【5/1TAMAコミサンプル】聚合怪談 幽 十三本目_車窓から

丑三五月

十三本目 車窓から


 長く電車通勤をしているIさんは、昔空に浮かぶおじさんを見たことがある。

 

 それは、彼女がまだ前の会社に勤めていた頃の話だ。

 大学を卒業し、内定を貰っていた企業に就職した彼女は、仕事に忙殺される日々をおくっていた。

 当時務めていた会社は、所謂ブラック会社と呼ばれそうな勤務形態の会社だった。新人の出勤は始業の一時間前を強制され、朝っぱらから社員揃ってオフィスの掃除、朝礼では如何にも怪しい社訓を唱和させられ、サービス残業は当たり前で定時になると上司が退勤は切ったかと聞きにくる始末。それでも当時社会経験の浅かった彼女は、まあどこもそんなものなのかなと毎日自分を誤魔化して、重い身体に鞭を打って、朝早くから満員電車に自分を押し込み続けていた。

 そんなある日、Iさんはいつものように満員電車に乗り込んだ。既に人でぎゅうぎゅうの車内に無理矢理一歩踏み込むと、幸いと言っていいのかそのまま人波に押され、吊革の手前まで来る事が出来た。目の前で座席に腰掛け居眠りをしている男性を羨ましいな、と思いながら見下ろし吊革に手を伸ばす。その時ふと、窓の外に視線が向いた。

 彼女が見つめたその先に、何か浮いているものがある。

 隣のビルより少し高い場所に浮いているそれは、バルーンにしては小さく、黒々としている。いったい何かしら、と目を凝らした時にはもうその景色は後ろへ流れてしまっていた。

その日は結局、そんな事があったことも忘れて何時もの様に仕事を片付け夜遅くに帰路に着いた。

家に帰って眠れば直ぐに翌日が来てしまう。気が休まらないまま昨日の再現の様に満員電車に詰め込まれ、また吊革の前まで流された。殆ど無意識に目の前に垂れ下がるそれを握り、窓の外を眺める。そして再び、ビルの間に浮かぶものを見付けた。

 そこで彼女は、昨日も同じ場所にそれがあったなということを思い出し、今度こそ正体を見てやろうと目を凝らす。

 空中に横たわっているそれはよく見ると、なんと人の形をしていた。

 そんな馬鹿な、と驚いて今自分が見たものを否定したくなる。しかし、それはどう見ても背広を着た小太りの男性だった。

 これはどうにも、かなり疲れているのかもしれない……彼女はそう思って会社の最寄りの駅に降りてから栄養ドリンクを購入した。そしてその日も何とか仕事を乗り切り、やっと休日がやって来た。

 待ちに待った休日でも、疲れ切った身体では何処かに出掛けるという気力すら起きなかった。結局昼頃まで寝て、何とか起き上がれる所まで回復した後、さて作るのも面倒だし近所のコンビニエンスストアで遅めの昼食を買ってこようかと着替えている時に携帯電話が鳴った。

 嫌な予感がしてそっと喚き立てるそれを拾うと、やはり電話は厄介な上司からで、Iさんは気付かなかったフリをしようかしらと思いながら頭を抱える。結局、どちらにせよ折り返さなければ後日強い叱責を受けるので嫌々その呼び出しに応じる事にした。

 案の定、上司の要件は休日だというのにお前が持っているデータを会社に行って確認し、今から自分に送れといった理不尽極まりない要求だった。本心では本当に嫌だった。しかし、断る勇気など新人のIさんには存在せず、泣く泣く言う事を聞いて丁度支度を終えていたその身を駅へ向かわせ、電車に乗った。

 休日の電車内は平日とは打って変わって、人も疎らで閑散としていた。毎日出社する際に感じる人のストレスや殺気立った雰囲気も無く、皆リラックスしている。だからこそ、休日を犠牲にしてこれから職場に行かなくてはならない自分の虚しさが際立った。

