0‐2《ゼロ・ツー》

「だから! なんでそんなチャンスボール送るんだよ!」

 翌日の練習でも、日呂美と多恵香はかみ合わなかった。

「ごめんなさい……でも、そんなつもりは」

 剣幕に首をひっこめる多恵香の前で、昨日はかろうじて残っていた日呂美の敬語も、今日はもう飛んで消えている。

 職員会議で遅れるという番地の代わりに、牧場と桶のペアがダブルスの練習相手を買って出た。トリプルスの練習をするべきかと思いきや、素子はまだ銃を撃とうとはしない。

「んー、まだもうちょっと見さしてもらえるかな」

 と言いながら素子は、多恵香をいたずらっぽい上目づかいで見上げる。銃身を持って台尻のほうで、たんかたんかとリズムよく玉突きをしている。

「昨日も言ったじゃねえか! そんなゆるい球相手に渡したら前衛のこっちがキツくなるって、なんでわかんねえんだよ!」

「だ、だからごめんなさいって……」

 謝りながらも、多恵香は内心納得していなかった。昨日もそうだったが、球を強く打ち返せない状態に追い込まれるのは、日呂美の逃がした球へのフォローが一瞬、どうしても遅れてしまうからだった。

 それはまさに、番地が指摘した日呂美の悪癖のせいだった。日呂美はプレイ中、何もコミュニケーションを取ってくれないのだ。まるで目の前のボールしか見えていないかのように、何も言ってくれないのだ。

 彼女以外の部員は、初めて組んだ時でもしっかりと声をかけあってくれる。多恵香はそう記憶しているし、自分もそうするよう心掛けている。今相対している牧場と桶のような間柄であればともかく、組んで間もないペアこそ、意思の疎通を言葉に頼るしかないというのに。

 前衛が頭越しのボールを見送る時は「お願い!」と早めに言うことで、後衛が動き出すタイミングがわずかだが早くなる。早く動くことができれば、安定した姿勢で有利なストロークを打てる可能性が生まれる。逆に後衛が高いボールを打つ前に「上げるよ!」や「上がって」など言っておけば、前衛は一歩だけだが早く動き出し、ネット際につくまでの時間を稼ぐことができる。

 多恵香は後衛として当然、前衛の手が球に届かない時にいつでもフォローに入れるよう、気構えはしている。だが、声の掛け合いで稼ぐことのできる、一秒もない短い時間。それは相手ペアのポジションを見てコースを選んだり、心づもりや呼吸を整える、より効果的なフォローをするための、貴重な一瞬であるはずなのだ。

「う、打たないならそう言ってくれれば……」

「あの高さで手ぇ出せるわけないだろ、後衛ならちゃんと見てろよ!」

 日呂美に一方的に言われている間、ネットの向こうの牧場と桶がそろって顔をしかめ、ひそひそと何か言い合っているのが、多恵香の視界の隅に入る。ああ、情けない先輩だなあ。涙腺にじっとりした圧迫感を覚えながら、ベースラインまで戻る。

 多恵香のファーストサーブが入らない。ついセカンドサーブも、ふわりと弧を描くゆるさで打ってしまう。球が浮いている間にネットへ向かって日呂美が走る。サービスダッシュ。だがそこで、レシーバーの牧場は思い切り大きくラケットを振り上げる。シューズを滑らせてブレーキをかける日呂美めがけ、

「えいっ!」

 肩近くの高い打点でラケットを振りぬく、牧場のアタックストローク。顔面に命中する寸前で日呂美は危うくラケットを上げる。フレームの端をかすめて高く上がったボールは、コート外の審判台に当たって角度を変え、遠くへ転がっていく。

「まっきーナイっショー!」

 向こうサイドで牧場と桶が小さくハイタッチするのを見て、多恵香の胸がざわりとする。昨日の彼女たちのやりとりを思い出す。中途半端に前へ出てきた日呂美を狙い、チャンスボールを叩く牧場のレシーブ。それ自体はもちろん、テニスとして何ら間違っていない、正攻法だ。だが、彼女の今の打球には明らかに悪意がこもっていた。

