4,船の家族 ー エランダ

#16 これからの後悔


「俺、ウルザ姉さんと結婚するんだ。そう決めた」


 古い記憶にある最も鮮明に覚えているのは、ファロンのそんな台詞。

 記憶は時を経るごとに薄まり、何処かで美化され、あるいは消えていく中で、この記憶だけはあの時に感じた同じ感情のままだった。

 きっと私を形作る根っこに当たる部分なのだろうと思う。


「お料理もお洗濯もお掃除だって一人でできないくせに」

「女の仕事じゃないか」

「何だって平気なんでしょ。じゃあ、あなたに何ができるっていうの?」

「俺は男だから、剣で戦う」

「やばんじん。ベルーガ兄にもアルゲイド兄にも負けてばっかりのくせに。馬鹿みたい」

「……じゃあ、兄さん達よりも強くなるよ! いざってときは絶対に負けない。そういう時に負けなければいいんだ。兄さん達にもいつか必ず勝ってやるんだ」

 馬鹿みたいに目を輝かせているファロンに、私は冷たく言い放った。


「……じゃあ、私にも勝てるの?」

 私が言った台詞なのに、それをはっきりと覚えている。



 姉弟でありながら同い年という私達は、家族という枠を超えて特別な存在だった。

 お互いが同一でありながら、全く違う存在。二つに別たれた半身。でも双児のようと言うにも違う。

 お互いを意識しながら、誰よりも一緒に居たにも関わらず、私たち二人はお互いに違う存在と知っていた。

 例えばそれは、夜毎に見る同じ夢。

 夢の中の私はいつもの私とは少しだけ違っていて、現実の私の境遇とは違う日常を毎夜送っている。今日の一日を過ごし、眠りに就く頃に、私は違う自分と出会い、越えられない境を挟んでお話をする。越えられない透明な膜の向こうにいる別世界の親友。

 毎日話をして、お互いをよく知っていながら、完全に理解し合うことは決してない。羨むこともあれば、感覚の違いに苛立つことも、時には妬むことだってある。その想いも、お互いが近しい分だけ人一倍で、だからこそどうにもならないことを早くに悟っていた。


 その記憶の私は、確かに彼に苛立っていた筈。彼のいい加減さと無鉄砲さと無神経さと、……何より、お互いを半身のように思ってきた彼が、自分の恋心だけで私達を取り巻く環境を壊してしまおうとしていることに。

 さらに、当の彼自身がそれに気付いていないという、その愚かさに。



「……私が反対したら、私にも勝っちゃうの?」


 どんな罵倒よりも辛辣なその問いかけは、イライラしていた私からの皮肉であり、夢ばかり見続けている彼への真実の提示だった。

 その時の彼は本当にいい加減で無鉄砲で無神経で、そして何より馬鹿だった。好きな人と一緒に駆け落ちする事が恰好いいと思っていて、相手の気持ちどころか、その後自分達がどうなるのかすら考えられないような子供だった。

 私は彼よりも何ヶ月かお姉さんだから、そんなにも手放しには考えられなかった。……私は、多分少しだけ妬んでいたのかもしれない。

 彼は押し黙る。彼は私のその一言で、選択を迫られることになった。

 家族と、大切な人。一つを得て、一つを目の前で切り捨てるのなら――――――――?


 その問い掛けの数日後に彼が選び取ったのは、家族。彼が想う大切な人は、家族を犠牲にして勝ち取るものではない。このフィーニの家族こそが、彼にとって一番大切な人達なのだと、彼は結論づけたようだった。私は家族を選んでくれた彼を見直した。最も近しい弟として誇りにさえ思った。

 だけど、その選択は、夢見がちで無鉄砲だった彼を大きく変えてしまった。

 それまで兄さん達を越えると頑張ってきた剣術の稽古もおろそかになり、兄弟姉妹達の輪の中においても自分から主張することを止め、……日和見的というか、輪の外からみんなを見ている事が多くなってしまった。そして、彼本人はそれが何よりも楽しいというように、いつもニコニコしているようになった。……正直、老け込んだようにすら思えた。

 彼は変わってしまった。私が見られなかった夢を見続けていた彼は、私と同じ現実を見るようになり、私と同じ悩みを抱えるようになった。妬んだことさえあった別世界の親友は、もうどこにもいない。

