隠れた理由の一つでもあった。けれどなんとか大学に入り社会人となってしばらくの間は、日常生活や仕事に支障がなかった。 

 しかし当時付き合っていた井ノ島とのデートの最中、急激な視力低下に襲われふらふらと倒れたのである。 

 そこで慌てた彼に連れられ病院に駆け込んだところ、網膜もうまく色素しきそ変性症へんせいしょうという目の難病にかかっており、最悪の場合は将来視力を失う恐れがあると言われたのだ。

 網膜色素変性症とは、光を神経の信号に変える動きをする網膜に異常をきたす遺伝性、進行性の病気である。四千人から八千人に一人の割合で発症し、明らかに遺伝が認められるのは全体の五十%だという。 

 ただ遺伝が確認できない場合でも、遺伝子のどこかに異常があると考えられていた。症状としては、暗い所で物が見えにくくなるまたは視野が狭くなるなどし、病気の進行と共に視力が低下していくと告げられた。

 その段階の進み方は個人差があり、三十代でかなりの視機能が低下する人もいれば、七十歳でも良好な視力を保つ人がいるという。よって暗黒になるケースは余り無いと言われていた。

 しかしこの病気には当時も今も、元の状態に戻すまたは確実に進行を止める確立した治療法は残念ながらない。

 しかも須依は大学から付き合っていた彼と結婚するつもりでいた。けれど病状を聞き怖気おじけづいたらしい。家庭を持つとなれば、将来視覚障害者になる可能性の高い女性と暮らす覚悟が必要だ。そんな勇気があるかと問われれば、多くの人は躊躇ちゅうちょするのも当然だった。

 今となってはそう理解できる。だが当時はなかなか受け入れられなかった。しかし結局彼は須依と別れる道を選んだ。

 しかも失ったのは視力と彼だけではない。健常者だった頃のかつての友人達は、須依の病状の進行につれ多くが離れていった。

 おそらくどう接していいか分からなくなったか、気を遣うことに疲れたのかもしれない。そう感じるのが嫌で、須依から遠ざけた人もいた。

 親しかった人達でさえそうなのだ。障害者が身近にいない他人にとっては尚更なおさらだろう。その中で最も辛かったのは、親友と呼んでも言い程仲が良く大学の同級生だった詩織まで離れ、さらに彼女が井ノ島と結婚したことだった。

 それからだ。頭では理解していても心がついていかなくなった。恋愛や人付き合いが怖くなり、その後一切異性はもちろん、同性にさえ心を開けなくなった時期があったのだ。

 的場からの告白を拒絶してからも、一切色恋沙汰などに興味を持ってこなかった。四十をとっくに過ぎ相手の姿形も見えない視覚障害者が、現実問題として誰かの妻になるなど今更無理だと考えていたからだ。

 本人同士の問題だけでなく、周囲がまず反対するだろう。ただでさえ恋愛という煩わしい駆け引きをする気力など無い。そんな中で、分かり切ったゴタゴタに巻き込まれてまで貫きたいほどの感情が、今後芽生えるなんて想像できなかった。

 実際的場にも、そこまでの気持ちにはなれなかった。告白は有難く素直に嬉しかったし、こんな自分でも好きになってくれる人がいるのかと勇気づけられはした。だがやはりそこ止まりだった。

 よってあれからも、好意を寄せてくれているらしい人と接してきたが、わざと気付かないまたは素っ気ない振りをしてきたのだ。

 そんな須依が、あの井ノ島と再び会ったとしたらどうなるだろう。そう考えただけで胸がざわついた。もし話をする機会を持てば、この程度の想いでは済まないと想像できる。

 それでも記者としての直感が働いた。ここに何かがある。一連の事件には余りにも謎が多い。犯人は海外のハッカー集団なのか、それとも国内にいる者なのか。

 さらに目的はお金なのか、それとも情報漏洩による政治家達への制裁なのか。そうだとすれば動機は何か。また膠着している現在の状況を、犯人達は今後一体どうするつもりでいるのか。

 現在のところ、そうした疑問を解く道筋は全く見えておらず、手がかりすら掴めずにいる。

 その為に戸惑いはあったものの、一度探ってみようと決断をした。僅かながらでも謎に近づきたい。それが記者としての使命だからだ。

 それに佐々は単なる雑談として口にしたのではなく、悶々とする須依に対し、何か得られるきっかけを与えてくれたに違いない。漠然とだがそんな感触を持っていた。

 しかしそれは禁断の道だったと、後に痛感させられるのだった。

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