 ネット際に立ち尽くした日呂美の元へ、多恵香は駆け寄る。ラケットをぎゅっと握りしめ、転がっていった球をじっと見送っているようだった。ああ、またか。あんな球を打たせてしまう、自分の弱すぎるセカンドサーブが悪かったのだと多恵香は思い、

「……だ、大丈夫?」

 もう何度言ったかも覚えていない「ごめん」を、再び日呂美に言おうとすると。


 日呂美が振り返り、ぎっと多恵香を睨みつけた。

 怒りなのか、悔しさなのか。目を見開いたその形相に、多恵香はびくん、と動けなくなる。

 そして自分に向って振り上げられる、日呂美のラケットが目に入る。

 突然の恐怖に一歩下がろうとした足がもつれる。転んでしりもちをついた多恵香に、日呂美はさらに一歩迫る。

 殴られる! 多恵香が顔をかばい目をぎゅっと閉じた、その時。


 ガきゅぅゥ――ン!


 銃声が校舎を反響し、日呂美のラケットが回転しながら虚空に舞った。

「はいはい。それ以上は見過ごせないよ、ヒロちゃん」

 うっすらと白い煙の糸を引くマグナムの銃口。振り下ろされる直前、素子の銃弾が狙い違わず日呂美のラケットを弾き飛ばしたのだ。

「は、ひ、ヒロちゃん……?」

 手にじんと残る衝撃と聞きなれない呼び名に、日呂美は目を丸くして素子を見る。

「ペアの失点は二人の責任。必ずどっちにも非があるんだし、ヒロちゃんばっかりぶちキレる権利、ないんじゃない?」

「そ、そうだよ! ぶ、ぶっちーいい加減にしなよ!」

「自分が勝手にブチきれて、たえちゃん先輩にまであたるのひどくない?」

 素子の指摘に、便乗するタイミングを見つけたのか、今度はネット向こうから牧場と桶が声をあげる。

「今のなんて完全にぶっちーが取れなかっただけじゃん! たえちゃん先輩のせいにすんなよ!」

「ああ? クソサーブ打ったあいつがダメなんじゃねえか!」

「そう思ったら前出てこなきゃいいじゃん、自爆だよ自爆!」

「ま、牧場さんも。もういいから……」

 多恵香は慌てて起き上がり、飛び火から過熱し始めた言い合いをなだめようとする。騒ぎを聞きつけたのか、柔道場になっているプレハブ小屋の窓から、胴着姿の男子がちらちらと覗く。

「まじめにやってるのに試合出られない二年もいっぱいいるんだからさ!」

「出られないのはそいつが悪いんだろ!」

「はー? お前みたいなのが邪魔してるからだろ! たえちゃん先輩かわいそうだよ、ぶっちーなんかと組まされてさ!」

「ちょ、ちょっとみんな……」

 校庭で練習していた三年生や、一年の新入部員を教えていた他の二年生も、わらわらと集まってくる。大変だ、大ごとになってしまう。うろたえる多恵香と、むきになる日呂美。

「みっともねえな、後輩にかばわれてよ! じゃあ好きなように組んでやりゃあ……」

「おっと。それじゃヒロちゃんもたえちゃんも、何よりもうひとりのパートナーであるこの私も納得いかないってもんだ」

 たじろぎもせず、彼女たちをぴしゃりと止めたのは素子だった。そして、

「じゃあさ」と多恵香たちに提案する。

「せっかくだからあんたたち二人、テニスで勝負すればいいじゃない。負けた方がトリオ降りるって、自分からコーチに言いに行くってのでどうよ?」

「勝負ね……ふん」

 いじわるそうに鼻で笑う日呂美に、多恵香はさすがにむっとする。そんな勝負やめよう、そう言いかけたタイミングだったが、ついその言葉を飲み込んでしまった。そんなようすを妙に楽しそうに眺めながら、素子はつらつらと解説する。意味なく人差し指を振り振り。