 私が、彼を変えてしまった。

 ……きっと私は、そのことをずっと負い目に感じていくのだろう。

「フィーニは海賊だけど、だからって俺達まで海賊になることはない。みんなが平穏無事に暮らせるなら、どんな道を進んだっていいと思う」

 それは、家族の中で最も私に近い考え方だろう。

「だけど、みんないなきゃ駄目なんだ。誰かが欠けてしまったら、例え周りがどんなに綺麗でも、そこだけは暗い穴になってずっと残ってしまうから」

 彼はきっと、他のどの兄姉達よりも優しくて、そして繊細なんだと思う。だけど、その彼は……



 ……彼は今、人を殺そうとしていた。


 彼に何が起きたのか、よく分からなかった。

「エランダ。みんなを頼む」

 眼を向けることすらもなくそう告げる声に耳を疑った。それは聞き慣れたものではなかった。人の声どころか、犬の唸り声のようにも聞こえた。

 止めようとして、名前を呼ぼうとして、……躊躇った。なんだかとびきり悪い夢を見ているような気がしてならなかった。

 彼が、私の手から離れていく。

 髪を振り乱し、自身の血で塗れた手で剣を振るい、先程まで優勢だったギムを圧倒している。それはもう、彼ではなかった。

 それは暴力の権化。


 ――――俺は男だから、剣で戦う。


 男という、自分とは違う存在そのもの。


 ――――いざってときは絶対に負けない。そういう時に負けなければいいんだ。


 本能ともいうべき支配欲求。他人を屈伏させて、自分の方が上であると思い知らせる為の…

 …………いや……違う……


 ―――兄さん達にもいつか必ず勝ってやるんだ!


 目の前の彼が、あの時の、異様に目をギラつかせた彼と重なる。

 確かに私は、彼のそうした輝きを奪ってしまった事に負い目を感じていた。

 しかしこれは違う。止まらないだろう。

 人を傷つけて、家族を壊して、それでも彼は満たされない。究極を突き詰めれば、その先はもう殺戮しか残っていない。取り戻すための戦いではなく、奪い取るための………

 私は自覚する。彼のそんな一面を恐れていたのだ。

 もう一度名前を呼ぼうとして、呼べなかった。

 さっきから幾度繰り返し呼んだか分からないその人の名前を、忘れてしまったかのように声にならなかった。

「やめて……!」

 かろうじて喉から出たのはそんな悲鳴のような声。そして思い出すよりも先に身体が動いた。


 ――――私が反対したら、私にも勝っちゃうの?


 激痛が走る。彼が振り下ろした殺意の痛み。彼の振り下ろした剣は、私の肩口を深く傷つけてようやく止まってくれた。

 背後からギムの声がする。だけど、痛みよりも恐ろしい彼の殺意に当てられた私の身体は、固まったまま動かなかった。

 やがて朝日がこの船を照らし、悪夢が終わった。失意に食われた彼が、膝を付く。

 いつの間にか他の船は見えなくなっていた。やけに静かな海に冷たい風が吹き込んでいる。

 呆然とするルアンとリトラ。私をじっと見つめるオルカ。クラレリア母さんはいない。焦燥に駆られるギムの声だけがうるさい。

 痛みがようやく心と身体の両方を蝕みはじめた。

 この瑕はあまりにも深い。




「……無茶なことをしたもんだよ全く」

 背中に心底呆れた声が降りかかる。私はそれに頑として抗う。

 あの一件の後、怪我の手当をしてくれたのは他の誰でもない、モーディア商会の女社長メイザその人だ。……というか、同性の大人が彼女しかいなかった。

「あなたに言われたくないです」

 だけど、たとえ彼女しかいなかったとしても、この人に心配などされたくはない。彼女は言わば裏切り者で、事件の元凶の一人でもある。

「まさかモーディア商会までグルだったなんて思いませんでした」

「グルはグルだけどねぇ、……ま、仕方なくさ。ほら腕を上げて」

「―――――」

「あたしにやってもらうのが嫌だっていうなら、ギムローにやってもらうかい? あたしはそれでも構わないけどね」

 私は仕方なく彼女の言う通りに腕を上げた。メイザは傷に触れないようそおっと包帯を通していった。



 ファロンも咄嗟に手を止めたのだろう。右肩の傷は深くはないが出血が酷かった。血を拭い消毒して応急処置をするにも、男性にやって貰うには障りがある。とはいえ、フィーニの妹達はこの船のクルーにとっては敵。感情に任せて魔法を使ったルアンは特に危険視されているだろう。ならばあとはメイザしかいない。

 もっとも、ギムは自分で手当を施すつもりのようだった。ファロンが膝を付いて一時の片がついたこの騒ぎだが、ギム自身はそれすら気付かずにいた。それ程に彼は取り乱していた。私の名を呼ぶ今にも砕けそうなひび割れた声は、まだ私の耳の奥に残っている。

