0‐1《ゼロ・ワン》

 日本発のスポーツである軟式庭球・軟式テニスは、一九九二年の国際ルール導入と同時に、その正式名称をソフトテニスと統一した。一九〇四年に硬式テニスを元に国内で制定された、いわゆる日本ルールを一新。老若男女が楽しむことのできる生涯スポーツであり、九十年代にはすでに四年ごとに世界選手権大会が開催される、国際的スポーツに成長していた。

 だがその競技人口に比して、ソフトテニスはマイナースポーツのイメージを拭えずにいた。硬式テニスの持つ華やかなイメージの陰に隠れがちなことはもちろん、オリンピック採用種目でないことや道具が比較的安価なことによる、企業や行政の普及支援の心もとなさなど、そこには様々な原因があった。

 そして何よりそこから来る、世界に通じる国内スタープレイヤーの不在。九十年代日本における松岡修造や伊達公子のような、国内の誰もが知るアイドルが存在しないソフトテニスは、中学生が部活動だけでやる地味なスポーツとして、メディアにおいても不遇な扱いを受けていた。

 これを憂いた公益財団法人日本ソフトテニス連盟は、国際ルール導入と同時に、国内大会に新たなレギュレーション、トリプルスを採用。ラケットを持つ二人のペアに、特殊ゴム弾専用リボルバー式拳銃を持つ新たな一名「ガンマン」を加え、より見応えある試合展開の可能性を作ることで、マイナースポーツのイメージの払拭を目指した挑戦的採用であった。

 全く新しいルールの、それも銃器に馴染みのない日本での突然の導入決定。その経緯はソフトテニス連盟の会長含む理事数名と、支援企業として名乗り出た米国銃器メーカー、コルト・ファイヤーアームズ社の間での密約が疑われた。米軍の制式指定を解かれ経営不振に陥った同社が、新規スポーツ分野への進出を目論んでいると噂されていた矢先のことだったからだ。

 だがそんな黒い噂も、時の第二次海部内閣文部省から潤沢な振興予算があてがわれると、誰もが口を閉ざし消えていってしまった。これは純粋に、スポーツ活性化の為の政策なのだ。連盟に関わる者は余計な疑いを捨て、新しいソフトテニスが生み出すあらゆる可能性に、ただポジティブに期待をかけることにしたのだ。

 この縁あって内閣総理大臣海部俊樹かいふとしき氏は、政界引退後、ソフトテニス連盟名誉会長の座に収まることになる。もちろんそれは、これから初めてのトリプルスに挑む多恵香達女子中学生が知る由もない、ただの些末な余談である。


「たえちゃん先輩、お疲れさまでしたー!」

「あ、うん。おつかれさまー」

 帰り支度を終えて正門を出る多恵香を追い抜きながら、二年生の集団がひとりひとり、多恵香にぺこりと頭を下げていく。

「先輩、新しい試合、がんばってくださいね!」

「鉄砲撃つんですか、鉄砲」

「違うって、今日来た新しいひとが撃つんだって」

 夕暮れの歩道いっぱいに広がって、きゃいきゃい言いながら去っていく後輩たちも、

「ほらみんな、横広がって歩かないで、ね」

「はーい!」

「じゃあお疲れさまでしたー」

 多恵香の言葉は素直に聞いて、ぞろぞろ一列二列にまとまりながら、各々の信号に従って、帰る道へと散っていく。仕方ないなあ、あの子たちは。ひとり小さく笑った多恵香の背を、

「おつかれーたっちゃん先生」

「あ、りっちゃんおつかれー。先生ってなに、先生って」

 いつからそこにいたのか、岩浪利佳子いわなみりかこがぽんと叩いた。幼馴染で、部長で一番手。多恵香をソフトテニス部に誘った当の本人だ。

「いっつもそうだけど、なんか引率の先生みたいだし。それよりすごいね。初のトリプルス選手」

「別にすごくないよ。いつも通りの、じゃん」

 さすがに彼女を前にして、あまりもの・・・・・、とは口には出さなかった。

 中学ソフトテニスの団体戦は、一校につき選手三ペア、補欠一ペアの最大八名一組で登録される。選手はもちろん多恵香以外の三年生六人。多恵香は補欠として登録されてはいたが、結果としてこれまで公式団体戦のコートに立ったことは一度もなかった。

