男の過去1

私は、美奈子という女にかつて恋をしていました。美奈子は幼い頃こそ家が近かった私や兄と外で走り回るような奴でしたが、中学 に入ってからは大人しくなり、他の男子から熱い視線を送られる楚々とした美しい女に成長しました。


 私はその時から美奈子を異性として見るようになっていたのだと思います。けれど、その好意を彼女に伝えることは出来ませんでした。 私はあまり自分から積極的に行動できる性格ではなかったのです。 それは、私の家庭環境も影響していたのかなと思います。


 私の家では父親がかなり厳格で、父は自分の意にそぐわないことをすると大声で叱りつけ、相手を従わせるような人物でした。

 私には一人の兄がいました。兄は本当に良くできた人間でした。学業も優秀で、部活でやっていた剣道でも良い成績を修めておりました。 それでいて人当たりもよいので友人も多く、弟の私に対してもいつも優しかったのです。 よく一緒に遊んでくれて、私が宿題で分からない問題があるから教えてくれと頼んでも嫌な顔せずに教えてくれたりしました。 家族の中で、唯一兄だけが私の心の拠り所でした。


 勉強や運動も取り立てて出来たわけではない私は、優秀な兄とよく比べられ、父に怒鳴られていました。母は能面のような表情でそれを眺めているだけで、私を助けてくれたことは一度もありません。

 兄もただ黙って私を見ていました。その時の兄の目はいつも、地面を這いつくばる虫けらでも見るような冷淡さがあったのを今でも覚えています。 しかし、その後にはいつもの優しい兄に戻っていたので、私の気のせいだろうと思い直していました。


 私は元々無いも同然な自己肯定感を少年時代にすり減らしてしまったこともあり、かなりの引っ込み思案になってしまいましてね…… 自分の意見や要求を他人に言うのが苦手で、傍から見れば毒にも薬にもならない奴になってしまいました。


 また、普段から攻撃されていたからか、自分に向けられる悪意には人一倍敏感な、自意識を肥大させた卑屈な人間にもなってしまいました。だから当然、友人と呼べるような人はいませんでしたね。


 中学生になり、私が美奈子に抱く気持ちの名前に気づいてからも、美奈子は私に対して仲良くしてくれました。幼馴染のよしみだったのでしょうかね。時々下校を共にすることもありました。もちろん私から誘うことはできませんでしたので、彼女が誘ってくれる時だけ一緒に帰りました。


 私は美奈子と一緒にいられることの嬉しさと、自分とは明らかに釣り合わない美人と歩く気恥ずかしさがごちゃ混ぜになって、口数はだいぶ少なくなっていました。

 彼女が何か話題をあげると、私はそれに相槌を打つだけで精一杯でした。私がそんな様子でも彼女は不機嫌になるということは一切なく、私から見ればとても楽しそうにしているのが救いでした。


 美奈子は、下校の時には色んなことを話してくれました。 最近読んで面白かった少女漫画、いつも見ているテレビ番組、友達と観に行った恋愛映画など、十代の女子らしい話を楽し気にしてくれるのは、私があまり興味のないジャンルの話題だったとしても楽しかったのです。


 ただ、時々私の兄の話が出てくる時は、あまり愉快な気持ちではありませんでした。 美奈子は私の兄と同じ剣道部に所属していたので、兄とは中学に上がった後でも関わりがあったそうだったのです。  


 幼い頃は美奈子と兄と私の三人でよく遊んでいたので、美奈子は昔の兄を知っています。 彼女は、昔の兄と今の兄はだいぶ印象が変わったと言っていました。

  今の兄は、知的で優しげな雰囲気を併せ持っている。その上、女子に対する気配りも昔より上手になったし、いざという時には頼りになるのだと。  

 美奈子は、兄のことをかなり好意的に見ていることが言葉の端々から伝わってきて、私の心はチクリと痛みました。


 それでも、私は美奈子と過ごすこの時間が大切だったのです。

 深くはないが、穏やかなこの関係を壊す勇気は私にはありませんでした。ここで自分の正直な気持ちを告白してしまったら、こんな幸福な時間を過ごすことはおろか、美奈子に嫌われて二度と口をきいてくれなくなってしまうかもしれない。彼女に拒絶されるのはとても恐ろしいことだったのです。


 美奈子が私を拒絶すれば、彼女は私という存在を見て見ぬふりをして、私の狭い世界の外側まで逃げてしまうかもしれない。臆病者の私は、恋心を彼女に伝えることはできませんでした。

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