三幕 餓鬼祓《がきばら》い

「でもさ、やっぱり文月なんじゃないの」

 鈴懸すずかけ姿の杏点が清応にした耳打ちは、耳打ちらしくなく声高で、文月に聞こえていてもおかしくありませんでした。

 きょう七口ななくちが一、丹波口へと続く名もなき山道。柑子色こうじいろの夕陽が木々の合間から注ぐ中で、

「なんだ、こんな時に……おい、後ろ!」

 清応の叫びに杏点が振り向くと、目の前に迫るのは錆びかけの刀。足軽鎧あしがるよろいの賊が振り下ろした数打物かずうちもののなまくら刀に、杏点の身動きは間に合いません。


 きしゃん!


 たまらず目を背けた清応が聞いたのは、鉄の遊環ゆかんのいななく音。文月がまっすぐ伸ばした錫杖が、間一髪、賊の刀を払い飛ばします。

「せいや!」

 錫杖しゃくじょうの底を縦に振り上げ、賊の胴丸をがんと叩きます。怯んで下がった賊との間合いを、踏み込み詰めてさらに突き押し、じりじりじりと攻め立てます。木の根に足を取られた賊が、ついに尻もちをついた所で、大上段に掲げた得物を、額の一点に打ち下ろします。


 ごぅぁああああ!


 この世ならぬ雄叫びが木々を揺さぶり、賊は口から目鼻から、赤い炎をぼうと吹き上げたのです。賊はしばらく、胸と喉をかきむしるようにして苦しみましたが、やがて口からでろりと何かを吐き出します。

 炎の塊にも見えたそれは、全身を火に包まれた醜い小鬼でした。きぃきぃと虫のように鳴き苦しみながら、やがて小鬼は燃え尽きました。一方の賊の体には、火傷の跡などひとつも残ってはおりません。文月の法力の火は、賊に取りついた小鬼、餓鬼がきのみを祓ったのです。

 杏点が呆けてその始終に見入っている間にも、文月は草履の足で木々の間をひゅんと駆け、枝から枝へと舞い跳び、他の賊と丁々発止ちょうちょうはっし渡りあっている鈴経の元に加勢に行きます。

「余計なことを言う前に、もう少し見習ってもいいんじゃないか」

 腰を抜かしたままの杏点に、清応は手を差し出します。ぐいとひっぱって杏点を助け起こしてはやりましたが、

「だって、近頃特にあんな感じだよ。まるで夜叉大将やしゃだいしょうか何かみたいだ」

 あきれるような、心配するような、どちらとも取れる口ぶりで、杏点は文月のことをそう喩えます。うなずきこそしないものの、清応も実は心の内で、そう感じておりました。

 亡骸のない心蔵の供養を終え、五日。

 童たちはこうして普段どおり、餓鬼祓いの修験しゅげんに出ておりました。文月と清応、鈴経と杏点。錫杖や鋼の直刀を手に四人が立ち向かうは、落人おちうどくずれの山賊十余人に取りついた餓鬼の群れでした。

 人の救済の使命を帯びた三尊尊天さんぞんそんてんが一、護法魔王尊ごほうまおうそんにより築かれた阿螺村くまらのむらは、童たちが共に暮らしながら修験に励み、世の仏法を守る護法童子として菩提ぼだいを得るための学び舎でした。建立の折、当時よんどころなき事情で家を追われたお舎那さまは、かつてご縁のあった護法魔王尊に見出され、童たちを集めて教えを授ける住職として、この寺の主となったのです。

 この日清応たちが降り立ったのは、室町の世も末の京。飢えて人の肉を欲する餓鬼どもが、群れて旅人の身を脅かしていることを知り、お舎那さまは童たちをつかわしたのです。阿螺村の山門は、救いを求める人のため、現世のどんな時代や土地とも自由に行き来することができるのです。

 鈴経が落とした刀を左手に、錫杖を右の小脇に構え、文月は餓鬼憑きの賊ども数人を一手に引き受けます。

 右からの槍を背を反らして避け、落ち葉の地面に倒れつつも賊の喉へ錫杖を突き込みます。好機とばかりに並んで斬りかかる左手の賊に、脚目がけて刀をひゅんと投げると、刀は賊の太ももを貫き、賊は仲間を巻き込んでどうと転びます。