 加辺中かべちゅうソフトテニス部は今年までの十数年、県内ではかなりの割合で上位の成績を挙げてきた。おととしの三年生、多恵香たちより二つ上の世代は特に選手に恵まれ、個人・団体戦ともに県大会優勝で関東大会にも出場した。

 勝ち続けなければいけない空気が、先輩から後輩へしっかりと伝えられてきた。登録される選手は当然、実力順で決まってきた。多恵香は誰の目にも明らかな三年生七人の七番目、ゆえにあまりもの・・・・・。直接誰にそう言われたわけでもないのに、自分自身へのそんな揶揄が、多恵香の頭にこびりついて離れてくれないのだ。

「えー、でもちょっとやってみたかったかもしんない」

「りっちゃんが、トリプルス?」

「かっこよかったじゃん、あのくるくるすとーんって銃しまうやつ!」

「ああ……うちのお父さんあれ見たらたぶん喜ぶわ」

「なになに、たっちゃんちのお父さんそういうの好きなの?」

「なんか昔レンタルでそんなのばっか見せられた。『ハイヨーシルバー!』的なやつ」

「『三歩歩いたら抜きなベイビー!』みたいな?」

「え、りっちゃんも詳しいの、そういうの」

 どこから引用したかもわからないセリフを、声を低くしておどけて言って、見えないホルスターに手をかざす利佳子。利佳子とこうして二人並んで、笑いながら家路につくのは、久しぶりのことだった。

 多恵香たちが三年生になってからは、二人はクラスも分かれ、休み時間に顔を見ることもほとんどなくなった。部活動の中でも、選手たちがコーチと試合対策のミーティングをしている間、多恵香は後輩たちの練習の面倒を見ていたりと、それぞれのいる場所が少しずつ離れていたせいもあった。

 だが何より、彼女と並ぶことを何となく避けている自分自身に、多恵香は気づいていた。時間をずらし、ひとり遠回りをして帰ることが多くなっていた。熱心な彼女の口から出てくるのは、どうしても部活動の話ばかりになってしまうからだ。

「来月さっそく、第一箱崎ヒトハコ中行って練習試合するって、コーチ言ってたじゃん。ひょっとして、もう向こうにもガンマンいるのかな」

「ええ……それ、私さっそくトリプルスやんなきゃいけないのかな」

「いいじゃん! 夏までにたくさん試合できるほうが」

 けろりと言う利佳子に、多恵香は小さく「そうかな」とつぶやくしかできなかった。彼女と自分とはもう、ここから意識が違うのだ。苦手や気おくれから試合をしたくないだなんて、きっと微塵も思わないのだ。

 そして、利佳子が夕空を仰ぎ続けた言葉は、そんな多恵香をさらに驚かせる。

「せっかくだから私も、推薦取るまでにガンマン覚えとこうかな。あの転入生の人、秋までしかいないとか言ってたし」

「推薦?」

「うん、ソフテニ推薦! 加辺中カベチューも毎年二枠だけ、スポーツコースのある県立に推薦出してるって。この間コーチに話したら、早めに調べておくって言ってくれた」

 すごいね、と、また小さく笑うことしか、多恵香にはできなかった。幼稚園から一緒に育って同じ中学の部活に入った彼女は、自分よりも遠く前を行き、さらに遠い先をもう真剣に見つめているのだ。

 何やってるんだろう、私。うつむいた多恵香は、とぼとぼと足を遅らせる。今日は練習よりミーティングの時間が長く、普段の部活よりいくらか疲れていないはずなのに。

 少し距離が空いたのに気付いた利佳子は、一度足を止めて多恵香を待ち、再び多恵香の肩をぽんと叩く。その手のひらは多恵香が覚えているよりずっと大きく広く、硬くなっている気がした。テニスの為に鍛えた、選手の手なんだ。そう思うと、もう彼女を幼馴染だと気軽に呼んではいけないような、そんな気すらした。