「コーチ来ちゃう前にさくっとね。クロスと逆クロスのみで、デュースありの四点先取ワンゲーム。ただし……」

 そして、すぱんと腰の銃を抜き放ち、構える。一斉にラケットで身をかばう、多恵香たち四人。

「ぬるい球には、私がコイツで横からちゃちゃ入れるからね。審判台から撃たれてアウトになったら、打ったほうの失点ね」

 そんなめちゃくちゃな。今まで聞いたことのないルールに多恵香は戸惑うが、

「つまりストロークのパワー勝負ってことかよ。いいじゃん、新しいね」

 一方の日呂美はにやりと笑う。勝ちを確信した余裕の笑みに、牧場と桶も不安げに顔を見合わせる。

「ま、難しいこと考えずに思いっきり打ち合いなよ。じゃ、ラケットトスから」

「いらねえよ。サーブ権、そっちでいいわ」

 多恵香にくるりと背を向け、日呂美はネットの向こうへ小走りで回り込む。続いて、サービスラインすれすれの地面をつま先で軽く蹴り、ラケットの頭を下げて臨戦態勢を取る。

 承諾も拒否もする間もなかったが、こうなってしまっては仕方がないか。多恵香がため息をつき、ベースラインへ着こうとすると、

「ここで負けたらたえちゃん先輩、あの子たちに何を教えてきたんだってことになるよね?」

 いつの間にか背後にいた素子が、小声で多恵香にぽそりと言う。プレッシャー。つい牧場と桶の方に視線が行く。彼女たちは互いにうんとうなずき合い、二人して校庭に駆けていく。ひょっとして、他の部員たちを呼んでくるつもりだろうか。

「だいじょうぶだよ、たえちゃん先輩。しっかり打って、ね!」

 素子は器用にウインクして多恵香の背中をぽんと叩き、拾ったボールを二つ多恵香に渡す。赤錆だらけの審判台をとんとんと駆け上がり、すぽんと腰を下ろし。

「さ! サービス、たえちゃん先輩。ワンゲームマッチぃ――」

 わざとらしく語尾を溜めて、

「プレイボール!」

 高らかに宣言した。


 ネット越しに日呂美と睨みあう最初の瞬間、多恵香の体を否応なしに走り抜ける緊張。

 ずいぶんと久しぶりに味わう気がするこの感覚に、多恵香は静かに自分の呼吸を整える。練習のラリーがつながらず、今ひとつほぐれていない両肩と両肘を、少し回して暖める。

 ハンデのつもりでサーブ権を渡したのだろうか、それともこちらの苦手を知っていてそうしたのか。ともかく、始めるタイミングをこちらで決められるのはありがたいと思えた。

 日呂美はサービスライン近くで構えている。左手をシャフトを支えて、右手でグリップをひねってくるくるとラケットを回している。

 素子の言葉を思い出す。確かに自分はあの子たちに、今まで何を教えてきただろう。たとえばそう、サーブは。

 すぅ、とまっすぐトスが上がる。日呂美の足元のサービスラインがよく見える。いつもならこの瞬間、フォルトしないか胸がぞわぞわするのに、妙に集中してボールを見ていられることに多恵香は気づく。そして。


 ぱァん!


 ガットの中心でボールを捉えた実感が、右手の中にあった。力んだつもりはみじんもなかったのに、ボールが描いたのはネットすれすれの、直線に近い軌道。バウンドは日呂美の左足すぐ近く。

「っち!」

 サーブの着弾位置が予想外だったのか、日呂美は半歩下がって両手持ちのバックで、拾い上げるようにボールを返す。やっぱり、反応良い。日呂美が感心しながらも浮いたボールを見上げると。


 がキゅ――ン!


 ボールは空中で、九十度近く角度をつけて遠くへ飛んでいく。

「ぬるい球打ったらアウトにするよ、って言ったよね」

 審判台の上、素子のマグナムから立ち上る煙に、日呂美は小さく舌打ちをする。ガットの目を指先でいじりながら、レフトコートへ移って再び構える。日呂美は少し、サービスラインから距離を取っている。アウトボールを拾いに行きながら、多恵香はグリップに残ったサーブの手応えを思い出す。自分のサーブでもしっかり効いている。その実感が、わずかに多恵香を高揚させる。

