三幕 餓鬼祓《がきばら》い
「でもさ、やっぱり文月なんじゃないの」
「なんだ、こんな時に……おい、後ろ!」
清応の叫びに杏点が振り向くと、目の前に迫るのは錆びかけの刀。
きしゃん!
たまらず目を背けた清応が聞いたのは、鉄の
「せいや!」
ごぅぁああああ!
この世ならぬ雄叫びが木々を揺さぶり、賊は口から目鼻から、赤い炎をぼうと吹き上げたのです。賊はしばらく、胸と喉をかきむしるようにして苦しみましたが、やがて口からでろりと何かを吐き出します。
炎の塊にも見えたそれは、全身を火に包まれた醜い小鬼でした。きぃきぃと虫のように鳴き苦しみながら、やがて小鬼は燃え尽きました。一方の賊の体には、火傷の跡などひとつも残ってはおりません。文月の法力の火は、賊に取りついた小鬼、
杏点が呆けてその始終に見入っている間にも、文月は草履の足で木々の間をひゅんと駆け、枝から枝へと舞い跳び、他の賊と
「余計なことを言う前に、もう少し見習ってもいいんじゃないか」
腰を抜かしたままの杏点に、清応は手を差し出します。ぐいとひっぱって杏点を助け起こしてはやりましたが、
「だって、近頃特にあんな感じだよ。まるで
あきれるような、心配するような、どちらとも取れる口ぶりで、杏点は文月のことをそう喩えます。うなずきこそしないものの、清応も実は心の内で、そう感じておりました。
亡骸のない心蔵の供養を終え、五日。
童たちはこうして普段どおり、餓鬼祓いの
人の救済の使命を帯びた
この日清応たちが降り立ったのは、室町の世も末の京。飢えて人の肉を欲する餓鬼どもが、群れて旅人の身を脅かしていることを知り、お舎那さまは童たちを
鈴経が落とした刀を左手に、錫杖を右の小脇に構え、文月は餓鬼憑きの賊ども数人を一手に引き受けます。
右からの槍を背を反らして避け、落ち葉の地面に倒れつつも賊の喉へ錫杖を突き込みます。好機とばかりに並んで斬りかかる左手の賊に、脚目がけて刀をひゅんと投げると、刀は賊の太ももを貫き、賊は仲間を巻き込んでどうと転びます。
「やあっ!」
高枝から飛び降りざま、清応の打ち下ろす錫杖が、賊どもの背中を順にかん、かん、かんっと小気味よく叩きます。背骨を打たれた賊どもは各々に身悶えした後、やはり燃えさかる餓鬼を吐き出して、がくりと力尽きました。
「助かったよ清応、ありがとう」
「なら良かったよ」
童たちの中でも、文月の武の技は飛びぬけて優れておりました。自分が出なくとも十分太刀打ちできただろうに。清応は思いましたが、それでも文月の感謝の言葉は、素直に嬉しく胸を温めます。
残る賊は二人。餓鬼どももようやく文月たちの正体を察し、腰引けの様相でじりじりと下がりながら、逃げる機会を伺っているようです。
「えええい!」
賊の後ろに回った杏点が、ここぞとばかりに斬りかかります。肩口を狙った杏点の刀でしたが、残念ながらそれは空しく空を切ります。
「あれ?」
すんでの所で餓鬼たちは、賊の口からひょいと飛び出し逃げたのです。賊二人の体は揃って脱力し、顔からどさりと伏して動かなくなりました。
「なんだい、つまんないの」
ふんと鼻を鳴らした杏点に、清応と文月は顔を見合わせて苦笑いします。
「今度も文月さまのおかげで楽勝楽勝……おっと」
鈴経がふざけていると、所々に倒れた賊たちがひとりふたりと正気を取り戻し、よろめきながらも起き始めます。文月たちは、腰帯に挟んで提げていた赤い房四つの
清応がふと見ると、文月は何やら五歩ほど先の、木の根元あたりの一点をじっと見ています。視線を追うと、わずかにきらりと光るものがありました。それは、金糸の紋が控えめに入った、
清応は手早くあたりを見回しましたが、主らしき
「心蔵がいたら、もっとすんなり終わったよ。きっと」