「やあっ!」

 高枝から飛び降りざま、清応の打ち下ろす錫杖が、賊どもの背中を順にかん、かん、かんっと小気味よく叩きます。背骨を打たれた賊どもは各々に身悶えした後、やはり燃えさかる餓鬼を吐き出して、がくりと力尽きました。

 飛蝗ばった跳びで起き上がり構えを整えた文月は、清応の背中と背中を合わせ、今一度四方に睨みを利かせます。

「助かったよ清応、ありがとう」

「なら良かったよ」

 童たちの中でも、文月の武の技は飛びぬけて優れておりました。自分が出なくとも十分太刀打ちできただろうに。清応は思いましたが、それでも文月の感謝の言葉は、素直に嬉しく胸を温めます。

 残る賊は二人。餓鬼どももようやく文月たちの正体を察し、腰引けの様相でじりじりと下がりながら、逃げる機会を伺っているようです。

「えええい!」

 賊の後ろに回った杏点が、ここぞとばかりに斬りかかります。肩口を狙った杏点の刀でしたが、残念ながらそれは空しく空を切ります。

「あれ?」

 すんでの所で餓鬼たちは、賊の口からひょいと飛び出し逃げたのです。賊二人の体は揃って脱力し、顔からどさりと伏して動かなくなりました。

「なんだい、つまんないの」

 ふんと鼻を鳴らした杏点に、清応と文月は顔を見合わせて苦笑いします。

「今度も文月さまのおかげで楽勝楽勝……おっと」

 鈴経がふざけていると、所々に倒れた賊たちがひとりふたりと正気を取り戻し、よろめきながらも起き始めます。文月たちは、腰帯に挟んで提げていた赤い房四つの結袈裟ゆいげさを、そそくさと首に掛けます。鈴懸は童たちが現世に降りる際の正装で、そして結袈裟を首に掛けている間は、童たちの姿は現世の人の目には映らず、また声が届くことも触れられることもなくなるのです。

 清応がふと見ると、文月は何やら五歩ほど先の、木の根元あたりの一点をじっと見ています。視線を追うと、わずかにきらりと光るものがありました。それは、金糸の紋が控えめに入った、辻ケ花染つじがはなぞめの小袖でした。

 清応は手早くあたりを見回しましたが、主らしき女性にょしょうの姿も、またそのむくろらしきものも見当たりません。賊から逃げる折、かづいていたものを落としてしまったのでしょうか。それとも。

「心蔵がいたら、もっとすんなり終わったよ。きっと」

 文月は落ちている小袖に近寄ることはせず、ふいと顔を横に向けました。結袈裟を掛けて目を伏せた文月の力のない笑みは、落ち込んでいるようにも、また皮肉を込めているようにも見えました。杏点の耳打ちはやはり、文月にしっかり聞こえていたのかもしれません。

「ごめんね。でもさ、心蔵がきみを好いていたほどは、きみはそうでもなかったんじゃない?」

 山道を降り始めた文月をとてとてと追って横に並び、杏点は無遠慮にそんなことを言い出します。

「そんなことはない」

 文月は短く言って、構わずざっざと歩みを進めます。

「そうなの? でも心蔵はきみにしつこくまとわりついてさ、稽古の時もうっとうしそうだったじゃない」

「そんなことで僕が心蔵を、どうにかしたと?」

 文月の言葉に、わずかに言葉を選びあぐねた間があったのも、清応は聞きとっておりました。それでも杏点は、むしろ清応にはうらやましくさえ思えるほど無遠慮に、文月に問い続けます。

「実はしつこく迫られて、嫌がったあげくに、とか」

「何をだい」

「その……ほら、言わせないでよ」

「知らないよ。何のことだい」

「なんだい、とぼけてさ」

 まるで見えない腫れ物にさわるような、それでも確かに何を指しているのか明らかに察しているはずの、文月と杏点のじれったいやりとり。傍からそれを聞いていて、清応はどうしても、あの夜文月の素肌に見た火傷とそうでない紅色の跡のことを、思い出さざるを得ませんでした。今もまだ鈴懸の下のそこには、あれが残っているのだろうか、と。

 はあ、とわざとため息を吐いてから、文月はたしなめるような、困ったような微笑みを作ります。

「心蔵がなついていたのは僕だけじゃないさ。お舎那さまからも杖や車太刀の技を学びたがって、熱心に身に着けていたよ。きみも少し見習ったらどうだい。稽古の時、いつも居残りだろう」