「はい、1‐0ワン・ゼロ

 スコアのコール直後、多恵香はトスを上げる。つい力んでしまったファーストサーブは、乾いた音を立ててネットを揺らす。せっかく上がった分と同じだけ、気持ちが落ちる。セカンドサーブは下から打って、確実に入れていく。後輩の打ちっぱなし練習のために送るようなボール。日呂美は好機とばかりにぐんと引いたラケットを、

「っしゃ!」

 ほぼ水平に叩きつけて、センターマークすれすれに強打を刺す。

「おおっ、ヒロちゃんナイスレシーブエース。はい、1‐1ワン・オール!」

 再びライトコートに戻る日呂美。ベースライン少し手前で、前傾姿勢の体を左右に揺らして待ち構えている。さすがにもう油断は無い。どうしよう。迷いがまたトスを揺らす。曲線軌道で入ったゆるいファーストサーブは、再び強打で返される。下がり遅れた多恵香のラケットが、辛うじてボールをすくい上げるが、今度は銃声が遠慮なくそれを撃ち落とす。

「おっ、またもレシーブエース。1‐2ワン・ツー!」

 多恵香はその場でハイテンポの足踏みをして、両脚に意識をめぐらせる。取られた2点。自分の不利を作ったのは、弱気なサーブやストローク。それから、一歩遅い駆け出し。入れるだけのサーブじゃ、結局自分がキツくなるだけ。昨日と今日、日呂美が自分に言った言葉を思い出す。

 もう一度。サービスエースを奪った一球目の手ごたえを思い出しながら、トスを上げる。ふと、いつか日呂美が打っていた、全身を使ったサーブのフォームが脳裏をよぎる。少しだが背筋はいきんを意識して反らし、膝を曲げて腰を落とす。

「えいっ!」

 腕を振るう瞬間、多恵香の口から自然と声が漏れた。いい手応え。まっすぐ打ち下ろされたボールの着地点はセンターライン真上。だが今度は日呂美にも油断はない。両手持ちの腕でしっかりと溜めた、硬式独特の裏面当てバックストローク。ストレート気味に返されたボールに、もう多恵香も驚かない。大股で一歩下がり、手首を返し振りぬくバックハンド。まっすぐ、より強く打ち返す。日呂美も前に出られない。センターマークを刺すかのように見えた打球は、

「アウト!」

 わずかにベースラインを越える。日呂美は「っしゃ」と拳を握る。

「さあ1‐3ワン・スリー、ヒロちゃんマッチポイント!」

 日呂美の目つきがますます鋭くなった。あと一点、取られてしまったら。また左手のボールが少し重くなった気がした、その時。

「たえちゃん先輩、ファーストー!」

 多恵香の背中をわっと押したのは、申し合わせたようにぴたり揃った掛け声。思わず振り返った多恵香が目にしたのは、校庭から走って戻ってきた牧場と桶。そして。

「ファーストーっ!」

 他の二年生たちも追いかけて声を重ねる。日呂美を除く二年生十二人ぶんの、他校試合の時のそれにも劣らない、声と熱の塊。窮地にぐらついていた多恵香の胸に、ぐっと何かがこみ上げる。コートに立つ自分を認められたような、報われたような、喜びとも似て少し違う、熱いもの。

 そうだ、ファーストサーブだ。

 声援を受け止めて、再びコートに向き直った多恵香。だが彼女が見たのは、ネットの向こうで、たったひとりで多恵香のサーブを待ち受ける日呂美。気のせいだろうか、四月も半ば過ぎだというのに、向こうサイドだけ少し冷えて寒そうに見える。

 トスを上げる。上手くいった自分のフォームを思い出して、もう一度打つ。意識して自分の身体を動かしたぶん、ほんのわずか力は抜けている。さっきより少し軽い球。日呂美のフォアハンドは、しっかりと右足を後ろに下げてボールを迎え、左足で踏み込んで打てる姿勢。クローズスタンス。ぱん、と力の入ったミート音の直後、ボールはネットを揺らす。

「ファーストナイスサーブナイッサー、先ぱーい!」

「ナイッサー!」

 サーブで取った得点ではなく、ただ日呂美のミスによる失点であることは誰の目にも明らかだったはずだが、それでも牧場たち後輩は、多恵香に悪気のない拍手と声援を浴びせる。ただ、今度はそれが、どこか少し空しい響きで多恵香に届く。