文月は落ちている小袖に近寄ることはせず、ふいと顔を横に向けました。結袈裟を掛けて目を伏せた文月の力のない笑みは、落ち込んでいるようにも、また皮肉を込めているようにも見えました。杏点の耳打ちはやはり、文月にしっかり聞こえていたのかもしれません。
「ごめんね。でもさ、心蔵がきみを好いていたほどは、きみはそうでもなかったんじゃない?」
山道を降り始めた文月をとてとてと追って横に並び、杏点は無遠慮にそんなことを言い出します。
「そんなことはない」
文月は短く言って、構わずざっざと歩みを進めます。
「そうなの? でも心蔵はきみにしつこくまとわりついてさ、稽古の時もうっとうしそうだったじゃない」
「そんなことで僕が心蔵を、どうにかしたと?」
文月の言葉に、わずかに言葉を選びあぐねた間があったのも、清応は聞きとっておりました。それでも杏点は、むしろ清応にはうらやましくさえ思えるほど無遠慮に、文月に問い続けます。
「実はしつこく迫られて、嫌がったあげくに、とか」
「何をだい」
「その……ほら、言わせないでよ」
「知らないよ。何のことだい」
「なんだい、とぼけてさ」
まるで見えない腫れ物にさわるような、それでも確かに何を指しているのか明らかに察しているはずの、文月と杏点のじれったいやりとり。傍からそれを聞いていて、清応はどうしても、あの夜文月の素肌に見た火傷とそうでない紅色の跡のことを、思い出さざるを得ませんでした。今もまだ鈴懸の下のそこには、あれが残っているのだろうか、と。
はあ、とわざとため息を吐いてから、文月はたしなめるような、困ったような微笑みを作ります。
「心蔵がなついていたのは僕だけじゃないさ。お舎那さまからも杖や車太刀の技を学びたがって、熱心に身に着けていたよ。きみも少し見習ったらどうだい。稽古の時、いつも居残りだろう」
むう、と頬をふくらせて足を止めた杏点の背を、「だとさ」と叩いて鈴経が追い越して行きます。清応は
餓鬼祓いの折、清応と文月はよく連れだって現世に降ります。阿螺村で、特に長く文月と過ごしてきた清応を、以心伝心の相棒として、お舎那さまがそう計らってくれるのです。
戦の場において、武に長けた文月は大抵、童たちを束ねる
ですが、かつて共に餓鬼祓いに参じた心蔵は、文月の言うとおりそれは見事な技を身に着けておりました。お舎那さまに教わった車太刀の技を、二尺にも足らぬ短い独鈷の剣であやつり、餓鬼どもを斬り
「心蔵がいたら、ね」
清応は
ならばなぜ、心蔵はいなくなったのか。それを文月に問うまいと自分を戒めるほど、清応の胸はざわざわと苦く疼くのでした。
§ § §
「ようもやってくださった。行者の方々」
ふもとの関所に近い
「賊に憑いていた餓鬼はあらかた祓いました。あとの始末は名主殿のご随意に」
とっぷりと日は暮れ、庭の松明と奥の間の灯の揺らぎが、名主の肉厚の顎に奇妙な影を作ります。板間の向こうの障子の奥は、暗い蝋燭がゆらめいており、ぼんやりとした人影がいくらか映っております。遅い昼寝でもしていたのか、丸々太った名主の着ている
「はいはい、承知しました。明日にでも人を束ねて、山狩りに繰り出しましょう。お急ぎでなければどうぞひと晩、我が家にお泊りくだされ。これから山越えもないでしょうに」
さあさあどうぞと手で招きながら、名主は文月の脚絆の足首から、腰帯にくくった結袈裟から、薄い肩から顔から、値踏みするような視線を這わします。
気味の悪さを覚えながらも、文月は努めて慎ましく、
「修験の身にございます。お気持ちだけ」
そう頭を下げて立ち去ろうとします。ですが、名主は遠慮もなく文月の手首を掴んで引っ張るのです。
「いやいや、ここで行かせてしまっては仏様に申し開きが立たぬ。特にそなた、きれいな顔立ちをしておる。手首も細うて
文月の横顔に、いら、と不機嫌が走ったのを、清応は見て取りました。そしてすぐさま、
がしゃん!
