第5話

視察を終えた頃には、太陽が東のジャニストン山脈の尾根に吸い込まれ始めていた。すっぽりと見えなくなるのと同時にエルスタインは石切場を去っていった。

 ニックは徐に近場の岩壁を思いっきりに殴り、叫んだ。

「くそッ!あの野郎!」

 鈍い音と共に、ニックの拳から血が滴った。ぽたりと地面に落ちて赤黒い染みを作った。従業員の一人がニックに近寄って慰めるように、

「社長、よくやったよ。俺たちのことは心配いらない。一ヶ月や二ヶ月、給料なくたって働くさ。恩返しさせてくれ」

「馬鹿、そんなわけにいくか!第一、お前ら二ヶ月も暮らしてけるだけの貯金あんのか?」

「そりゃ、そんな金はないけど。……なんとかするよ……」

 そう言った従業員の声は、尻窄みになっていた。十年も続いた戦争が終わって、まだ、一年余。戦いには勝ったが国の経済は大きな打撃を受けた。経済だけではない。ありとあらゆるものが戦争によって失われた。誰しも、明日を生きていくので精一杯なのだ。特にニーラ人には、より一層、厳しい世の中なってしまった。誰も悪くない。だから、余計に悪かった。

「すまねぇ。お前たち。ウチはこれで終わりだ。元々、無理な話だったんだ。ニーラ人の俺たちが会社を起こして成功しようなんてな。…………本当に、すまない」

 ニックは膝をつき、地に頭をつけた。

「やめてくれよ」「謝る必要ないぜ」「顔を上げてくれ」そんな声が、次々にと飛び交った。

 エイラは彼らの気持ちが身に沁みて理解できた。この国で、ニーラ人が生きていくのは、簡単なことではない。表面的なわかりやすい差別は減ったかもしれない。けれど、潜在的な差別意識は強くこの地に根を張っていて、除草剤を地表に振り撒いたところでどうにもならない。シュルト人に植え付けられた無意識の差別意識は、無意識であるからこそ変えられない。エイラの母は、些細なことで命を落とした。直接的な死因は脳梗塞だが、その起因となったのは、ただの虫歯だった。痛みが出た時点で歯医者に罹ってたが、その歯医者にやんわりと診察を断られ、それで母は、虫歯だし大したことにはならないだろう、と思ったそうだ。だから、それ以降、歯医者に行かなかった。だが、それで、死んだのだ。なんともあっけない。けれど、これが、現実だ。

 ここにいる、みんなも分かっている。仕方のないことなのだ。どうしようもできない理不尽な物でこの世は溢れている。

「被害者面は止めろ」

 静まり返った石切場に、突如、その声は響き渡った。声の主は、ジルクニフだった。いつのまにかニックの正面に立っている。相変わらずの無表情。ニックは、顔を挙げるとジルクニフを睨みつけた。その表情は鬼気迫るものがあって、側から見ているだけのエイラですら、一瞬、怯む程だった。

「なんだと?」

「聞こえなかったなら、もう一度言おう。被害者面は辞めろと言ったんだ」

 ジルクニフは淡々と言う。

「お前、何様のつもりだ?ずっと、木陰から見ていただけで、手伝いもしなかったようなボンクラに俺たちの何が分かる!」

「アンタらの気持ちは、俺には分からない。ニーラ人じゃいからだ。だが、何もかもニーラの血筋の所為にすべきじゃない」

「なんだと?調子乗ってんじゃねぇえぞ!!!」

 ニックは立ち上がり、ジルクニフの胸倉をつかみ、拳を振りかぶった。しかし、ジルクニフは表情一つ変えずに言う。

「今回の件でもそうだろ、お前たちはニーラの血筋の所為にしたがるが、事実は違う。安易に契約を請け負い、あの市長のされるがままになって、対策を打つのが遅れた。それが、原因だ」

 ニックは返す言葉が見つからないのか、悔しそうに下唇を噛んだ。一方で、拳にはより一層の力が込められているように見えた。だが、そんなことに構うことなくジルは続ける。

「ただの、されるがままの被害者に未来はない。成長もない。だから、そんな醜いな考えは今すぐ、捨てろ」

 その時のジルクニフの目には僅かに感情が見て取れた。それが、怒りなのか、失望なのか、感激なのか、エイラには分からなかった。だが、初めて彼を人間らしいと感じた瞬間だった。

「そんな綺麗事を言ったって、何も解決しねぇんだよ!!!」

 ニックは掠れた声で叫ぶと、血の滴った拳で思いっきりジルクニフの顔面を殴りつけた。胸倉をつかまれていたために、受け身も取れず、ジルクニフは二メートル以上吹き飛ばされた。

