謝らないで
明日、カリナが帰ってくる。
妙に心が落ち着いていた。
この時間が永遠に続けばいいのに。
「あいつ、泣くだろうな」
俺はもう狂ったのか。
女を知ったからって、こんなに心まで持っていかれるのか。
カリナの肉体には、確かに心惹かれるけど。
あいつを考えて真っ先に浮かぶのは、テレビをつまらなそうに眺める横顔だった。
くだらない、と世の中を見ているんだろうか。
ベッドに横になって、枕の下を探る。
包丁の柄が握りづらい。
何度汗を拭いても、手の平に汗が滲む。
*
くすぐったい。
胸に重みを感じて、目を開ける。
「……起きた?」
寝ぼけていた頭が一気に覚めていく。
「カリナ。帰るの明日じゃなかったっけ?」
あれ? もしかして、一日経ったのか?
この屋敷にいると、曜日の感覚だけじゃなく、日にちや時間まであやふやになってくる。
「飛行機で、帰ってきた。ジュールに銃預けて」
カリナはYシャツとスーツの格好だった。
出かけた時と同じ格好。
どうやら、予想以上に早く戻ってきたらしかった。
「ねえ。抱きしめて」
「……え?」
「手錠、外れてる。オデットかな」
心臓が、うるさいくらいに鳴っていた。
カリナに聞こえているんじゃないか、ってくらいに脈を打っていて、指先を折り曲げると、柄の感触がある。
包丁は無事だった。
手を抜く時に、ズレて包丁が出ないよう、慎重に枕から手を抜く。
もう片方の手でカリナの背中を擦り、抜いた手で後頭部にのせた。
「へへへ。幸せ」
「そりゃ、良かったな」
内心、穏やかじゃなかった。
何で、早く来ちまうんだよ。
俺は、まだ心の準備ができていない。
「な~んで、緊張してるの?」
「いや……」
カリナは観察力が鋭い。
平静を装ったつもりだったけど、無駄だった。
心臓の鼓動が聞こえていない訳がない。
汗はかなり搔いている。
息が、若干乱れている。
「お、俺……」
俺がこの屋敷を訪れた経緯を考えれば、俺の反応は不自然なものだ。
人権を奪って、人生を滅茶苦茶にした女相手に、殺す事を躊躇う理由なんてない。少なくとも、感情の面ではそうだ。
なのに、俺はこいつに心が寄ってしまって、開けた胸元を見ると、別の意味で心臓が強く脈を打った。
「どうして泣いてるの?」
「泣いては、いないんだけど」
「何かあったの?」
俺には、俺の状態が、もう分からなくなっていた。
指で涙を拭われ、白い肌が顔を包み込む。
この柔肌に、今から――。
「寂しかったんでしょ」
「そうかも」
「ふふ。素直なシンたんは可愛い。今日は甘える?」
本当に、やるのか?
「なあ、カリナ。め、目を、……閉じてほしい」
「なあに?」
お前なんかと出会なければよかった。
声を掛けなきゃよかった。
「いいから」
「……変なことしないでよ」
言われた通りに、目を閉じる。
今なら、素直に言う事ができる。
カリナは恐ろしいくらいに、美しい女性だ。
生きていて、この先こんな人と出会う事は二度とない。
僅かに残った理性が、元の場所への帰還を求めていた。
せめて、心の準備をさせてほしかった。
今日ばかりは、意表を突かないで欲しかった。
目元に手を当てて、枕の下から包丁を取り出す。
「まだぁ?」
「もう、ちょっとだから」
俺はカリナに自分からキスをした。
――片手に包丁を握りしめて。
「ごめん」
「謝らないで」
優しく慰めるカリナの胸に目掛け、包丁の刃を縦にする。
余裕がない俺はオデットの指示だけが頭に残っていた。
帰るよ。
掲げた包丁を思いっきり振り下ろした。
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