悪夢が始まる

 ジュールさんの車で、俺はカリナの家に送られていた。


 後部座席に座った俺は、カリナに腕を抱かれ、何も言えずにジュールさんの頭を睨みつけている。

 視線に気づいたのだろう。


 ルームミラー越しに俺へ視線を送ると、「そう睨むな」と言ってきた。


「カリナがどうしても、キミを飼いたいとうるさくてね」

「で、ハメたってか? ふざけんなよ」

「刑務所へ送られるよりマシだろう。拘禁刑が科せられるだろうし、キミにはそっちの方が耐えられないぞ」


 抑えろ。

 憎しみを殺せ。

 ここで、手を出してみろ。

 本当に殺されるぞ。


「こいつとは、昨日会ったばかりだぜ? アンタ、自分の娘がアバズレなのを見過ごしてんのかよ」

「ひどい……」


 カリナが口を尖らせて落ち込んでいた。


「言う通りにしてくれたら、悪いようにはしないさ。キミには、カリナの世話係を頼みたいんだ」

「世話係?」

「カリナは気難しくてね。放っておくと、仕事に支障が出てしまうんだ」

「待て待て! こいつ、彼氏がいるって!」

「キミは……、誰の事を言っているんだい?」


 感情のこもっていない眼差しがミラー越しに俺へ注がれる。


「私、彼氏いないよ?」

「男と2人で住んでるって言ってたろ」

「あれは、ペットのことだもん」


 ペット?

 おいおい。まさか、俺と同じ目に遭ったヤツがあの家にいたんじゃないだろうな。


「二度も言わせるな。キミには、カリナの世話を頼む。それ以外はしなくていい」

「ふふ。私の相手するだけで、一生食っていけるよ」


 見た目だけは可憐な笑顔で、カリナが言った。


「汗臭い仕事をしなくて済むし。周りに蔑まれなくていいんだよ。ずっと大事にしてあげる」


 腕に抱きつかれる。

 服越しにカリナの体温を感じていたが、俺はそれどころじゃない。


「私、日本が大好きなの。従順で、何でも話を聞いてくれるし、フランスより自由で、ジュールのパイプがたくさん通じるもの」

「……これ以上、面倒ごとは起こすな。手間が掛かるんだぞ」

「はーい」


 頭皮からシャンプーの甘い香りが漂ってきた。

 女の臭いを嗅いで、こんなに頭が痛くなったことなんてない。


 *


 辿り着いたのは、昨日来たカリナの屋敷。


「では、私はいくよ」

「いってら~」


 手を振ると、ジュールさんの運転する黒いセダンの車がUターンをして、走り去っていく。

 逃げようと思えば、今から逃げられるんだろうか。

 追い詰められると、人間はこんな思考をしてしまう。

 でも、ダメだ。


 冷静になれば、このチョーカーにGPSがついていることを思い出す。

 下手な真似をすることは避けよう。


 不幸中の幸いにして、俺は日本村のネットワークから色々な話を聞いていたから、だいたいどういう手はずで事が進み、どうなるのかっていうのを把握している。


 俺が黙って車の消えた方向を見ていると、視界いっぱいにカリナの笑顔が飛び込んでくる。


「大丈夫だよ。ジュールは仕事があるときしか、ここに来ないから」

「仕事って……」

「仲良くなったら、教えてあげる」


 上機嫌なカリナに手を掴まれ、屋敷の中に入っていく。

 入り口までは、昨日見たから知っている。

 俺は靴を脱ぐと、棚に収納し……。


「あ、シンゴのはこっち」

「は?」


 脱いだ靴を手に取り、箱型の棚へ放り込まれる。

 それから、鍵を差し込んで、錠を掛けられた。


「逃げたら悲しいもん」


 くそったれ。

 靴まで管理されるか。


 立ち止まることを許されず、再びカリナに手首を掴まれると、廊下を歩いていく。

 日が高い時間帯なのに、中は薄暗くて、日当たりが悪かった。


「お風呂沸かすから。部屋に行こうね」

「着替え持ってないって」

「あ、そっか」


 カリナは振り向くと、廊下の奥に広がる薄闇に向かって叫ぶ。


「オデット! 男物の服買ってきて!」


 やっぱ、誰かいるんだな。


「これでよし。さ、こっちだよぉ」


 手を引かれて、二階へ上がっていく。

 ここに至るまでの間、俺はこの屋敷の中が何だか心地悪く感じていた。


 絵画、花瓶、日用品、ぬいぐるみ。

 こんなのが飾っているのに、屋敷の中はまるで異界のように感じていた。

 

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