人形
ないちち
curiosity killed the cat
「話を聞いてくれる気になってくれたのはあなただけでしたよ」
男はそういうと、ホットコーヒーに口をつけた。目の下の青黒いクマが目立つが、目鼻立ちは整った瓜実顔で、引き締まった唇からは知性を感じられる。年は四十代半ばだろうか。
僕と男は、喫茶店に来ていた。どこか懐かしい感じのするシックな店内には、僕たちの他に客がいなかった。 少し奥まった場所にあるから、客入りが悪いのだろうか。
僕の目の前に座るこの男とは、実は初対面である。 ほんの数分ほど前に会ったばかりだった。 僕がこの男について知っていることは、球体関節人形を取り扱う店のオーナーということだけだ。
「たいていの人は無視するか、時間がないからと断るか、でしたからね。どうして聞いてくれる気になったんです? 」
「元々人と会う予定があったんですけど、直前に相手が来れなくなってしまって、暇になったので…… 」
今日、僕はある女性と食事する約束をしていた。 相手は秋山さんという、大学の同じゼミの女子だった。以前から、僕は大人びた雰囲気のある彼女が気になっていたのだ。少しでも秋山さんと仲良くなるために、数日前になけなしの勇気を振り絞って彼女を食事に誘ってみた。
他のゼミ生の男子に比べて、いまいち冴えない僕が誘っても断られるかと思っていたのだが、 秋山さんはあっさりオーケーしてくれた。 やった。 緊張したけど、誘ってよかったと思えた。僕はワクワクしながら当日を迎えた。
だが、待ち合わせの十五分前に秋山さんから、 彼女の祖母が急に体調が悪くなり、看病しないといけないから来れなくなった、と連絡があったのだ。
「なるほど。 それは災難でしたね。 相手の方もきっと、あなたと会いたかったのだと思いますよ」
「はは……どうでしょうかね」
僕は苦笑いしてしまった。 秋山さんから断りの連絡をもらった後、彼女のSNSを見たのだが、『今日のお昼ご飯です』という文章と共に洒落たパスタを映した写真が数分前に投稿されていたのだ。
パスタの向こうには男性と思わしき人物が胸元から下だけ写っていた。 電子タバコを持つ右手に光るシルバーアクセサリーがやけに印象的だった。
彼が、人畜無害な僕とは正反対な男だというのはそれだけで分かった。
秋山さんにドタキャンされ、落ち込んだ気持ちのまま街をふらついていたところに、この男が話しかけてきたのだ。「どうか私の身の上話を聞いてくれませんか」と。
見ず知らずの人間にこんなことを言われて警戒もしたが、僕は秋山さんに嘘をつかれたショックから、少し自暴自棄になっていた。時間もあるし、好奇心もあったので男の話を聞いてもいいかなという気になったのだった。
「なんにせよ、話を聞いて下さるのはありがたい限りです。 誰かに話したくて話したくてしょうがなくなっていましたからね…… 話を始めてもいいですか? 」
「大丈夫ですよ」
男はそれを聞くとうなずき、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
この時の僕は、この男が、過去に犯した恐ろしい罪を告白するとは微塵も思っていなかった。ここで彼の話を聞くのをやめていれば、好奇心を抑えきれていれば、『彼女』と会わずに済んだはずだったのに。
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