 むう、と頬をふくらせて足を止めた杏点の背を、「だとさ」と叩いて鈴経が追い越して行きます。清応は殿しんがりで、逃げた餓鬼が退き際を襲ってこないか気を張りながらも、三人のその様にくくと笑いました。

 餓鬼祓いの折、清応と文月はよく連れだって現世に降ります。阿螺村で、特に長く文月と過ごしてきた清応を、以心伝心の相棒として、お舎那さまがそう計らってくれるのです。

 戦の場において、武に長けた文月は大抵、童たちを束ねるかしらを務めます。そして清応は、年長で遠目の利く長身であることも手伝ってか、いつも文月に殿を任されます。切っ先を並べて一番槍で戦いたい気持ちももちろんありますが、何より戦の肝要を預けられることが、誇らしくもありました。

 ですが、かつて共に餓鬼祓いに参じた心蔵は、文月の言うとおりそれは見事な技を身に着けておりました。お舎那さまに教わった車太刀の技を、二尺にも足らぬ短い独鈷の剣であやつり、餓鬼どもを斬りはらうその様のあざやかなこと。文月の隣で楽しげにそれを披露する心蔵に、心ならずも小さな嫉妬を覚えたことを、清応は確かに覚えておりました。

「心蔵がいたら、ね」

 清応はひとちて、藍染めに沈んでゆく空に、足を早めます。

 ならばなぜ、心蔵はいなくなったのか。それを文月に問うまいと自分を戒めるほど、清応の胸はざわざわと苦く疼くのでした。


 § § §


「ようもやってくださった。行者の方々」

 ふもとの関所に近い名主みょうしゅの屋敷へ、文月たちは立ち寄りました。餓鬼祓いを終えた暁にはここの名主に知らせてやるよう、お舎那さまに言いつけられておりました。

「賊に憑いていた餓鬼はあらかた祓いました。あとの始末は名主殿のご随意に」

 とっぷりと日は暮れ、庭の松明と奥の間の灯の揺らぎが、名主の肉厚の顎に奇妙な影を作ります。板間の向こうの障子の奥は、暗い蝋燭がゆらめいており、ぼんやりとした人影がいくらか映っております。遅い昼寝でもしていたのか、丸々太った名主の着ている直垂ひたたれは、上衣うえのきぬの端々が乱れておりました。

「はいはい、承知しました。明日にでも人を束ねて、山狩りに繰り出しましょう。お急ぎでなければどうぞひと晩、我が家にお泊りくだされ。これから山越えもないでしょうに」

 さあさあどうぞと手で招きながら、名主は文月の脚絆の足首から、腰帯にくくった結袈裟から、薄い肩から顔から、値踏みするような視線を這わします。

 気味の悪さを覚えながらも、文月は努めて慎ましく、

「修験の身にございます。お気持ちだけ」

 そう頭を下げて立ち去ろうとします。ですが、名主は遠慮もなく文月の手首を掴んで引っ張るのです。

「いやいや、ここで行かせてしまっては仏様に申し開きが立たぬ。特にそなた、きれいな顔立ちをしておる。手首も細うて女子おなごのようじゃ。餓鬼相手の戦で、さぞ疲れておろう」

 文月の横顔に、いら、と不機嫌が走ったのを、清応は見て取りました。そしてすぐさま、


 がしゃん!


 とわざと錫杖を地面に倒します。びくり、と名主の男が手を離した隙に、文月はさっと身を引きます。

「これはご無礼仕った。疲れで手が滑ったもので」

 清応がわざとらしく詫びると、後ろで杏点がぷっと吹き出し、鈴経が咳払いでごまかします。名主の男がわかりやすく、ふん、とむくれるのにもかまわず、文月が、

「それでは」

 と、背を向けた、その時でした。

 ばざん、と音を立てて、奥の障子が倒れました。

 何事かと、文月たちは振り返ります。障子の奥からまろび出たのは、とおにも満たない。それを見た文月の眉がぴくりと動き、清応もまた「あっ」と声を上げました。

 男の子が着ているころもに、二人は見覚えがありました。金糸の紋の辻ケ花染。餓鬼を祓った山道で見たものと、瓜二つです。これがただの奇遇であるなどと、二人が思うはずもありません。

