やっとの思いで

 呆気なかった。

 カリナは胸に包丁を刺した直後、ゆっくりと俺の目を見つめた。


 一刺しだけ。

 確かに、柔肌を刺した。


 返り血は思ったより少なくて、カリナはベッドの上に崩れた。

 意識はあったけど、瞬きをして、口をパクつかせた状態。


「はぁっ、はぁっ。ごめん。ごめん!」


 白い肌が赤く濡れていく。

 手の震えが止まらなかった。


「ご、め、……カリナ。そうだ。救急車。救急車、呼ばなくちゃ」


 待ってて、と言い残し、部屋を出る。

 部屋を出ると、扉の横にオデットが立っていた。

 ずっと、そこにいたんだろうか。


「あ、お、オデット。カリナが、このままじゃ、死んじまう!」

「落ち着いて」

「でも、あいつ、……息ができないんじゃ」


 泣いていたかもしれない。

 視界が濁って、よく見えなかった。

 目元を拭うと余計に汚れる。

 手の平は鮮血が付着していた。


「シンゴ。で、合ってる? アンタは、風呂場でシャワーを浴びて、着替えて、帰るの」

「何言ってんだよ。このままにするつもりかよ!」

「帰るの! ……そのために、アンタ刺したんでしょ」


 言われて、俺は当初の目的を思い出す。が、感情が付いてきてくれない。


「カリナのことは、私に任せて」


 オデットは部屋に入ると、扉を閉めた。

 俺はその場にへたり込み、初めて人を刺した罪悪感で、息が上手く吸えなかった。


「帰って、いいのか?」


 四つん這いで、階段を目指す。

 カリナから遠ざかると、後ろ髪がチリチリと何かになぞられる気がした。


 そうだよな。

 帰るんだよ。

 俺、帰るために、あいつを刺したんだ。

 これを逃したら、もう帰れなかったんだ。


 無理やり自分に言い聞かせる。

 感情がグチャグチャだった。


 *


 用意された着替えは、サイズの合っていない男物の服だった。

 二階には行かず、何度も転びそうになって、玄関の扉を開ける。

 門の場所まで行くと、二階の部屋を見上げた。


「ちきしょう。一発、殴られたら、……いや、俺も刺された方がいいのか」


 早く出ないといけないのに、疲れてしまって動けなくなった。


 おかしいよな。

 歩いてるだけだぞ。

 それだけで、息切れがして動けなくなっちまう。


 少しの間、座り込んで呼吸をして、渇いた喉で空気を飲みこむ。


「いや。違う。帰るんだ。……帰るんだよ」


 支配された心で、理性を働かせるのは辛かった。

 手足がいつもと違って重い。

 思い通りに思考が働かず、手足がぎこちなく、目が意味もなく、あちこちに向けられる。


 日本村へ帰る途中、俺は誰かに殺して欲しかった。

 その誰かは、頭に浮かんでいる、あいつ。

 怪物のくせに、今日に限って追ってこない。


 都市の中央部まで来て、覚えのある道を俺は歩いていく。


 ゆっくりとした足取りで、何度となく振り返った。

 たまに休憩をして、振り返って誰もいなかったら、また歩き出す。


 ――帰る。

 ――あいつに、


 矛盾する気持ちが胸の内から込み上げていた。


 俺が日本村の入り口に着いた時。

 とうとう、あいつは来なかった。

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