「大丈夫だよ、たっちゃん。あのガンマンの人もすごいし、岸縁さんも強いし。たっちゃんも頑張ればきっと夏も勝てるって」

 昔と変わらない浅いえくぼの笑顔で、利佳子は多恵香の顔を下から覗き込んで、にぱっと笑う。心配してくれている。それは多恵香にもわかる。けれど。

「うん、そうだね。頑張らないとね」

 りっちゃんのせいだよ。もし言ってしまったら、それだけで彼女との友情は消えてしまうだろう。多恵香はぐっとこらえ、辛うじて笑った。部活のメンバーといる間はずっと、そんな笑い方しかしていない気がした。

「じゃあまた明日ね、たっちゃん」

「うん、ばいばい」

 どこかの家のカレーの香りが鼻をくすぐる、住宅街の交差点。多恵香と利佳子は手を振りあって別れる。

 たった二年で、彼女との距離はこんなにも遠い。駆け足で路地へ消える利佳子を見送った後、多恵香はまた細い肩を落として、とぼとぼと歩き出した。


 翌週月曜の放課後から、さっそくトリプルスの練習を始めることになった。一通りのウォームアップを終えた、体育着姿の多恵香と日呂美。そして遅れてやってきたのは、先日と同じくワンピースのウェアにホルスターを下げ、左手には部室備え付けの共用ラケットを持っている素子。

 ランニングや腕立て伏せ、ショートダッシュなどをして、すでに軽く汗ばんでいる多恵香たち。比べて素子は、ストレッチもそこそこにしかしていないようだ。特待生はいいなあ、なんて思いながら、多恵香は番地に呼ばれて裏庭の常設コートに向かった。

「ガンマンの射撃は半打扱い、相手コートに返すまでに一打半までが認められる」

 コートでネットを挟んで、ジャージ姿の番地の言葉に多恵香は耳を傾ける。が、彼の言っていることが、すでによくわからない。一打、半?

「つまり自分サイドにボールがある間は、ラケットで一回、ガンマンで一回ずつまで、ボールに触れることができる。もちろん同じ人間が二回ラケットで触れればドリブルで失点、違う人間同士で合計二打以上打ってしまったら、新たにオーバーヒットという反則で失点になる」

 指を立てて数を示したり、ラケットを振るしぐさを交えて解説する番地。意味は理解できたが、ラケットで一回打ち返せば相手の番になるソフトテニスで、この新ルールが必要な場面がどういう状態で起きるのだろうか。今一つ想像ができないまま、多恵香は傍らの素子をちらりと見る。目が合う。

「んーそうですねえ……バレーボールでイメージすると、相手の打球をマグナムで止めて、トスを上げて、ラケットでスマッシュしたり。ラケットで打ったボールをマグナムで一回撃って、相手コートに入る前に軌道を変えたりするのはOKってことかな」

「ああ……なんとなく、わかったかもしれないです」

 バレーボールにそもそも拳銃は関係ないんじゃないか。指摘しようかどうか多恵香は戸惑ったが、笑顔の素子を見てやめておいた。

 およそ仕組みは理解できた。だが同時に多恵香の不安は増す。もし本当にそんな戦術が公然と行使されるのであれば、ソフトテニスはとんでもなくテクニカルなスポーツになってしまうのではないか。

 そんなもの、自分についていけるのだろうか。

「とりあえず、所と岸縁。まずは今度の第一箱崎ヒトハコの練習試合までに、お前たち二人がお互いのプレイを知る、息を合わせるのが課題だ。俺と三團さんがペアを組むから、軽くワンゲームやってみるぞ」

 はい、はい、と多恵香と日呂美の返事が、ずれて重なる。多恵香はちらりと日呂美を見る。この子はいつも口をへの字に曲げているな。

「鉄砲、危なくないのかな」

 ベースラインに戻る前に、多恵香は日呂美に声をかける。

「試合でそんなこと、思ってられないんじゃないですか」

 普段と変わりなく、日呂美は多恵香と目も合わせようとしない。ふう、と小さくため息をついて、サービスラインでひとりラケットを構える。

 岸縁日呂美は、小学校の低学年から地元の硬式テニスクラブに通っていたという。硬式テニス部のない加辺穴中学ではこのソフトテニス部に入部したが、先月の一年生大会個人戦トーナメントでは地区内三位の成績を残していた。