とわざと錫杖を地面に倒します。びくり、と名主の男が手を離した隙に、文月はさっと身を引きます。
「これはご無礼仕った。疲れで手が滑ったもので」
清応がわざとらしく詫びると、後ろで杏点がぷっと吹き出し、鈴経が咳払いでごまかします。名主の男がわかりやすく、ふん、とむくれるのにもかまわず、文月が、
「それでは」
と、背を向けた、その時でした。
ばざん、と音を立てて、奥の障子が倒れました。
何事かと、文月たちは振り返ります。障子の奥から
男の子が着ている
男の子は衣は乱れて帯もしておらず、起き上がった拍子にずるりと素裸になってしまいました。えんえんと泣きじゃくる男の子は、小さなふぐりをぴんぴんと揺らしながら、文月に駆け寄り、
「たすけてください、行者さま!」
その膝元にすがり付きます。
「くぉら、あっちへ引っ込んでおれ!」
慌てた様子の名主ががなり立て、男の子の髪をふん掴まえようとしますが、文月はとっさにその手を払いました。
「お、おい、どうしたんだ」
戸惑う鈴経と杏点に、文月は答えず、かっと見開いた目で名主を睨みつけています。つい先ほどまでの、慎ましい行者の顔から一変。憤怒の炎を瞳に宿し、今にも斬りかかりそうな気配を、その全身から立ち昇らせておりました。
「名主殿、これはどうしたことか」
低くくぐもった文月の問いに、名主は舌打ちを返します。清応が男の子を見ると、文月の怒りの
清応の背を、
「やめろ、文月!」
清応は手を伸ばしましたが、ついにそれは間に合いません。しぁん、と刃がひらめく音を置き去りに、文月は名主の後ろ数歩向こうまで、目にも止まらぬ居合い太刀で斬り抜けておりました。
びじゅっ、と腹から横一文字に、そして「ごぼっ」と口から、名主の体は血の塊を吐き出し仰向けに倒れます。ですが、遅かった、と清応が悔やむ間もなく、
「構えろ、みんな!」
文月は残身から流れるように振り返り、すぐさま剣を
――ええい、余計な真似を!
血の海の真ん中から、おどろおどろしい唸り声が響きます。名主の体のたるんだ肉がぶずぶずと泡立ち始め、熱して溶かした硝子のように真っ赤に光り、屋根に
「まずい、下がれ!」
清応の声を合図に、鈴経も杏点も各々に柵を飛び越え、四方へ散ります。膨らんだ肉の塊は屋根の藁葺きを揺らして落としながら、ぐつぐつと
「うええっ! なんだこいつ!」
「こんなわかりやすく
杏点と鈴経は口々に、嫌悪を露わにします。見上げるほどに大きくなった
――おのれ、何ゆえ貴様らのような小童どもが!
――我らが愉しみを台無しにしよるか!
「賊に憑いていた餓鬼どもは、貴様の人さらいの片棒を担ぐ一味か。
巨大な鬼を前にして、文月は微塵も怯むことなく声を張り、斬りかかります。
当時、密かに山賊と結託した地頭や荘園領主が、いくらかの人をつけて
小鬼どもを率いた色情餓鬼は、人の作ったこの悪事の仕組みに目を付け、名主と賊どもにそれぞれ取り憑き、卑小な我欲を首尾よく満たしました。賊に憑いた餓鬼は
「こ、こんな大きなやつ、どうしようっての?」
今にも泣き出しそうになりながら、杏点は通りの反対側までさっさと逃げています。素裸の
「大丈夫かい、文月」
清応は餓鬼から目を離さぬまま、隣の文月を案じます。
「大丈夫だよ。このくらいの奴、僕らは何度か祓ってきたじゃない」
文月も清応に目を向けず応じます。ですが、清応が案じているのは目の前の鬼のことではありません。
清応は男の子の身に刻まれたあざを、あの夜文月の体に見たそれと、どうしても重ねて見ずにはいられませんでした。色情餓鬼がその子にしたであろう仕打ちを推し測った時、文月は何か、心の
ですが、そうじゃないんだ、と問答している余裕は、今はまだありません。
文月は目を閉じ何事か唱えながら、右手の錫杖の先と、左手の剣の柄とを合わせます。きゅるりと金色の光が得物二つを包んだかと思うと、剣と錫杖はひとつとなって、
清応も続いて、
――ぬるぁあ!
文月を潰そうと振るった鬼の手が、ずずんと大地を揺らします。難なく横にかわした文月に、鬼は悔し気に唇を噛みます。そこへ。
ひゅきっ、と風切りが鳴き、直後にすたぁん、と小気味よい音が響きます。
――ごぅあ!