 この子たちが味方になってくれているんだ、勝たなきゃ。多恵香はそう思おうとした。再び浮かんでくる素子の言葉。この子たちに自分は、何を教えてきたんだろう。

2‐3ツー・スリー! すごいねえ、やっぱりたえちゃん先輩モテモテ……あれ?」

 多恵香はふっとラケットを下ろす。そして、次の得点を期待して多恵香に注目する後輩たちを、振り返って、彼女たちのもとに駆け寄ってから。

「ごめんね、みんな。とってもうれしいんだけど」

 きょとんして見守る後輩たちを前に、

「えっと、岸縁さんと私も、みんなも、敵同士じゃないんだから」

 ひとつずつ言葉を探しながら、

「どっちかだけの応援なんて、しちゃだめだよ、ね」

 多恵香は普段通り、自分のちっぽけなテニスを教えるのと同じように、自分を慕ってくれる後輩たちに、そう諭した。

 多恵香の言葉に困惑する牧場と桶、二年生たち。応援しちゃだめなどと言われるのは、彼女たちの部活動経験の中でも初めてのことだった。

「でも、ここでたえちゃん先輩負けたら、ぶっちーが……」

「そうだよ、この試合でぶっちーに勝っておかないと」

「だいじょうぶ。ぶっちーは……ううん」

 この空気の中でどっちが勝っても負けたとしても、日呂美は結局あまりもの・・・・・のぶっちーのままになってしまう。多恵香はそう思っていた。練習ぶっちぎりのぶっちー、ぶちキレぶっちー。不名誉なあだなで呼ばれ続けるひとりぼっちの彼女の気持ちを想像して、自分と少しずつ重ねる。そうだ、自分がずっと感じていたような苦い思いを、彼女にさせるようなこと、私はここでしちゃだめだ。何故ならば。

「ヒロちゃんは、私のペアなんだから」

 多恵香は後輩たちにそう笑いかけて、再び自分のベースラインへ戻る。

 だいじょうぶ、負けない。言葉にせずに、自分を励ます。

 汗でしっとりと手になじんだボールを、高く上げる。打つ時には声を出そう。それはラケットがボールとひとつになる瞬間の震えを、全身で感じられるから。

「はいっ!」

 コーチにも、利佳子にも口酸っぱく言われた教えの通り。多恵香は自分の意思で声をあげてサーブを打つ。すでにラケットから離れたボールが、しっかりと伸びていく不思議な手応え。空気を裂いてサービスエリアに飛び込む白球。

「っつ!」

 日呂美の両手もちのバックハンドが、ここでもレシーブをし損なう。回転しながら力なく浮いたその球は、ネットにも届かず失点になる。

「おっいいね、盛り上げるね! 3‐3スリー・オール、デュース!」

 日呂美がぞんざいに投げたボールを、多恵香はラケットで拾い上げる。ファ……、と二年生の誰かが上げかけてやめたのが聞こえた。多恵香はくすりと笑う。そうだ、ファーストサーブだ。多恵香はより高くトスをあげる。ボールが浮いている、たった一秒の長い間。後輩たちに教えてきたサーブのフォームを、自分もしっかり取れているだろうか。全身に一度めぐらせた意識を、振り上げた右手に注ぎ込んで、打つ。

「シっ!」

 多恵香に負けない気迫を込めて、日呂美はフォアストロークで打ち返す。ぐんと伸びる球から、多恵香の目は離れない。テイクバック、バックステップ。右半身に溜めた重心をラケットに乗せて、ぐっと踏み込み、ミートさせる。ネット上高さ十数センチを経由して、互いのベースラインをより深く刺しあうラリー。

 固唾をのんで見守る二年生たちの後ろに、休憩がてら覗きにきた三年生。そして一番後ろには、真剣な多恵香に見入る利佳子。練習とは思えない迫力の打ち合い。校舎に立て続けに響く、渾身のストローク。何往復しても途切れない、どちらも退かないまっすぐな意思に、思わず目が離せなくなる。そして。

