カリナ
「ねえ、名前おしえて」
再び背負って、家とは真逆の方角へ歩き出す。
公園にきたことで、少々南下したため、少しだけ北へ戻ってから、歩道橋を渡って西へ向かう。
その間、ずっと女は離れてくれなかった。
「な~ま~え」
耳元で囁かれ、ぞわっとしてしまう。
「信吾」
「シンゴね。私、カリナ。よろしくね」
「……ああ。ども」
本当は、外国人だからって、こんな態度を取りたくないし、普段は普通にしている。
でも、このカリナと名乗った女は、俺に苦手意識を芽生えさせてくるのだ。
「……素っ気ないね」
さっさと送り届けて帰る。
これしか頭にない。
「シンゴ、感じ悪い」
声に泣きが入ってくるので、面倒くさいけど、感情を押し殺して相槌を打つ。
「ごめん」
「私、無視されるとイジメられてた時の事思い出しちゃうな。髪を燃やされたり、信仰に熱心じゃないねってからかわれたり」
「……ごめんって。そんなつもりじゃなかったんだよ」
俺は慌てて謝った。
見た目だけは、本当に清楚で可愛らしい女だけど、なんか苦手なんだよな。
「よく店に来るの?」
「ううん。たまに。平日の昼に、外に出られたときだけ」
平日の昼じゃ、俺はいないな。
夕方から夜までのバイトだし、時間帯が合わないから見かけなかったってだけか。
「シンゴはいつから働いてるの?」
「半年くらい前かな」
「中華の人じゃないでしょ?」
「どうだろうね。日本語が流暢な中国人かも」
「うそ」
身を乗り出してきたので、足が止まる。
「日本の人って、無意味に頭を下げるじゃない」
「無意味って……」
「素直だし」
そりゃ、欠点だな。
本来は良い意味だろうけど、このご時世じゃ、ただの騙されやすい人間だ。
「お話に付き合ってくれる。とても優しい人よ。飼うなら、こんな人がいい」
「ん?」
今の言い方、引っかかるな。
「私ね。同棲してた人に殴られちゃって。落ち込んでたの」
おいおい。勘弁してよ。
DVか?
可愛そうだけど、巻き添えはご免だった。
「だったら、警察に相談すればいいじゃん。女の証言だけで、そういうの介入できるようになっただろ?」
一昔前とは違って、法律が色々と変わったらしい。
だから、間違っても『女は社会的な弱者ではない』と言う事が、当たり前になっている。
国家権力が、女性の訴え一つで介入できる時点で、相当なものだ。
この手の話になると、色々と揉めたり、変なのが出てくるので、俺は関わりたくないけど。
真剣に困っているなら、そういう手があるって事を薦めただけだ。
「警察に言っても、傷ついた心は治らないよ」
「……そっか」
申し訳ないけど、これ以上は触れないでおこう。
……って思ってんのに、カリナは悲壮感たっぷりで、話を続けてくる。
「あ~あ、私なんて生まれてこなきゃよかったな」
「…………」
「何でこんな事になっちゃったんだろう。私、普通に暮らしたいだけなんだよね。あの人の肩に寄り添って、辛い時は一緒に悲しんで、楽しいことがあったら一緒に喜びを分かち合って」
なんだっけ?
猛烈に嫌な予感がした俺は、過去に摩耶からこんな話を聞いたことがある。
『チカがさぁ、ま~たヘラっちゃって』
『なに、ヘラった?』
『例のメンヘラが発動したんだよね。あの子、関わるなって言ってんのに柄の悪いグループとツルむんだもん。嫌になるよぉ』
なんて会話をしたっけ。
メンヘラって、それこそ色々なタイプがいて、細かく分けるとキリがないらしい。
加えて、そこに外国人特有のメンヘラを持ち込むと、もう分からなくなる。
一貫して、共通しているのは『何かにつけて病んでいる』ことである。
「ぐすっ。私、ただのオモチャだったんだ。都合の良い女だったんだな、って」
あ、なるほど。
店長が手出すな、って言ってたのこれか。
だからか。
メンヘラに対する禁止事項を思いっきり忘れていた俺は、どんどん地雷を踏みぬいていく。
「あー、そんな事ないでしょ。うん。相手が悪いんだって」
「そうなのかなぁ」
一つ、優しくしてはいけない。
「辛いよ。苦しいよ」
「大丈夫だって」
一つ、構ってはいけない。
「シンゴは、……味方でいてくれる?」
「う~ん。うん。うん。味方、味方」
一つ、絶対に味方にはなっちゃいけない。
「シンゴ」
「はい」
「ありがと」
ほっぺに生温かい感触があった。
ちょっとだけ吸われたせいで、ちゅっと音が鳴る。
どうやら、キスをされたようだ。
この時の俺の感情は、無である。
「ていうか、これ道合ってる?」
「まっすぐだよぉ」
今すぐ、離れたかった。
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