清応が放った矢をこめかみに食らい、鬼はたまらずのけぞります。清応の矢には
怯んだ隙に文月は地を蹴り、鬼の肘と二の腕をたんたと踏んで、肩まで駆け上がります。
――こ、
払いのけようと繰り出されたもう片方の手が、寸前、ひょうと上に跳ねた文月を捉え損ねます。高々と構えた金色の大得物が、夜空に三日月のごとく冴えて煌きます。
「地獄に帰れ、下衆め!」
額を狙って刃を振り下ろした、その時でした。
鬼が口を開くと、中からびゅるん、と長い舌が伸びたのです。鞭のようにしなる太く長い舌は、斬りかかる文月を真横からばちん、と
「かは……っ!」
受け身も取れずまともに背中から落ちてしまった文月は、呼吸が止まるほどの衝撃と痛みに小さく呻き、そのままがくり、と気を失います。
「文月!」
駆け寄ろうとした清応でしたが、今度は鬼も油断がありません。長い舌をびゅわっと振るって脅し、清応の足を止めます。
――くはは、舌の技には自信があっての!
――かような小僧、何人もひいひい言わせてきたわ!
そう勝ち誇りながらべろんべろんと振り回していた舌で、巨大な鬼はぐったりとした文月の体を捕らえて巻き取ります。清応は慌てて、先ほど
「文月を離せ! さもなくば……」
清応はきりきりと弓を引き、再び鬼の額を狙います。ですが、鬼は舌で持ち上げた文月の体を、矢の飛ぶ先いを
もやもやとした不安が
やはり男の子への辱めの跡を見て、頭に血が上っていたのだ。うすうすそれを感じていながら、なぜもっと文月に声をかけてやれなかったのか。いや、やはり心蔵と文月の間には、それを思い起こさせるようなことがあったのか。後悔と苦悩が、弓を握る清応の手に汗を滲ませます。
――さてと、肌のきれいなこいつは丸呑みにして。
――腹の中でとっぷり味わってやろうかの!
勝ちを確かと思い
しゃるらん、と、高くやわらかな鈴の音が、清応の頭の上を渡ってゆきました。
いつかどこかで聞いた響きに、清応は思わず空を見ます。
そこには、夜の
――ぬぎぇええええ!
何が起きたか、理解しようと頭が動き出すその前に、清応は矢を放ちました。ひゅきぃん、とより強く放った二の矢は見事、口を押さえて悶える鬼の右目を潰しました。
――ぬぉお、ぬぐぁあ! おのれ、おのれぇえ!
堪えかねた鬼は、己の背中で屋敷をめきめきと潰しながら倒れ、口と目を手で覆って転げ回ります。清応が長弓と矢を束ねて再びまじないを
いざ仕留めんと清応が屋根の上へ飛び乗ったちょうどその時、どうしたことか、鬼はぱったりと動かなくなりました。よもやあれで力尽きるはずがない、と、清応はまだ大矛を構える手を下げません。ですが、やがて鬼の体は首のあたりから、法力の火に包まれてゆきます。
今ひとつ納得がゆかぬまま、清応は得物を元の錫杖と剣に戻し、屋根を飛び降りて文月のもとへ駆けつけます。
「文月、しっかりしろ、文月……」
清応は文月の両肩を支え、こわごわ上半身を起こしてやります。頭を打ちはしていまいか、どこかの骨でも折れてはいまいか。鬼のよだれと血に汚れた顔を、自分の袖を引っ張った手で拭ってやります。すると。
「ねえ、無事かい?」
清応の背に、声がかかります。聞き覚えどころの話ではありません。少し前まで、朝に晩に聞いていたはずの、共に暮らしていた童の声。
清応が振り向こうとしたその直前、文月がこふこふと咳き込んで、意識を取り戻します。
「き……清応、ごめ……大丈夫?」
「文月、ああよかった! 僕は平気だ。きみこそ、どこか痛いところはないか? 起きられそうか? 水、飲めるか?」
文月のかすれた声を聞き、清応の目頭が熱くなります。ついつい重ねて問いかけてしまいましたが、そうしているうちに再び、
「ああ、起きたんだね。よかった」
清応の後ろにいたその誰かが、安堵したようにそう言いました。
それを聞いた文月の顔が見る見るうちに強張り、清応の手をばっと振りほどくようにしてそちらを向きます。
童が着た白い袈裟の裾と袖、そして
夜風にさやさやとなびくのは、おでこの上でひもを結わえ、うなじのあたりの後ろ髪を丁寧に切り揃えた
「心……蔵?」
喉の奥から、胸の芯から絞り出すようにして呼んだその名に、市女笠の童はきょとんとして小首を傾げます。
「誰のこと、それ。僕には
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