 彼女の右腕は引き締まっていながら、多恵香のそれより一回り近く太い。つい先日も見せつけられた、その腕ごとラケットを叩きつけるような、男子顔負けのパワフルなプレイ。

 とにかく、ボールは彼女に任せよう。かかとを浮かせ、両脚の親指のつけ根に意識を集め、左右どちらにもすぐに動けるよう、膝のクッションを効かせながら、番地のサーブを待つ。

「行くぞ。0‐0ゼロ・ゼロ、プレイボール」

 不在の審判に代わり簡単にコールをして、番地は低めのトスから軽めのサーブを打つ。よかった、本気のプレイじゃなさそうだ。多恵香は少し安心しながら、ボールが自分利き手側フォアハンドに来るよう回り込む。ラケットを引きテイクバック、ワンバウンドをよく見てツーバウンド目の直前を狙い、

「はい、っ!」

 かけ声と共に左肩側へ振り上げるように打つ。練習だから、まずはコーチのいる方へ。多恵香は考えてクロスへ返す。とんとんと後ろへステップしながら、振りぬいたラケットごしに、パートナーの日呂美がもう自分より前、サービスライン近くまで駆け出しているのが見える。速い。けど。まだ早すぎる。

 番地は日呂美の頭を越える高い軌道の球ロブショットを返す。日呂美がラケットを上げ、スマッシュの構えを取るのを多恵香は見る。だが、日呂美はすっとラケットを下ろし、そのままネット近くへと足を進めてしまう。

「え、ちょっ……と」

 慌てて多恵香は左へ走る。ボールはベースライン際数センチで跳ねる。出遅れたせいで回り込めそうにない。左手でラケットヘッドをつまみ、バックハンドにラケットをためながら走る。

 自分はコート左端、日呂美の頭もネット中央よりこちら側寄りにある。ボールが浮いている間に、素子はすでにネット際に来ている。自分の正面ストレートに返してコーチと打ち合うか、逆クロスのロブで素子の頭を越すか。ストロークの直前まで多恵香は迷い、結局また番地の目の前に、ほどほどの球を返してしまう。

「岸縁ぃ!」

 番地は呼びながら大きくテイクバックする。フォアハンドの前衛狙い強打アタックの予告。日呂美が腰を落とし、ラケットヘッドを上げて身構える。襲い来るであろう打球に備えて、素子が一歩飛び退る。

「それぇィ!」

 打点高めで振りぬいた番地のストロークを、日呂美のラケットが正面でとらえる。球速そのままに鋭角で跳ね返されたボールを、

「おっとぉ」

 反応が間に合った素子のラケットが足元で拾う。高く浮いて返った球を追って、日呂美は再び下がる素振りを見せるが、球の高さを見てやはり足を止めてしまう。日呂美が取ると思い込んでしまった多恵香も、走り出せない。

 結局日呂美の背後でツーバウンドするボールを、二人で足を止めて見送ってしまう。じろり、と日呂美が多恵香を見る。いや、今のは……!

「おい岸縁、スルーするんだったら相方に声かけるくらいしろ!」

 まさに多恵香が言いたかった言葉が、番地の声でコートに響く。

「……はい」

 低い声で不満げな返事だけを残して、日呂美はサービスラインまで戻る。

 すれ違う時に、多恵香はとりあえず、

「ご、ごめんね、岸縁さん。追いつけなくて」

 本当にとりあえず謝っておく。だが。

「向こうに返すだけの球打つのやめてもらえますか、先輩。こっち、キツくなるんで」

 あからさまに不機嫌な声でそう返され、多恵香は言葉を失った。

「ほら次、1‐0ワン・ゼロ!」

 番地のコールに、多恵香は慌てて自分のスタートポジションに戻る。日呂美のストレートのレシーブを、素子がクロスに返す。多恵香はそのまま、素子とクロスのラリーを展開する。