「ああっ!」

 多恵香のショットがネットの白帯をかすめ、ほぼ真上に、だがわずかに日呂美サイドに寄って小さく浮く。ネットインだ。多恵香も日呂美も、他の部員も、さらには校舎から何気なく見ていただけの生徒たちも、その目をボールに釘付けにされる。

「くっ……!」

 日呂美が大きく地を蹴り、びゅんと前へ走る。これはきっと、拾われる。そう思って多恵香も走る。ワンバウンド。走るだけでは追いつかない。日呂美が前へ跳ぶ。ラケットを持つ手を伸ばす。ツーバウンド、その直前で日呂美のラケットが球をすくい上げる。勢い余って転びながら、なお立ち上がる日呂美。どうにかボールは浮いて返った。だがそこにはすでに、肩にラケットを溜めて待ち構える多恵香――!


 がぁぅ――ン!


 空中で不規則に跳ね飛んだボールに、誰もが呆気に取られる。何が起こったのか、数秒理解が遅れる。

「はい、そこまでー」

 絶好のチャンスボールに見えた浮き球を、審判台の素子が横から撃ち抜いてしまったのだ。

「ま、これで十分っしょ。あんたたちはペアなんだし、決着つけるのは試合相手だけでいいよねー」

 上機嫌でそう微笑む素子。本気のスマッシュを打ち込む気でいた多恵香も、全力で受け止めるつもりだった日呂美も、唐突な終わりに少しだけ唖然としたが、やがてふうと大きく息を吐いて、全身の緊張を解いた。

 利佳子が最初に、拍手を起こした。次第にそれは牧場と桶に、二年生と後輩に、三年生にもふくらんでいった。始まったきっかけを正しく把握している者は少なかったが、それでも二人が何かを賭して必死に打ち合うその姿に、誰もが胸をかれた。三年生は、普段試合に出られない多恵香の。二年生は、無愛想で孤独な日呂美の、そのまなざしに。

「ま、最後は取られたな。けど、負けの決まる点じゃなかったし」

 ベースライン近くからネット際へ追いつく全力ダッシュを見せた日呂美は、膝と腕の砂を払う。肘の近く、数センチほどの赤い擦り傷ができているのを、多恵香は見つける。

「ほ、保健室行かなきゃ」

「いいよ、このくらい」

「え、でも、洗ってばんそうこう……!」

「いいって」

「よくないわよ! ちょっと」

 多恵香はまた、ラリーの最中とは違った色に血相を変えて、日呂美のいる方へ回り込む。そして有無を言わさず彼女の二の腕、傷のついていないところを掴んで、

「ちょ……」

 各々の練習へ散り始めた部員たちの方へ、足早に引っ張っていく。

「りっちゃん、ちょっと保健室行ってくるね。コーチ来たら……」

「いいぞ、早く行ってこい」

 わっ、と多恵香は声をあげてしまった。校舎の陰に背を預け、番地がにやにやこちらを見ている。おそらくはそんな感じで、さっきの打ち合いも。

「す、すみません。あとで、その……」

「いい、わかった。所」

 名を呼ばれ、きょとんとする多恵香に向って、番地は力強く一言だけ。

「いい球だったぞ」

 その言葉に、多恵香の胸がぐっと熱くなる。熱でまた涙腺が、痛いほどにじんとふくらんでくる。

 多恵香はびゅんと思い切り頭を下げる。その時確かにきらりと散った光の粒に、利佳子も、牧場も桶も、目を細める。

 顔を上げた多恵香のほおには、砂だらけの手でぬぐった跡が。さっきよりも早足で、日呂美を保健室へ引っ張っていく。


 保健室の照明をつけると、五時半すぎの壁掛け時計が、真っ先に多恵香たちの目に入った。

 人数が多ければ、大なり小なりけがをする部員も増える。二年生たちが何か傷を負った時、真っ先に保健室につれていき手当をするのも多恵香だった。水場でしっかり傷を洗い、いつも持っているタオルで拭き、職員室で鍵を借りて、引き出しの赤チンを綿棒で塗る。日呂美はおとなしく、手馴れた多恵香のなすがままにされていた。

