80609:34
男性は立ち止まると、僕の顔を心配そうに見つめた。
なんか……地味で冴えない外見だなあ。
でも人は良さそうな感じ。
興味を持ってくれたのは嬉しいけど、どうせすぐ目移りするに決まってる。
だって僕はお洒落じゃないし、優れた機能もない。
小さな工場で作られた、無名の腕時計だから。
周りと比べたら個性がないし、見た目と値段が釣り合っていない。
だから売れ残ってるんだ……と思う。
この人だって、ほかの時計を買うに決まってる。
べつにいいもん……えっ?
ショーケースで過ごす二十四時間は、唐突に終わりを告げた。
目の前の男性が僕を選んだ。
なんで僕なんだろう……?
同じ値段ならもっと良い時計があっただろ。
買い物につき合っていた連れが、不思議そうな顔で質問する。
男性は僕のベルトの閉まり具合を確認して、こう言った。
この時計だけ寂しそうだったから。
思ってもいない言葉だった。
そんな理由で選ぶなんて……ちょっと変わってるけど、ありがとう。
これからよろしくね。ご主人。
初めて店の外に出る。
街路樹に並ぶ桜がまぶしい。
僕の新しい時間が始まった。
ご主人はどこへ行くにも、僕を連れて行ってくれる。
会社にも、近所のスーパーにも、公園の散歩に行く時も。
春も、夏も、秋も、冬も。
外出するときは、いつもご主人の腕に抱きついていた。
だからご主人の性格も、
誠実で
僕を床に落としたり、机にぶつけたりはよくあること。
ガラスにヒビが入ったのは、一度や二度じゃ済まない。
腕に着けたままお風呂に入ったこともある。
故障はしなかったけど、文字盤の中に水が入って大変だった。
生傷は絶えないけど、そのたび修理に出してくれる。
ほかの腕時計を買うことはしない。
僕がご主人の唯一の時計。
僕だけを大切にしてくれる。
ご主人に出会えて良かった。
こんなに素敵な人なんだ、幸せになってほしい。
そう願いながら、いま僕は、ご主人の
高価なディナーを挟んで座っているのは、職場の同僚。
ご主人の意中の人だ。
態度に出さなくても、腕に抱きついていれば分かる。
見かけたり話すたびに、脈拍が早くなっていた。
いまは、これまでと比べ物にならない緊張が伝わってくる。
窓の外を見て「今年初めての初雪ですね」なんてぎこちない会話をするくらいだ。
きっと料理の味なんて分からないんじゃないかな。
デザートを食べる頃には私生活の話題になり、僕の話も出てきた。
ずっと大事にしたい。
そんな嬉しいこと言われたら、針がぷしゅーって飛んでいっちゃうよ。
相手の女性も楽しそうに受け答えしている。
まんざらでもないみたい。よかった。
二人は同じ時間を重ね、将来を意識したところでご主人はプロポーズ。
真っ赤な夕日が照らす浜辺で、彼女は一緒になることを誓った。
おめでとう、ご主人。
人生のパートナーが出来ても、ご主人の人柄の良さは相変わらず。
そのおかげで二人の仲は何年経っても良好だ。
仕事は順調そのもの。
給料は上がり、生活用品や衣服はどんどん質の良いものに変わっていく。
つぎは僕の番かな……もしかしたら、明日には新しい腕時計がやってくるかもしれない。
だって僕はもう、捨てられても仕方ない状態なんだから。
昔と違って、もう修理はしてもらえない。
というか、修理ができない。
何年も前に製造元がなくなってしまい、交換する部品が残ってないと言われた。
時折、鏡に映る自分が目に入る。
時間は正確に刻めるけど、どこもかしこも傷だらけ。
ガラスはうっすら曇っていて、文字盤が読みにくい。
唯一変わっていないのはテンプ……時計の心臓部分だけ。
僕とご主人の出会いから、八万六百九時間三十四分。
ショーケースに並んでいたあの日の面影はない。
ご主人が気に入ってくれた僕はもういない。
今日がご主人に抱きつく最後の日かもしれない。
でもいいんだ。
僕の時間は幸せで満たされている。
世界でいちばん恵まれた腕時計だった。
贅沢を言うなら一秒でも多く、ご主人に抱きついていたいな。
だけど願いは届かなかった。
思いもよらない形で、突然別れがやって来る。
ご主人が
入院してからのご主人は、一人だけ時間が進んでしまったようだ。
頬はこけ、髪の毛に白い線が増えた。
腕は紅葉の散った
きちんと抱きつくには、ベルトの穴を増やさないと。
僕はベッドのそばのテーブルから、ご主人を見守っている。
できることはなにもない。
残りの時間をただ刻むだけだ。
何もできないってわかってるけど……なにかひとつ、僕を選んでくれた恩返しがしたかったな……。
病室の扉が開く。
ご主人のパートナーが入ってきた。
彼女の表情は、すべてを受け入れたように見える。
ベッドの隣に座ると、寝ているご主人の手を握って、話しかけた。
「あなたは出会ってからいつも誠実で、優しくて、穏やかだった。
いつだって私の話をちゃんと聞いてくれるし、困ったら寄り添ってくれた。
自分のことよりも、私のことを考えてくれた。
そう。この腕時計みたいに」
彼女はテーブルに置かれた僕を、ご主人の
「知ってる?
物を大切にする人って、中身を大事にするんだよ。
見た目よりも思い出や
相手を気遣い、一途に愛情をそそぎ続けてくれる人。
初めてデートした時にこの腕時計の話を聞いて、私はあなたと一緒になりたいって思ったの。
たくさん幸せにしてもらったよ、私。
むかしも今も、目の前にいるあなたは変わらない。
ずっとかっこいい。
大好きだよ」
ご主人の掌に、彼女の掌が重なる。
間で挟まれた僕に、二人の体温が伝わってきた。
僕は思い出す。
ご主人が僕を選んだ理由は「寂しそうだったから」。
あの日から僕の身体がボロボロになっても見捨てず、最後まで僕と一緒にいてくれた。
何かを大切にする理由は、見た目だけじゃないんだね。
時間は絶対だ。
時の流れにさらされると、ほとんどのものは良くも悪くも姿を変える。
見た目だけに幸福を求めれば、つらい思いをするかもしれない。
だけど形じゃない部分にも幸福を感じるなら、別れの時間はきっと温かい。
そんな気がする。
姿が変わっても、幸せは風化しない。
ご主人は、幸福な時間を過ごせたのかな。
直接聞いたことはないけど、そうだったら嬉しい。
僕は感謝を込めて秒針を響かせる。
ご主人に伝わればいいな。
<終>
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