 素子の打球は番地ほど速くはなかったが、ベースライン近くまでよく伸びる丁寧なドライブで、多恵香はベースラインより後ろにじりじりと押し込まれる。その間も日呂美はネット近くから離れようとせず、ラリーに割って入る隙を伺っている。

 多恵香が浅く返してしまった打球を、再び番地がアタックする。今度は日呂美がボレーをし損ない、ラケットをかすめたボールがコート横へスピンしながら転がっていく。

 結局その後も、多恵香と日呂美は一点も取ることができず、四点先取のワンゲームは終わる。

「……トリプルス以前の問題だな。おい岸縁」

 レシーブし損なったネット下のボールを拾う日呂美に、

「やりたくないんならそう言えよ、なあ! 他の二年を組ませるからよ」

 番地はラケットの先を突きつける。

「お前は他の二年とダブルス組んでもそうだ。相方とコミュニケーションを取れっていつも言ってるだろう。スクールで打ちっ放し練習してんじゃねえんだぞ!」

 その凄みに、離れた場所の多恵香の方がびくっとする。だが言われている当の日呂美はひるむことなく、むしろ番地を睨みつけ、

「所先輩は変えないんですか?」

 遠慮のひとつも見せず、そう言い返した。

「何ぃ?」

「私と同じ二年の牧場まきばさんの方が、ストロークもサーブも所先輩よりマシだと思います。私と牧場さんと三團さんで組んだ方が、トリプルス、勝てるんじゃないですか」

 一瞬だけ多恵香を見た番地と、目が合った。

「私も牧場さんもどっちもできますし、どっちやっても所先輩より上手いと思います。三年だからって優先で試合に出られるの、おかしくないですか」

 ひょっとしたらそうかもしれない。日呂美に同意しかけてしまった自分の弱気に、多恵香は遅れて情けなさを感じる。

 日呂美のクラスメイトである牧場も、彼女と同じテニスクラブに通っていた。日呂美ほど経験は長くなかった分、彼女より楽にソフトテニスへ転向できたのではないか。牧場自身はそう言っていたが、それ以上に牧場が努力を重ねていたのを、多恵香は部活動の中でしっかりと見てきた。

 ラケットの握り方やボールのバウンド、体の使い方。硬式テニスと大きく違うそれらを、素振りや壁打ちの繰り返しで懸命に吸収しようとした牧場は、今の二年生の中でも飛びぬけて早く、ソフトテニスの試合に耐えうる技術を身に付けていた。

 その牧場は普段別の同級生、おけとペアを組んでいることが多かった。多恵香にとっての利佳子のように、友人でテニス未経験の桶を誘って入部した牧場は、一年生大会の団体戦でも息の合ったプレイを見せている。観戦していた多恵香にも、試合中の桶と牧場の楽しそうな表情が強く印象に残った。

「じゃあなんで俺は、普段お前と牧場を組ませないと思う」

「それは……牧場さんが桶さんと仲がいいから」

「先月の団体戦でお前を出さなかったのは、なんでだと思う。言ってみろ! 俺はずっと言ってるはずだろうが、お前に!」

 ぐっと言葉に詰まる日呂美の鼻先に、番地は再びラケットを突きつける。そして。

「わかんねえならお前を変える! 今みたいなやる気ねえことするんだったら、お前は誰とも組ましてやんねえよ! さっさと――」

 日呂美に向って、左手に残っていたボールを、

「帰れ、バカ野郎!」

 ラケットでばしんと叩きつける。さしもの日呂美も反射的にラケットを跳ね上げて顔を背けるが、ボールはネットに阻まれ直接彼女には届かない。もちろんわざとはずしたのだろうが、多恵香は少しほっとする。

 番地はそのまま、他の部員がコートを立てて練習している校庭の方へ、つかつかと歩いて行く。どうするべきかと多恵香が戸惑っている間に、日呂美も大股歩きで体育倉庫へ歩いていく。そして、使い込んだラケットバッグと通学鞄を持って、体育着のまま黙って正門の方へ行ってしまう。