「ふう、これでよし、と」

 ガーゼをテープで止めた多恵香の、ひと仕事終えた感たっぷりの、妙にすがすがしい顔。

「先輩も、顔」

「ん?」

「ここんとこ。泥、ついてる」

 口をへの字に曲げたまま、日呂美は自分の左ほおを指差す。一度目を丸くした後で、多恵香は自分の体育着のシャツのすそをぐいと持ち上げて、ぐしぐしと顔を拭う。ひと時露わになった多恵香のへそを、何故かつい見てしまい、慌てて顔をそらす日呂美。

「結構、打てるじゃん、所先輩……えっと、さっきの」

 さっきのラリーのことを言っているのだろうか。多恵香は日呂美のたどたどしい言葉を自分でつなぎ合わせて、そう理解してうなずく。

「うん、なんか今日、調子よかったみたい」

 打ち合っていた間の自分のことは、実はあまりうまく思い出せない。だが普段の部活の時のような、ボールに関わる度に小さく積み重なる嫌な思い。サーブが嫌いだとか、うまく向こうに返さなければとか、そんな気持ちでラケットを振った覚えも、多恵香には全く残っていなかった。

「でも、最後すごかったね。あんなのヒロちゃんじゃなきゃ間に合わないよ」

「ヒロ……え、それで呼ぶんですか」

「だ、だってさっき、三團さんがそう呼んでたから。いやなの?」

「や、いいですけど……なんか、小学校以来っていうか」

 照れくさそうにもじもじする日呂美に、多恵香はくすりと笑う。

 後輩たちが彼女を呼ぶ「ぶっちー」というあだ名それ自体は、響きも言いやすさも悪くはないのだけれど。多恵香はそう思っていた。だがそれでも今の日呂美には、あまりいい意味合いには聞こえないだろう。そんな迷いを抱いていた所で、あっさりと素子は彼女をヒロちゃんと呼んだのだ。

 これから組むんだから、ちょうどいいや。

「あの、所先輩」

 ガーゼのテープを手のひらで軽く押してなじませながら、日呂美は多恵香に向き直る。

「私、ちょっと所先輩のこと舐めてた……っていうか、いや、その……」

 多恵香は日呂美が言葉を選ぶのを、ゆっくりと待ってやる。今はもう、勝負を競う打ち合いではないのだ。焦ったり急かす必要はない。疲れのせいももちろんあったが、多恵香の心は穏やかだった。

 そして。日呂美は心を決めたように、自分の両膝にぱんと両手をついて、

「わがままばっかりで、すみませんでした」

 多恵香に向って、しっかりと頭を下げた。ぴたり固まってそのままの日呂美に、多恵香は少しだけ何と言おうか考えてから、手当てをしてあげた後輩の「すみません」に、いつもそうしているように、

「うん、だいじょうぶだよ」

 とだけ言って、笑いかけた。何が大丈夫なのかうまく説明できないが、その言葉で自分も相手も安心できることを、多恵香はよく知っていた。だが。

「やっぱり私、ペア下ります」

「えっ、ダメだよ」

「えっ?」

「ん?」

 覚悟を決めた辞退の申し出を予想外にあっさり却下され、日呂美はぽかんと口を開ける。

「や、だって、さっきのは明らかに私負けてたし」

「引き分けになったじゃない」

「でもアレ、完璧に決め球打たれて終わってたとこ……」

「ミスするかもしれないし、それにデュースの一本目だから、そもそも勝負の決まる球じゃなかったよ?」

「で、でも私、所先輩に、すごいひどいこととか言って……!」

 今度は今にも泣き出しそうになりながら、日呂美はぐいと多恵香に迫る。椅子から浮きかけた腰を、多恵香は両肩をぐっと抑えて、

「いいの、引き分け。私とヒロちゃんはペアってことで決まったの!」

 とすんと再び座らせ、「ね?」と念を押した。

「ペアじゃなくてトリオだけどね、私もいれて!」

 と、開いたままだった入り口のところに、素子がにやにやしながら立っていた。気を利かせて運んで来てくれた多恵香と日呂美の荷物を、よいしょと室内に持ち込む。もうすぐ部活の時間が終わり、下校時刻がやってくる。