 男の子は衣は乱れて帯もしておらず、起き上がった拍子にずるりと素裸になってしまいました。えんえんと泣きじゃくる男の子は、小さなふぐりをぴんぴんと揺らしながら、文月に駆け寄り、

「たすけてください、行者さま!」

 その膝元にすがり付きます。

「くぉら、あっちへ引っ込んでおれ!」

 慌てた様子の名主ががなり立て、男の子の髪をふん掴まえようとしますが、文月はとっさにその手を払いました。

「お、おい、どうしたんだ」

 戸惑う鈴経と杏点に、文月は答えず、かっと見開いた目で名主を睨みつけています。つい先ほどまでの、慎ましい行者の顔から一変。憤怒の炎を瞳に宿し、今にも斬りかかりそうな気配を、その全身から立ち昇らせておりました。

「名主殿、これはどうしたことか」

 低くくぐもった文月の問いに、名主は舌打ちを返します。清応が男の子を見ると、文月の怒りの所以ゆえんをすぐに察することができました。男の子の素裸の首や肩口、胸や尻には、いびつな形の紫色のあざが、いくつも浮き上がっていたのです。鞭で打たれたような筋の走った傷跡もあれば、口で強く吸いついたような丸いあざもあります。

 清応の背を、怖気おぞけが走りました。名主がこの子にしていた始終を想像してのことです。そして、文月の左手がぴくりと動いたのを見て、何をしでかすかに思い至り――

「やめろ、文月!」

 清応は手を伸ばしましたが、ついにそれは間に合いません。しぁん、と刃がひらめく音を置き去りに、文月は名主の後ろ数歩向こうまで、目にも止まらぬ居合い太刀で斬り抜けておりました。

 びじゅっ、と腹から横一文字に、そして「ごぼっ」と口から、名主の体は血の塊を吐き出し仰向けに倒れます。ですが、遅かった、と清応が悔やむ間もなく、

「構えろ、みんな!」

 文月は残身から流れるように振り返り、すぐさま剣を八相はっそうに構えます。清応は文月の言葉の趣意を察し、裸の子を自分の後ろにかばいながら錫杖を取り直しますが、鈴経と杏点は出来事についていけず、目を白黒させるばかりです。


 ――ええい、余計な真似を!


 血の海の真ん中から、おどろおどろしい唸り声が響きます。名主の体のたるんだ肉がぶずぶずと泡立ち始め、熱して溶かした硝子のように真っ赤に光り、屋根につっかえるほどぷくうと膨れ上がります。

「まずい、下がれ!」

 清応の声を合図に、鈴経も杏点も各々に柵を飛び越え、四方へ散ります。膨らんだ肉の塊は屋根の藁葺きを揺らして落としながら、ぐつぐつとあぶくを沸かせます。次第にそれは、人に似通った形を為してゆきます。取り囲む文月たちの前に現したその正体は、傷んだ生肉のようなどどめ色の肌をした、醜い素裸の鬼でした。

「うええっ! なんだこいつ!」

「こんなわかりやすく下衆げすい奴、見たことないぞ」

 杏点と鈴経は口々に、嫌悪を露わにします。見上げるほどに大きくなった出臍でべその下腹に、黒々とした男根をだらしなくぶら下げ、切り株ほどに広がった菊門が息を吸うように伸縮し悪臭をまき散らします。そして、口の両端からぬとぬととした涎が垂れ、たるんだ顎を伝ってぼとりと落ちました。


 ――おのれ、何ゆえ貴様らのような小童どもが!

 ――我らが愉しみを台無しにしよるか!


「賊に憑いていた餓鬼どもは、貴様の人さらいの片棒を担ぐ一味か。色情餓鬼しきじょうがきめ!」

 巨大な鬼を前にして、文月は微塵も怯むことなく声を張り、斬りかかります。

 当時、密かに山賊と結託した地頭や荘園領主が、いくらかの人をつけて警固料けいごりょうと称し、通行する商人や公家から金をせしめることは珍しくありませんでした。賊もまた、雇い主の地頭や領主を怒らせない程度に、時に金品を奪い、女子供に非道ないたずらを働き愉悦を満たすのです。

 小鬼どもを率いた色情餓鬼は、人の作ったこの悪事の仕組みに目を付け、名主と賊どもにそれぞれ取り憑き、卑小な我欲を首尾よく満たしました。賊に憑いた餓鬼は殺生せっしょう肉食にくじきを愉しみ、生かしておいた女子供は、名主になり代わった色情餓鬼の餌食となっていたのです。