 強気だなあと多恵香は思う。多恵香はもちろん普通の部員なら真っ先に、コーチに謝りに行こうと考えるところだ。そこを本当に帰ってしまうなんて、自分には真似できそうもない。

 険悪な空気をどうにか散らそうとするように、

「あーっと、と、所さん。とりあえずちょっとラリー付き合ってくれるかな、ね、ね?」

 素子が軽く裏返った声で、多恵香を促す。確かに、今はとりあえず練習をするくらいしか思いつかない。

「はい、お願いします」

 軽く頭を下げた後、多恵香はふうと息をついてからラケットを握りなおす。軽めの、だがしっかりラインすれすれのサーブが飛んでくる。少し腋の詰まったフォームで返してしまったレシーブは、さらに深くベースライン数センチに、よく伸びるドライブを返してくる。きつすぎず簡単すぎない、フォアストロークの練習を意識しやすい球を返してくれる。

 三團さん、普通のテニスも十分上手いんだ。四人でやっている間も思ったことだが、多恵香は改めて感心する。感心しながらも、やはり岸縁のことが気にかかる。そういえば彼女にまだ決まったペアもいないのは、何故だろう。

 素子と真剣に打ち合っているつもりなのに、多恵香の打球は今ひとつ、前に伸びていかない。


「今日も帰っちゃったんですか、ぶっちー」

 解散ミーティングの前、倉庫の陰で制服に着替えている間、多恵香は二年生の牧場と桶に声をかけられた。日呂美の姿が見えないことに気付いた二人だったが、さして心配する様子も見せない。

「倉庫にシューズ忘れてったの、あれ確かぶっちーのだよね」

「今日も、って。岸縁さん結構あるの? 勝手に帰っちゃうこと」

 多恵香は後輩たち、特につい先ほど日呂美が名を挙げたこの牧場と桶とは、気さくに話すことができた。柔和な多恵香は、他の三年生やコーチよりも話しかけやすいのだろう。積極的に指導を求めてくることもあり、最近では同級生よりも彼女ら後輩と過ごす時間のほうが多くなっている。

 他の二年生たちも同様に、練習時間の大半を費やして見てくれる多恵香のことを慕ってくれている。多恵香にしてみれば、同級生の試合対策練習に入れない結果仕方なく、という節も無くはないのだが。

「先輩とか見てない時、結構ひどいよね」

「ちょーっと私たちがボール送りミスったりすると、すーぐ不機嫌になって一人で壁打ち始めるし。ひどい時は今日みたいに帰っちゃいますよ。どーせ硬式のスクールのほうが楽しいんじゃないですか」

「部活ブッちぎりの岸縁ぶっちーだもんねー」

 本人のいないところだと好き放題だなあ。多恵香は苦笑いしながらも、二人の言葉から日呂美のことを想像する。実際二年生の大半から、彼女はそう思われているのだろう。三年生の倍近い十三人もいる二年生の中で、日呂美ひとりだけが少し浮いている空気は確かにあった。それは多恵香も以前から、うっすらと感じ取ってはいたことだったが。

「実際上手いからさー、あんまり私たちも言わないんですけど、やっぱりコーチはそのへん見てるんですね」

「えーでもあんな普段からぶっちしてて、試合でたえちゃん先輩とペアとか、ズルくないですか」

「ズルいってなによ、ズルいって」

「残念ながらペアじゃないんだなー、これが」

 と、素子が三人の後ろから割り込んできた。彼女が加辺中カベチューの制服を着ているのを、多恵香は初めて見た。まだ着こなれていない糊の効いたブレザーが、確かに転校生らしい雰囲気をかもし出している。

「あ、えっとー……」

三團みだんだよー、三團素子みだんもとこ。みっちゃんでももっちゃんでもいいよー」

 名前を思い出そうとする牧場と桶に、親し気に名乗る素子。彼女らと同じ二年生だと自己紹介していたが、誰相手でも物おじしない雰囲気からだろうか、学年のわりに大人びているように多恵香には見える。

