お腹の虫が鳴いた理由
きつねに近寄らないでください。エサを与えないでください。
寄生虫による感染症の恐れがあります。
触れてしまったら、しっかり手を洗いましょう。
山の中で錆びついた看板を見て、子ぎつねは先生の話を思い出す。
むかし、きつねは害のある生き物として、人間に嫌われていました。
でもそのおかげで、乱暴されずに暮らすことが出来たのです。
そしていまはお薬のおかげで、虫さんともお別れすることができます。
「こんこん。おくすりって苦いのかな……おいしいといいよね」
話しかけるようにお腹を撫でると「きゅるる」と返事が鳴る。
子ぎつねは景色の良い場所に移動すると、お母さんの握ってくれたおむすびを食べた。
水筒に入れたお茶を飲みながら、ふもとの景色を眺める。
草木に飲み込まれた、人間の町。
無表情の建物にツタが絡み、割れた窓から樹木が手足を伸ばす。
コンクリートはえぐられ、地上も地下も、太い根が束になって走っている。
植物がすべてを包み、深い眠りに落ちた文明。
子ぎつねが生まれたとき、もう人間はいなかった。
知っているのは、大人から聞いた話と、町で見つけた写真に映る姿。
人間に会ってみたい。
子ぎつねの興味は日に日に膨らんだ。
だから今日も、緑色の町を探索する。
もしかしたら、あこがれの人間に会えるかもしれないと思って。
今日はどこを探検しよう。
子ぎつねが町を見下ろしていると、動く影を見つけた。二本の足で歩いている。
人間かもしれない。
子ぎつねは居てもたってもいられず、ふもとの町に駆け下りた。
動く影を見たのは、町はずれの小さな建物。
かすかに、乾いた命の匂いがする。
部屋の中には、錆びたベッドがいくつもあった。
茶色い布が地面で、もがいている。他には散らばるゴミや、色あせた雑誌。
子ぎつねは紙面に書かれた文字を拾いあげる。
『植物の異常成長 大自然の反乱か』
『奇病の流行 治療方法は見つからず』
『政府は緊急措置として立ち入り禁止区域に指定 事実上の放棄』
そこで子ぎつねの耳がぴくんと跳ねる。物音がした。
静かに廊下を進み、一番奥の部屋をのぞき込む。
「こんこん。人間だ……! なかよくなりたいな。あれは、お面かな?」
人間は被り物からしゅこー、しゅこー、と不思議な音を出しながら、机の上に置かれた黒い板を触っていた。五本の指を器用に動かし、カタカタと音を立てる。
子ぎつねが様子をうかがっていると、黒い板から音が聞こえてきた。
学校で習った、人間の言葉だ。
『今から、この診療所で発見した、風土病の研究成果を残す。
原因は異常発達した植物の特殊な花粉だ。
体内に取り込むと、ありえない速度でアレルギー症状を引き起こす。
初期症状は軽度の目のかゆみと鼻水。
それから眼は充血し、
恐ろしいのは、特殊花粉が体内の血液や粘膜を凝固させる作用だ。
血液循環は停止、内臓は機能不全となり、命を落とす。
治療法は、ない。
しかし私は特効薬の原料を見つけた。
それは、きつねだ。
正確にはきつねを
この寄生虫が特殊花粉を栄養源にする。
花粉を食べることで体内を清浄化するため、アレルギー症状を引き起こさない。
だからきつねだけは、特殊花粉の影響を受けていない。
これは、きつねに寄生する個体のみに見られる反応だ。
だが人間にも利用することができれば、我々は特殊花粉を克服できるかもしれない。
しかし寄生虫は人間にとって害悪。現在の医療では利用できない。
だからせめて、何十年、何百年先。技術が進化して、治療法が見つかることを願う。
海を越えてきた調査隊に、この情報が渡ってほしい。
……私も、もう長くない。
この土地を襲った異変の原因は不明だが、私はこう思う。
これは植物の生存戦略ではないのか。
自然を壊す人間を排除し、自然が生き残るための進化。
種の保存は、生物すべての本能だ。
絶滅を逃れるため、命は変化する。
唯一生き残ったきつねは、激変した土地への適応と、食糧確保のために、知能が異常発達するかもしれない。特殊花粉が生態に与える影響は未知数だ。
人間の文明を引き継ぎ、道具や言葉を使いこなす未来だって、否定はできない。
……ならば、寄生虫も変化するのではないか?
もしも、変化したきつねたちが寄生虫を排除しようとするなら……特殊花粉によって宿主を必要とせず生存できるよう、生態が変化したら……。
生き残るために、寄生虫はきつねを——』
ガタン。
黒い板から、突然大きな音が聞こえた。あとは激しく咳込む音が続く。
じっと我慢していた子ぎつねがとうとう飛び出し、素早く人間に抱きついた。
信頼の証として顔を舐めようと、前足で器用に被り物をずらし、素顔を晒す。
すると人間は両手で顔を抑え、叫びながら外へと走っていってしまった。
「こんこん。せっかくむずかしい話がおわるまで待ってたのに……」
子ぎつねは急につまらなくなって、家に帰ることにした。
今日も子ぎつねは、お母さんの握ってくれたおにぎりを食べる。
「おいしいな。コンコン」
それは鳴き声のような咳だった。
水筒はすぐに飲み干したので、川の水に口を近づける。
水面に浮かぶ子ぎつねの目は、赤色だった。
<終>
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