「三團さん、ありがとう、あの」

「やだねーたえちゃん、よそよそっしいなあ。みっちゃんでももっちゃんでも好きなほうで呼んでよ。もっさんだとちょっとヤだけど」

「んー、じゃあどうする? ヒロちゃんは」

「わ、私に聞くんですか。えっと、三人そろえるんだったら……もとちゃん?」

「おっ、それは初めて呼ばれるわー。じゃ、それで!」

 からからと笑って空気を持ち上げる、素子のその明るい雰囲気。ムードメーカーとはこういう性格のことを言うのだろうが、多恵香にはやはり彼女が年下に思えない。それこそ、流浪のガンマンとして各校を転戦してきた、経験の賜物なのだろうか。

 さっきまで、互いの気迫をぶつけ合うように打ち合っていた相手と、今はこうして膝を寄せ合ってひと時を過ごしている。少し強引な方法だったかもしれないが、自分たちあまりもの・・・・・同士をつないでくれた素子に、多恵香は改めて感謝の気持ちを抱く。

「じゃあ、もとちゃん。ありがとう、ヒロちゃんと打ち合い、させてくれて」

「ふふん。やっぱお互いスポーツマンなら、ぶつかりあって友情をはぐくむべきだと思ってねー」

「でもさ、もし私が普通にたえ先輩ボコボコにしてたら、どうするつもりだったんだ」

「……ヒロちゃん、私のことボコボコにするつもりだったの」

「そ、そりゃ、テニスで勝負なんだし! 当たり前だろ?」

 焦る日呂美を楽しそうに見ながら、素子は保健室のドアを閉め、時計をくいとあごで指す。そろそろ帰りの支度をしよう。多恵香と日呂美も、鞄に押し込んだ自分の制服とブラウスを取り出す。互いに少しずつ離れてもぞもぞと着替えながら、言葉を交わす。

「いやあ、割といい勝負になると思ってたけどね。たえちゃん、ストロークの制球はしっかりしてるのはわかってたし。ネットプレイに持ち込めない一対一なら、十分互角以上だと踏んでたから」

「わ、私がそんな……ヒロちゃんと互角だなんて」

「いや、でも今日すごいナイスボール多かった。ほんとに全然前出らんない」

「きっとたえちゃんはさ、他の三年の練習役とか後輩の面倒見ばっかりしてたからだろうけど、攻めるためのボール打つの、久しぶりだったんじゃない?」

 ああ、それが日呂美の言っていた「向こうに返すだけの球」だったんだ。多恵香はブラウスの袖に通す前に、自分の右手のひらをじっと見つめる。いつの間にか自分が無意識に、相手に打たせる為の球しか打っていなかったのか。それなら確かに、返ってくるボールがキツくなるのは当然だ。

「ひょっとしたら今まで二年間、たえちゃんは仲間のために送るボールしか打ってこなかったのかもしれない。でもほら、最後の夏までもうちょっとしかないんだから、あとは自分のために打たなきゃ。ね!」

「……うん」

 そうだ、そうしよう。多恵香は思った。今日の日呂美とのラリーも、自分が間違っていないことを確かめるために打ったのだ。後輩たちに教えてきたことも、利佳子や同級生たちに置いて行かれないように頑張ってきたことも。

 そしてもう自分はただのあまりもの・・・・・でなく、彼女たちとともに試合に臨む選手なのだ。多恵香が二年間やってきた部活の中で、今この時ほど、早くラケットを握りたいと思ったことはなかった。そうだ、次も、自分のために打つんだ。

「ヒロちゃんは、コーチが言ってたそのまんま。一匹狼気取ってないで、もっとプレイ中もちゃんと喋んないと。打つ時に声も出す!」

「き、気取ってないし!」

「硬式やってたんだったら、女子でもプロ選手がもっとすっごい声出してるの知ってるっしょ? ンぬぅぅん! とか、あおぉぉゥ! とか」

 唇をひん曲げて海外プレイヤーの絶叫を真似する素子に、多恵香と日呂美はこらえ切れず笑う。加辺中カベチュー女子ソフトテニス部に入ってようやくできた、本当のペア。いや、前代未聞のトリオ。

 明日から彼女たちと作り上げていくテニスが、多恵香は今、楽しみで仕方がなかった。

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