「しかしアレだね、モテモテなんだねたえちゃん先輩」

「だって、たえちゃん先輩やさしいし、すごい私たちに好きにやらせてくれそうじゃないですか」

「なんだろ、普段練習でも一緒だし、あんま緊張しないで試合できそうだよね」

「ねー。それでいてこう、しっかり後ろからフォローしてくれて安心ーみたいな」

 ふんふんと興味深げに聞き入る素子に、牧場と桶は多恵香が舞い上がるような言葉をぽんぽんとつないでいく。

「えっ、そ、そんなに私うまくないよ」

 慕ってくれる後輩を相手に、多恵香は謙遜する。実際多恵香は、すでに牧場は自分より上手いんじゃないかと思っている。練習のラリーでも、彼女のボールを打ち返すのが苦しい時も増えてきた。 明らかにこちらの打ち損じだった時にも牧場は「すみませーん!」と謝ってはくれるが、おそらくもうはっきりとした力量差がないことは、牧場も、いや、日呂美を含む二年生全員が認識しているはずだ。

 日呂美のようにあからさまに腕の差を見せつけられるのもきついが、逆に気を使われるのもそれはそれでむずがゆい。どちらも嫌ならばどうすればいいか、多恵香はわかっているつもりではあったが。

 と、そこへ素子は唐突に、

「岸縁さんとは組まないの? 強いんでしょ、ぶっちー。嫌われてんの?」

 二人に対してストレートに訊ねる。そのあまりの直球ぶりに、多恵香はどきりとする。

 牧場と桶は、お互い一度顔を見合わせてから、

「……ぶっちーすぐキレるから、やりたくないよね」

「そうそう、ぶちキレぶっちーだし」

「たえちゃん先輩も気をつけないと、すぐぱーんってしてくるよあいつ」

 ラケットを叩きつける振りだろう。牧場が小さく握った拳を顔の高さまで上げ、招き猫のようなパンチを繰り出す。そうなんだ、と多恵香はうなずくしかない。

 こっちがキツくなるんで。今日の練習中にぼそりと言われた、日呂美の言葉を思い出す。じゃあ自分も、いつまた彼女の癇に障るかわかったものじゃない。いや、ひょっとしたら既に。

「あ、じゃあ私がたえちゃん先輩と組めるように、コーチに言ってみるっていうの、どうですか?」

「あーおっけーズルい、私もたえちゃん先輩と組んで試合出たい!」

「まっきーあんた後衛でしょー、前出る人いなくなっちゃうじゃん!」

「出れるんなら出りゃいいんじゃねえの、あ?」

 はしゃぐ牧場たちの背中を、突然誰かの声が刺した。多恵香と牧場たちはびくりとして振り返る。

「岸縁さん……」

 声の主は、先に帰ったはずの日呂美だった。黒いシューズバッグを提げている。先ほど牧場が言っていた、体育倉庫の忘れ物だろう。言葉を失った多恵香たちの間を、誰とも目を合わせようとしないまま通り抜けていく日呂美。そして。

「お前らみたいなぬるい練習やってるやつらに、抜かれるわけないけど」

 挑発でも悪態でもなく、ただそれが事実であるかのようにぼそりと言い残し、再び正門の方へ消えていく。

「え、何あれ、ぶっちーマジぶちキレじゃん」

「終わってから硬式やりに行ってるんじゃないの。ぶっちするんだったら、部活やめてそっち行けばいいじゃんね」

 声の届かないところへ日呂美が離れて行ってから、牧場と桶は口々に悪態をつく。このままだと切りがなさそうだと多恵香は思い、

「ほらほら、ミーティング集まってるよ。行こ?」

 二人をなだめ、すでに部員の大半が集まっている職員玄関まで先に送り出す。

 そして、多恵香は素子の方をちらりと見る。肩をすくめて首を横に振りながらも、去っていく日呂美を見る彼女の目は、駄々っ子を見守るような目。

 日呂美の背をじっと目で追いながら、多恵香はふと思う。

 ひょっとして岸縁さんも、あまりもの・・・・・なんじゃないだろうか。

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