 普段はほとんど座れない座席に腰掛けて、ぼんやりと窓の外を眺める。

 そして、またあの黒い影を見つけた。

 今日は身体が極端に疲れている訳ではない、幻覚を見ているなんて事は有り得ないくらい意識ははっきりしている。それでもあの小太りのおじさんは空中に寝そべっていた。

 そんな景色を見ていて、ふと彼女はとても彼の事が羨ましくなった。

 休日の青空に浮かんでいるおじさんは、まるで気持ち良さそうに昼寝をしている様に見える。こんな良い陽気の中スヤスヤと眠るその人が、気ままに見えて本当に羨ましくなった。

 電車は走り続けているので、その景色はあっという間に後ろに流れてしまう。彼女は何故か何かに駆り立てられるかのように迷わず降りたことも無い次の駅で電車を降り、あのおじさんが浮かんでいる方角へ足を運んでいた。

 まるで熱に浮かされたかのような気持ちで知らない街を抜けて、遂におじさんが浮かんでいる下の通りまで辿り着いた。彼が浮かんでいる隣のビルの屋上が丁度、彼の隣位の高さである事に気が付く。すると、迷いは直ぐに抜け落ち、彼女はビルのエントランスへ入り、何食わぬ顔でエレベーターのボタンを押し、やって来たそれに乗り込んだ。どうやらエレベーターは屋上の下の階止まりの様だ。彼女は先ずその階のボタンを押して、ビルを登っていく。

 五階にたどり着いて逸る気持ちを抑えながら非常階段に向かい、最終的に殆ど駆け足で登りきり、重たい鈍色の鉄の扉を開け外に飛び出す。

 浮かぶおじさんはもうすぐそこだ。少し高めのフェンスに足を掛け、彼へ手を伸ばそうと前のめりになった時だった。

「あんた そこで何してるんだ⁉」

 急に呼び止められ振り返る前に、誰かの腕に捕まえられて彼女はフェンスから引きずり降ろされた。

 早まっちゃダメだ、まだ若いのにと半身を起こした彼女の肩を掴んで揺すっているのは、警備服を着た壮年の男性だった。

 彼の心配そうな顔を見ている内に、Iさんは自分がしようとしていた事を思い出し急に恐ろしくなった。

 そして憑き物が落ちた気持ちで、恐る恐る自分の背後のフェンスを振り返る。

 浮かんでいるおじさんは、気持ち良さそうに眠っているのとは程遠い姿だった。舌をだらしなく垂れ下げて目玉は飛び出し、顔色は真っ白になっている。

 Iさんが絶叫して顔を覆うと、警備員の男性は彼女を落ち着かせようと肩を抱き、支えになってくれた。彼のおかげで何とか立ち上がった彼女は、ビルの一階に降りる事が出来た。

 

 落ち着くまでと整備室へ通してくれて、お茶まで出してくれた警備員の男性は、たまにIさんと同じ様にこのビルから飛び降りようとする人が居るので普段から警戒していた事と、止められて助かった人の全てが奇妙な体験をしたと話していた事を教えてくれた。

 そして、続けて彼はこのビルに赴任して直ぐ耳にした風の噂もIさんに話したのだった。

「昔このビルの隣にもう少し高いビルが建っていたらしいんだが、なんかの理由でビルのオーナーが首吊って自殺したんで取り壊されたみたいでさ。それからなんでかたまにここから飛び降りる奴が出るようになったとかで、俺みたいなのが休みの日でも見回りしてんだよな……あんた、一体何を見たんだい?」

 Iさんはそれから直ぐに今の会社を辞めて心身の回復に努め、現在は労働条件が幾分マシな会社に務めている。相変わらず電車通勤は続けているが、乗る線が変わった為、あの空中に横たわる男性が今でも居るのかは分からないそうだ。

 ただ、その後電車に乗る時は手元のスマートフォンや本に集中し、なるべく窓の外へ視線を向けないようにしているらしい。


 ほんの拍子にまたああいったものを見てしまって、次も誘惑に勝てるかどうか分からないのが一番恐ろしいからだそうだ。


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