「追跡」
自宅への帰り道をたった一人で歩いている優利。その光景は、同行者が三人もいた朝の時とは打って変わって静かなものである。
……いや、違う! 彼だけではない! 彼の後方、距離にしておよそ四メートルほど離れた場所にて、何やらこそこそと怪しい動きを見せる人影があった!
そこにいたのは――彼と同じ学校の制服を着た、ポニーテールの少女である! なんかもうすでにいやな予感しかしないが……一体この少女は何者なのか!?
「ふぅ……。うちの尾行、どうやらまだ気づかれてないっぽいっすね。よきよき」
よくよく見れば、その少女の目はまるで小学校での習字の授業の際に使われていたバケツの中身のようにどこまでもどろどろと黒く濁っている! ということは、やはりそうなのだ!
少女の正体見たり! 彼女もまた優利に対して重い愛情を抱く者が一人、対象を背後からひそかに追いかけ続ける、いわゆるストーカー系統のヤンデレであった!
▽ 私立青鸞高等学校 一年三組 出席番号五番
《ステータス》
・スピード……『B+』 ・パワー……『C+』
・スタミナ……『C+』 ・メンタル……『C』
・テクニック……『D-』
備考:相手を追跡することを好むヤンデレの少女。足の速さに自信があり、気配を断つことも得意とする。
「いやー、にしても優利パイセンの背中は相変わらずがっしりしてるっすねー。いつ見てもほれぼれするっすよ」
ああ、なんということだろうか……。
先ほどからずっと跡をつけられているにも関わらず、彼はそのことにまったく気づいていない! 背中もまじまじと見られているというのに!
まさかあの有利に一切悟らせないとは……! 追川 真白、恐るべし……! その技術は、まさしく彼女が並のヤンデレではないことの証左である!
「ん~、これはもう決まりっしょ。この勝負、うちの勝ちっす!」
くつくつと声を押し殺して笑う真白!
彼女は自らの勝利を確信していた! 彼が、優利が自身の存在に気づくことは決してない! もはやそんなことはありえないと!
しかし、その時である!
「――なにっ!」
彼女にとって想定外の事態が起こったのだ! 前を歩いていた彼が、突如として後ろを振り返ったのである! これには彼女も驚きを隠せなかった!
いや、彼女が驚愕したのはそれだけが理由ではない! 後ろを振り返ったその人物が――なんと優利とは似ても似つかぬ別人であったのだ! 信じられない! 一体全体これはどういうことなのか!?
「あんた誰っすか!?」
「いや、聞きたいのはこっちの方なんだけど……。なんでさっきからずっと俺の跡をつけてきてんの? なんか用?」
「えっ……。いや、その、えっと……」
「なに? はっきりしてくれない? 用がないならもう行くけど」
「う~……ごめんなさい! 人違いでした!」
見知らぬ男性はため息をついて去っていった。
なぜ自分は赤の他人の跡をつけていたのか、そしてなぜ自分はその事実に気づくことができなかったのか。なんとか答えを導き出そうと思案するも、うまく考えがまとまらない。真白は激しく動揺していた。それほどまでに彼女が受けた精神的ショックは大きかったのだ。
「……いや、違う。そんなことよりも優先して考えなければならないのは、今現在の優利パイセンの居場所であって――」
「俺ならここにいるぞ」
背後から聞こえたその声は、彼女がよく知るものであった。
「愚かなり真白……ストーカーでありながらターゲットがすり替わっていたことに気づかず、そのまま無関係の人間の背を追い続け、そしてしまいにはこうもあっさりと背後を取られるとは。実に嘆かわしいことだ。そんなありさまではストーカー系ヤンデレの名が泣くぞ?」
そこにいたのは――もちろん彼だ! その名も西園寺 優利! 世界的にも有名な大企業、あの西園寺グループの御曹司にして、常日頃から数々のヤンデレ少女たちと愛の重さを競い合っている青年である!
もはや真白は苦笑いを浮かべるより他なかった。
自身の追跡をかわされたどころか背後まで取られてしまったのだ。ストーカー系統のヤンデレなら、本来このようなことは絶対にあってはならない。
「あー、恥ずかしながら返す言葉もないっすね……。一応聞いておきたいんすけど、そもそもなんでうちの『ストーキング』に気づけたんすか? 気配は完全に断っていたつもりだったんすけど……」
「確かにお前の気配の遮断は完璧だった。だが、お前が消せるのはあくまでも気配だけだ。実体が存在している以上、お前は鏡に映る。……この意味が分かるか?」
「――カーブミラー、っすか」
「いかにも。後はもう説明するまでもないだろう。跡をつけられていることに気づいた俺は、たまたま前を歩いていた見知らぬ男性を利用して、逆に真白の背後に回り込んだという訳だ」
「なるほど、要はうちの凡ミスが原因だったってことっすね……。パイセンだけでなく、もっと周囲の環境にも目を向けておくべきだったっす……」
がっくりと肩を落とす真白。
そんな彼女に向かって己の勝利を確信した彼は言い放つ! 敗北を喫した彼女へのとどめの一言である!