 誰も言葉を発しない。静まり返ったその場で、ジルクニフはゆっくりと立ち上がった。殴られた、左頬を気に掛ける様子ない。ただ、真っすぐ、冷徹な眼差しをニックへ向けた。

「それは違うぞ。ニック。まだどうとでもなる。何もできない被害者のお前らに変わって、俺がそれを証明しやる。最初から言っていたようにな」

「どうするって、もう期限は明日の正午なんだぞ!今から、用意できるわけがないだろ!」

 ニックが叫んだ。「そうだ、そうだ」と従業員たちもニックの後に続いた。ジルクニフは冷静に答える。

「明日までに、石を用意する必要はない。今、ここにある分で十分だ」

「何を戯けたことを」

「お前たちは、子供だ。盲目に、ただ目の前のことだけが真実だと思っている。やるべきことも、すべきことも分からない、迷子の子羊だ。だから、俺が救っている。俺を信じろ、ニック」

 あまりにもの言い草に、ニックは、もしかしたら、と思った。この男に嘘をつく理由がない、というのがそう思った一番の証左だった。

「いいだろう。話だけは聞いてやる」

 その時、エイラはジルクニフがにやりと、笑ったような気がした。実際は、口元がピクリと動いただけで、笑ってはいなかった。でも、普段からあまりに無表情であるために、僅かな変化も大袈裟に見えたのだ。

「この石切場の権利を、俺に売れ」

 ピシャリとジルクニフは、言い切った。

「はあ、できるわけないだろ!!」

「落ち着け、売れとは言ったが、実際に権利のやり取りは必要ない。ただ、合意があればいい。」

「合意があればいい?お前は、絵空事でも言ってるのか?」

「順を追って話そう。まず、お前らはエルスタインが何の目的でこんなことをやってると思ってる?」

「何って、簡単さ。ニーラ人の俺たちに対する嫌がらせだろ!」

 ジルクニフはやれやれ、と言うように首を傾げた。

「これだら、被害者面はよせと言ったんだ。冷静に考えて、ただの嫌がらせ目的でこんなことをすると思うか?奴には何のメリットもない」

「確かに、そうだけどよ……」従業員たちは口を揃える。

「分からないようだから、教えてやる。奴の目的は、この石切場そのものだ。恐らく奴は、違約金が払えならないら、この石切場の利権を代わりに差し出せと言ってくるはずだ」

 ジルクニフの口調は淡々としていて、エイラは銀行口座を作った時のことを思い出した。難しくて殆ど聞いていなかったが、説明をしてくれた女性の口調とよく似ている。まるで、うまい口車に乗せられているような感覚。

「仮に、奴の目的がそうだったとしても、なんの解決にもならないじゃないか」従業員から野次が飛ぶ。

「話は最後まで聞け。重要なのはここからだ。奴の代わりに、俺が石切場を買ったとなればどうなる?それに、納品されるはずだった石どうだ?使い道が決まっているはずだろ?」

「ああ、図書館の建造に充てられることになってる」

 ニックが答えた。

「市が購入してるわけだから、出所は当然、税金だ。融通は効かない。少なくとも、「石切場の利権を手に入れるためだけの無理な発注」なんて、できるはずがない。必然的に、納入された石を何かに利用する計画が既に決まっているはずだ。恐らく奴は、無理難題を吹っ掛けて、石切場を手に入れ、そこで今よりも安い値段で石を生産するつもりだろう」

「そうだとしたら、俺たちは尚更おしまいだ。この依頼をこなせたとしても、また同じようなことが起こる」

「だから、俺が権利を買う。つまり、お前たちから石切場を奪うことができなくなるわけだ。つまり、石も手に入らない。そうなったら奴はどうすると思う?」

「別とろこに、また発注をするんじゃないか?」

「それは不可能だ。元々、かなり理不尽な大口の発注だろ?今から新しく発注するのは無理がある。恐らく奴は、俺から石切場を買うしか方法がなくなる。――つまり、俺はお前らから石切場を買い、エルスタインは俺から石切場を買う。お前らは、それで得た金で違約金を支払い、最後に俺がお前たちに石切場を返す。これなら、誰も損はしないし、全て元通りだ。分かるだろ?」

「お前の話は大体、理解できた。でも、本当にうまくいくのか?」

「ああ、大丈夫だ。任せておけ。今から、エルスタインに会ってくる。ここで、朗報を待っていろ」

 ジルクニフは、それだけ告げて、石切場を出て行った。エイラも後を追う。残されたニックたちは、顔を見合わせた。半信半疑のものが多いようだった。棚から牡丹餅というべきか、絶望的な状況が急転して、状況についてこれていないものも多かった。彼らの懐疑が、払拭されたのは、それからわずか三〇分後の事だった。




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