破滅を願うは眠れぬ羊

 ブラックコーヒーに沈んだ部屋。

 時計の針が規則正しく呼吸する。


 今夜も世界は、滅びていない。



 私は寝床ねどこから起き上がって、鏡の前に立つ。


 そこには、白い羊が立っていた。

 長く垂れた耳が、小刻みに動いている。


 いつからだろう。自分の顔が映らなくなったのは。

 今はもう、この姿を受け入れた自分がいる。


 色味のない部屋には、しなびたYシャツとネクタイ、山となった栄養ドリンクの空き瓶。

 そして、まっさらなキャンバス。


 絵描きになりたい夢は、遥か遠くでくすぶっている。

 私のやっていることと言えば、会社から帰ってきて、食べて、寝るだけ。

 それだけを、もう幾日いくにち繰り返しただろう。


 溶かした時間が室内に満ちていて、溺れるように息苦しい。

 それなのに手も足も動かさない。ただ引っ張り上げてくれることを待つだけ。


 だから夢は叶わないんだ。知っている。


 夜に目が覚めるのは、朝が怖いから。

 努力せず理想だけ欲しがる自分を、朝日が浮き彫りにするから。


 都合のいい自分が嫌で嫌で、いっそこんな世界、なくなってしまえばいいと願うようになった。

 一人じゃ滅ぶこともできないのが、またどうしようもない。


 羊になったのは、きっと愚かな望みのせいだろう。

 『願い』と『呪い』は表裏一体。心の弱い私にはお似合いの姿だ。


 今夜はどうしよう。寝床に戻って数でも数えようか。

 そんなことで眠れるのは、明日を待つ者だけ。


 自分を変えたい。でも部屋の中に答えはない。


 なら、部屋の外を探そうか。

 破滅を拒む世界で、答えを探してみよう。


 私は玄関のカギを開けた。



 すす色の月の下、響くのは自分の足音だけ。

 真っ暗な空気は呼吸が楽だ。昼間と違って、読み取る必要がない。


 どんどん気持ちが軽くなって、色味のない町をさまよった。

 閉じた顔が並ぶ商店街、鳴らない踏切。透き通ることをやめた川。


 安心する。どこにも私を責めるものがない。


 ああ、ずっと夜だったらいいのに。

 世界が破滅しないなら、せめて止まってくれないか。


 新たな願いを浮かべながら、信号を待っていたときだった。


「夜の散歩は楽しいねえ」


 車一つ分の横断歩道、その向こうから、声をかけられた。

 立っていたのは、羊だ。

 私と正反対の真っ黒い羊。夜よりも暗い、吸い込まれそうな黒い身体。


「楽しいなら、ずっと散歩を続けよう」


 黒い羊は笑顔を浮かべている。


「簡単だよ。今の仕事を辞めればいい。

 食べていくだけなら、働く場所はたくさんある。


 簡単なことなのに、何を気にしているんだい? 将来のことかな?

 お前はつらい現在よりも、つらさを貯め込んだ未来を優先するんだね」


 黒い羊の笑顔は、たくさんの絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたようだ。


「孤独が心地いいなら、独りになればいい。

 群れないと生きられないの? 見た目と一緒で臆病だね。


 選択なんて簡単さ。楽になる方を選ぶだけ。

 僕は自由を選んでから身も心も軽くなって、毎日ふらふらと楽しく生きている。

 悩んでいた時間が馬鹿みたいだ。


 だから、お前もこっちへおいで」


 信号の色が変わった。

 私は反対側に渡ることが出来る。


 向こう側に進むべきなのか。確かな答えが見つからず、躊躇ちゅうちょする自分がいた。


 黒い羊がうらやましい。

 同じ選択をすれば不安は解消され、時間が手に入る。夢にも近づく気がした。


 だけど、何かが嫌だ。


 黒い羊に対する嫌悪感。それはどこから湧いてくるのだろう。


 すべてを塗りつぶす漆黒を見て、私は投げかける。


 どうしてあなたは黒いのですか。


「そんなの、考えを貫いているからだよ。

 他人の言葉に惑わされない、確固たる自分の色が黒だからさ。

 どんな色も、僕を変えることはできない」


 話が終わり、信号の色がまた変わる。

 私はもうひとつ、問いかけた。

 

 あなたに夢はありますか。


「ユメ? 昔はあった気がするけど……忘れたね。

 別に必要ないだろ。そんなものがなくても、生きていくのに困らない」


 答えを聞いて、私は横断歩道に背を向けた。

 足元から伸びる影に語りかける。


 私は絵描きになりたいんだ。色鮮やかな世界を描いてみたい。


 だけど部屋のキャンバスはまっさらなまま。

 描かなくても生きていける。でもキャンバスを捨てたら、生きる理由がなくなる。


 描きたい絵は自分にしか描けない。

 世界滅亡に期待する夜を過ごすなら、筆を持つべきだ。忙しくても無理じゃない。


 やるか、やらないか。未来を決めるのは自分だ。


 ようやく気がついたよ。自分を救うのは自分しかいない。

 そして私が見るべき風景は、努力の先にある未来だった。

 

 理解できたのはあなたのおかげだ。

 遠くて近い向こう側に未来は見えなかった。塗りつぶされた黒に可能性はない。


 だから私は、あなたにたどり着くのが嫌だ。


「ああそうかい……だったら、二度と迷い込むなよ」


 見つめていた影が薄くなっていくと、瑠璃色るりいろの空が太陽を連れてくる。


 夜が終わるんだ。


 振り返ると、黒い羊はいなくなっていた。


 目の前の道路をメタルグリーンの車が走り抜ける。信号はもう何度目かの青い光を放ち、遠くから鳥の黄色い鳴き声が聞こえてきた。


 最初に描くなら、夜明けがいいな。


 周りの風景を眺めていると、朝日が大地を照らす。まぶしくて思わず手をかざした。

 それでも金色こんじきの光は、五本の指の隙間からあふれてくる。


<終>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る