「こ、こんな大きなやつ、どうしようっての?」

 今にも泣き出しそうになりながら、杏点は通りの反対側までさっさと逃げています。素裸のの子の手を引いた鈴経も、もう片方の手で錫杖を構えはしますが、いつくるりと反転してもおかしくない及び腰です。

「大丈夫かい、文月」

 清応は餓鬼から目を離さぬまま、隣の文月を案じます。

「大丈夫だよ。このくらいの奴、僕らは何度か祓ってきたじゃない」

 文月も清応に目を向けず応じます。ですが、清応が案じているのは目の前の鬼のことではありません。

 清応は男の子の身に刻まれたあざを、あの夜文月の体に見たそれと、どうしても重ねて見ずにはいられませんでした。色情餓鬼がその子にしたであろう仕打ちを推し測った時、文月は何か、心のたが・・を揺らがされてはいないだろうか。清応はそのことが気がかりだったのです。

 ですが、そうじゃないんだ、と問答している余裕は、今はまだありません。

 文月は目を閉じ何事か唱えながら、右手の錫杖の先と、左手の剣の柄とを合わせます。きゅるりと金色の光が得物二つを包んだかと思うと、剣と錫杖はひとつとなって、穂先ほさき鋭い大矛おおほこ変化へんげします。

 清応も続いて、何言なにごとかのまじないをうたいます。右手に携えた剣は身の丈ほどの蟇目矢ひきめやに、左手の錫杖はさらに大きな金の長弓ながゆみに変化します。


 ――ぬるぁあ!


 文月を潰そうと振るった鬼の手が、ずずんと大地を揺らします。難なく横にかわした文月に、鬼は悔し気に唇を噛みます。そこへ。

 ひゅきっ、と風切りが鳴き、直後にすたぁん、と小気味よい音が響きます。


 ――ごぅあ!


 清応が放った矢をこめかみに食らい、鬼はたまらずのけぞります。清応の矢にはやじりがなく、代わりに平たい石の神頭じんとうが施されております。邪気を払う笛の音をまといながら、貫くのではなく強く打つことで、傷浅いまま煩悩を砕くための慈悲の矢です。

 怯んだ隙に文月は地を蹴り、鬼の肘と二の腕をたんたと踏んで、肩まで駆け上がります。


 ――こ、小癪こしゃく


 払いのけようと繰り出されたもう片方の手が、寸前、ひょうと上に跳ねた文月を捉え損ねます。高々と構えた金色の大得物が、夜空に三日月のごとく冴えて煌きます。

「地獄に帰れ、下衆め!」

 額を狙って刃を振り下ろした、その時でした。

 鬼が口を開くと、中からびゅるん、と長い舌が伸びたのです。鞭のようにしなる太く長い舌は、斬りかかる文月を真横からばちん、としたたかに打ち、文月を地面に叩き落しました。

「かは……っ!」

 受け身も取れずまともに背中から落ちてしまった文月は、呼吸が止まるほどの衝撃と痛みに小さく呻き、そのままがくり、と気を失います。

「文月!」

 駆け寄ろうとした清応でしたが、今度は鬼も油断がありません。長い舌をびゅわっと振るって脅し、清応の足を止めます。


 ――くはは、舌の技には自信があっての!

 ――かような小僧、何人もひいひい言わせてきたわ!


 そう勝ち誇りながらべろんべろんと振り回していた舌で、巨大な鬼はぐったりとした文月の体を捕らえて巻き取ります。清応は慌てて、先ほどはなって空に浮いたままだった蟇目矢を、法力の糸をくいと引いて手元に戻し、すかさず二の矢をつがえます。

「文月を離せ! さもなくば……」

 清応はきりきりと弓を引き、再び鬼の額を狙います。ですが、鬼は舌で持ち上げた文月の体を、矢の飛ぶ先いをさえぎるように、ぶらぶらゆらゆら弄びます。

 もやもやとした不安がまことになり、清応は文月を止めなかったことを胸の内で悔やみました。文月の攻め手は、明らかに精彩を欠いておりました。普段の賢明な文月であれば、敵の奥の手への用心を怠るようなことはないはずでした。

 やはり男の子への辱めの跡を見て、頭に血が上っていたのだ。うすうすそれを感じていながら、なぜもっと文月に声をかけてやれなかったのか。いや、やはり心蔵と文月の間には、それを思い起こさせるようなことがあったのか。後悔と苦悩が、弓を握る清応の手に汗を滲ませます。


 ――さてと、肌のきれいなこいつは丸呑みにして。

 ――腹の中でとっぷり味わってやろうかの!


