第5話【高杉晋作《タカスギシンサク》】(倒幕派)

第5話【高杉晋作タカスギシンサク】(倒幕派)


高杉晋作タカスギシンサクは長州藩の上流層の生まれの人物である。

藩校・明倫館メイリンカンにで学ぶも物足りなさを感じていた矢先に友である久坂玄瑞クサカゲンズイに誘われる流れで吉田松陰ヨシダショウイン松下村塾ショウカソンジュクの門をたたく。

吉田松陰は優れた二人の弟子高杉・久坂を競わせるように仕向けて指導した。


しかし、松陰の過激さは危ういものがあり安政の大獄の頃に幕府高官の暗殺計画を白洲の場(奉行所)で堂々と語り後に斬首に処された。


1862年(文久2年)藩の命により上海へ留学する。

この時期の清国シンコク(中国最後の王朝)の有様を直接見聞した事で攘夷論をあっさりと捨て開国と倒幕へと加速していく。


1863年(文久3年)下関戦争に於いて晋作は奇兵隊を創設した。

下関戦争後の敗戦処理交渉として晋作に白羽の矢が立ち謹慎を解かれるや交渉の卓につき相手側の要求をのらりくらりとかわし賠償金は親分の幕府に請求せよ等巧みな言葉で長州藩の損害を抑え込んだ。


その後失脚して九州筑前に居た晋作は元治元年(1864年)12月末頃夜、同士80名らと共に挙兵。馬関の藩会所を襲撃し、敵対勢力「俗論派」へ事実上の宣戦布告を決行した。

元治二年(1865年)敗色濃厚となった「俗論派」を駆逐した。


慶応元年(1865年)『第二次長州征討』に於いて晋作は長州軍海陸軍参謀として大島口・小倉口で奇兵隊らを指揮して奮戦する。

七月二十日に将軍家茂が病没し、小倉藩に知らせが届くや城に火を放ち退却を開始して九月には幕府・長州藩に休戦条約が結ばれる。


しかし、ここまで病に侵されながら指揮を執り続けて来た晋作の生命の炎は尽きようとしていた。


慶応三年(1867年)高杉晋作病没・享年29歳

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評論【幕末を駆け抜けし者達列伝(幕府・反幕府)】 どら焼きパンケーキ中佐 @kotobukinatsuodorayaki

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