「どうした! お前の愛はその程度か! どうやらお前のそれよりも、俺の方が重いらしい!」
「うぅ……情けないことこの上ない……」
「この勝負――俺の勝ちだ!」
「ぎゃひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
真白の精神は爆発した。
このまま彼女を放置しておく訳にはいかない。地面に倒れた彼女の体を担ぎ上げると、優利はどこか落ち着ける場所を求めて歩き出したのだった。
「優利パイセン、本当にいいんすか?」
「ああ、二千円以内なら好きなのを頼んでいいぞ」
「じゃあ遠慮なくお言葉に甘えさせてもらうっす! ん~、何にしようかな~。とりあえず飲み物はアイスコーヒーにして――」
現在、二人は喫茶店にいた。
精神が爆発した影響から先ほどまでぐったりとしていた真白だったが、今となってはすっかり元通りである。
顔をほころばせてケーキを食べる彼女の顔を眺めながら、優利もテーブルへと運ばれてきたサンドイッチに口をつけた。
それからしばらくして、食事を終えた二人は仲よく会話し始めた。話題はもっぱら学校生活にまつわることである。
「学校の方はどうだ? もう慣れたか?」
「そうっすね。最初こそ教室の場所が分からなくなるなんてこともあったりしたんすけど、今はそんなこともないですし。授業にも特に問題なくついていけてるっす」
「そうか、それはよかった。……そういえば部活動はどうしたんだ? まだ陸上は続けているんだろう?」
「それなら今日は休みになったっす。なんか顧問の先生が体調を崩したらしくて」
「なるほど。だから今日は俺をストーキングしていたのか」
「はいっす。まあ、負けちゃったんすけどね……。優利パイセンは相変わらず強すぎるっすよ……」
そう言って真白は円を描くようにくるくるとストローを動かした。氷同士がぶつかり合い、からからと音を立てる。
「はぁ……。なんでパイセンはそんなに強いんすか?」
「なんでって、それはもちろん俺が――」
「あー、いいっすいいっす。どうせまたいつもの『世界的にも有名な大企業、あの西園寺グループの御曹司で、幼い頃からありとあらゆる英才教育を受けてきたから』ってやつでしょ? 知ってるっす」
「なんだ、よく分かってるじゃないか」
「そりゃあもう。今までに何回聞かされてきたと思ってるんすか? もう覚えちゃったすよ、パイセンのそのフレーズ」
うちが聞きたいのはそういうことじゃないんすよね――グラスに残ったアイスコーヒーを一気に飲み干すと、彼女はそのまま言葉を続けた。
「なんか弱みとかないんすか?」
「弱み? 俺のか? ……これまた随分と直球できたな」
「いや、だってパイセンめっちゃ強いですし。真っ向からの勝負だと、どうやってもこっちが勝てないのは分かりきってるっす。ってな訳で、パイセンの弱点をプリーズテルミーっす! ほら、ハリーハリー! ハリー!」
「残念ながら俺にそんなものは存在しない。俺に勝ちたければ、己がもつその技能をただひたすら磨き続けることだ。そうすれば自ずと光明も見えてくるだろう」
「ちぇっ、要は地道に努力を積み重ねるしかないってことっすか……。まあ、それもそうっすよね。パイセンに弱点があるのなら、うちらヤンデレがそれを見逃すなんて絶対にありえない話っすから。……つまるところ、優利パイセンはこれまでの人生で一度も精神が爆発した経験がないんすよね? 本当にすさまじいっす」
数々のヤンデレ少女たちからぶつけられる重い愛情をものともせず、それどころか返り討ちにしている男である。常勝という言葉がこれほどまでに似合う人物を真白は知らない。どうせこの問いかけに対しても彼はないと即答するに違いない、彼女は内心でそう思っていた。
ところが、次に彼の口から発せられた内容は非常に衝撃的なものであった。それは口の中でころころと氷を転がしていた彼女が、思わず噛み砕くことを忘れてごくりと飲み込んでしまったほどである。
「……あるぞ。精神が爆発したことは」
「――っ、はぁ!? え、あるんすか!? マジで!?」
「……ああ、一度だけな」
……到底信じられなかった。世界的にも有名な大企業、あの西園寺グループの御曹司で、幼い頃から英才教育を受けてきた彼に……常日頃数々のヤンデレ少女たちと壮絶な闘いを繰り広げ、そして最後には必ず勝利を収めている彼に……まさかたったの一度でも敗北を喫した経験が存在するだなんて……。
ショックのあまり呆然としてしまう真白。
そんな彼女を尻目に優利はテーブルの上の伝票を手に取る。
「さて、俺はそろそろ帰るが……真白はどうする?」
「えっと、そうっすね……。もうちょっとしたらうちも帰るっすよ」
「そうか。それじゃあまたな」
「はいっす。機会があれば、また一緒にご飯とか食べに行きましょう」
「……俺のおごりで、か?」
「もちっす」
「ふっ、お前は相変わらずいい性格をしているよ」
彼は一足先に喫茶店を出ていった。
一人その場に取り残された彼女は先ほどの彼の発言を反芻する。かつて一度負けたことがある、それはつまり彼が必ずしも無敵ではないということだ。
これが実は真白を惑わすための嘘だった、なんてことは彼の性格上ありえない。彼はそのようなつまらない嘘をつく人間ではない。
ならば、その事実を知った自分が次にすべきことは――
「この情報を早くみんなにも伝えないとっすね。若干下がりつつあったモチベも、これで少しは回復するっしょ」
にんまりと笑みを浮かべた真白は鞄から携帯を取り出すと、そこに勢いよく文字を打ち込み始めたのだった。
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