 勝ちを確かと思いあざけり笑いながら、鬼の舌は文月の体を、じりじりと口元へ引っ張ります。撃つしかない、撃たねば! 焦る清応が矢を引く右手を解き放とうとした、その時でした。


 しゃるらん、と、高くやわらかな鈴の音が、清応の頭の上を渡ってゆきました。

 いつかどこかで聞いた響きに、清応は思わず空を見ます。

 そこには、夜のとばりの下でなお眩しい、一対の真っ白な翼がありました。


 ――ぬぎぇええええ!


 酸鼻さんび極まる悲鳴が轟き、文月の体が鬼の腹を転がって、とさりと地面に落ちます。続いて落ちた鬼の長い舌が、蛇のようにのたうち回って赤黒い血反吐をまき散らし、やがてぴくりとも動かなくなりました。

 何が起きたか、理解しようと頭が動き出すその前に、清応は矢を放ちました。ひゅきぃん、とより強く放った二の矢は見事、口を押さえて悶える鬼の右目を潰しました。


 ――ぬぉお、ぬぐぁあ! おのれ、おのれぇえ!


 堪えかねた鬼は、己の背中で屋敷をめきめきと潰しながら倒れ、口と目を手で覆って転げ回ります。清応が長弓と矢を束ねて再びまじないをうたうと、それは今一度光り、清応が手にしていたような大矛に姿を変えます。

 いざ仕留めんと清応が屋根の上へ飛び乗ったちょうどその時、どうしたことか、鬼はぱったりと動かなくなりました。よもやあれで力尽きるはずがない、と、清応はまだ大矛を構える手を下げません。ですが、やがて鬼の体は首のあたりから、法力の火に包まれてゆきます。

 今ひとつ納得がゆかぬまま、清応は得物を元の錫杖と剣に戻し、屋根を飛び降りて文月のもとへ駆けつけます。

「文月、しっかりしろ、文月……」

 清応は文月の両肩を支え、こわごわ上半身を起こしてやります。頭を打ちはしていまいか、どこかの骨でも折れてはいまいか。鬼のよだれと血に汚れた顔を、自分の袖を引っ張った手で拭ってやります。すると。

「ねえ、無事かい?」

 清応の背に、声がかかります。聞き覚えどころの話ではありません。少し前まで、朝に晩に聞いていたはずの、共に暮らしていた童の声。

 清応が振り向こうとしたその直前、文月がこふこふと咳き込んで、意識を取り戻します。

「き……清応、ごめ……大丈夫?」

「文月、ああよかった! 僕は平気だ。きみこそ、どこか痛いところはないか? 起きられそうか? 水、飲めるか?」

 文月のかすれた声を聞き、清応の目頭が熱くなります。ついつい重ねて問いかけてしまいましたが、そうしているうちに再び、

「ああ、起きたんだね。よかった」

 清応の後ろにいたその誰かが、安堵したようにそう言いました。

 それを聞いた文月の顔が見る見るうちに強張り、清応の手をばっと振りほどくようにしてそちらを向きます。

 童が着た白い袈裟の裾と袖、そして市女笠いちめがさにたなびく薄布を、白い翼に見誤ったのだろうと清応は思いました。ですが、笠の下から現れたその童の顔を見て、文月も清応も口をぽかんと開け、言葉を失います。まさかそんな。その一言が今にも、口から飛び出しそうでした。

 夜風にさやさやとなびくのは、おでこの上でひもを結わえ、うなじのあたりの後ろ髪を丁寧に切り揃えた稚児頭ちごあたま。そしてぱっちり開いた大きな瞳が、鬼を焼く法力の火をきらきらと映しています。

 木花咲耶このはなさくやもかくやあらむと思うほど、見る者の目をあざやかにさらう美しい童。文月はその名を、忘れもしません。

「心……蔵?」

 喉の奥から、胸の芯から絞り出すようにして呼んだその名に、市女笠の童はきょとんとして小首を傾げます。

「誰のこと、それ。僕には永陸えいりくって名があるんだけど」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る