「ほら、どきなっ!」

 それを一喝して制したのがメイザであった。私には二人の関係は未だよく分からない。だけど少なくとも船の上では、船長たるメイザがリーダーであるようだった。

「男の出る幕はさっきで終わり。後始末だって残ってるだろ」

「し、しかし……」

「揉め事を起こして剣振り回して血を浴びて、その上さらに女の服剥かなきゃ収まんないってのかい?」

 それっきりギムは、憮然とした表情を浮かべながらも何も言わずに、背を向け離れていった。

 そして、今は彼よりも近くにいるメイザがそっと囁きかけた。


「大丈夫かい?」


 二度目になるその台詞を、メイザはもう一度囁いた。だけど今度は少しだけ意味合いが違う。

「きつくない? 遠慮しないで言っておくれよ。おばさんはがさつだから、きつかったりゆるかったりするよ、きっと」

 私はなるべく感慨を出さずに、大丈夫、と答えた。痛くはない。言う程下手ではないし、思いの外丁寧に包帯を当ててくれていたからだ。

「残んなきゃいいけどね。カイリンガみたいに痕が残っちゃったらって、おばさん、そればっかりが心配よ」

 そうして気に掛けるメイザの表情は、どことなく母さん達を思い起こさせた。

 メイザは、昔からフレスガノンと……いや、私達フィーニ一家と家族ぐるみと言っていい程の付き合いがあった。フィーニの兄弟姉妹はみんなメイザおばさんと、この不格好な丸い貨物船が好きだった。それはメイザにしてみてもそうだった筈だ。月に何日か滞在するだけなのに、私達全員の顔と名前、性格や好みまでもちゃんと覚えているのだから。そんな人、フレスガノンにだってあまりいない。

 ――――どうして、…と、そんな言葉が口から出かかった。うん?とメイザが聞き返したので、私は思いきってその疑問を口に出した。

「どうしてこんなことしたんですか。フィーニを裏切るような真似をして」

 彼女の苦笑いが聞こえた。

「裏切ったつもりなんかなかったんだよ」

「だけど……」

「本当さ。だけど……そうね、もう言い訳だね。商売の相手を変えなきゃいけなくなったのさ。オルホトの方がだいぶきな臭くなってきてね、フレスガノンと取引できなくなるかもしれない。そのことをウィノンさん達に相談しに来てたんだよ。クロウォルトの坊ちゃんは、手伝うにしてもただ乗せるだけって約束だった。……今更信じないだろうけどね」

「――――」

「商売だからさ。いけ好かなくても、貴族にも媚びておかなきゃ、街道や航路を抑えられたらあっと言う間に落ちぶれちまう。あたしにも娘がいるからさ。ま、こう言っちゃ悪いんだけど、人の子より自分の子だよ。……悪かったね」

 それは……当然だと思う。商会としての地縁は全て向こうにある以上、安易にそれを投げ出す選択もできはしない。メイザは勿論、ムトンやリンドンにも家族がいるのだ。メイザの言うことが本当なら、おばさんはちっとも悪くない。悪いのは……

 貴族、と聞いて、私の脳裏を過ぎる男の姿があった。

「……それって、ギムのことですか?」

「おや、気付いてたのかい?」

「モーディア商会に奉公に来るような小さな家の出身には見えませんから」

 酷い言いようだねぇ、とメイザはケラケラ笑った。

「ま、その通りなんだけどね。けど、あの子は少なくとも『いけ好かない貴族』じゃあないよ。そこは勘違いしないでやっておくれ」

「??」

 どういう意味か分からなかった。メイザはどう説明したものかと考えあぐねているようだった。やがて「うまく言えないんだけどね」と前置きをして、こう言った。

「貴族には違いないさ。土を食って生きてるようなあたしたち庶民とは明らかに違う。それにプライドが高くって、変に慢心してる所も確かに貴族だ。あたしが大っ嫌いな貴族。あーやだやだ。知ってるかい? ワーハルトの馬鹿息子だなんて自分一人で食事もできないんだよ? 口癖が『僕は君達のような下品な動物じゃないんだよ』って。給仕なんか毎日毎日何度も何度もそれを横で聞いてるのよ。よく耐えられものよ。きっと部下も友人も屋敷の下男か乞食と同じように見てるに違いないわ。アレは馬の尻か何かだね。そんな顔してるのよ。海に投げても浮かんでこないわね。もっとも泳ぐ馬もいるそうだけど、アレは無理。沈むわ、絶対」

 ……何の話よ。

「……ギムは?」

「ああ、逸れたわね。ともかく、貴族っていうのは威張ってるだけでなんにもできないもんなのよ。働かないことが偉いんだって思いこんでるのよ」

 偏見だと思う。

 エルシエラ母さんは貴族出身だけど、そんな怠け者ではない。むしろ積極的に働こうとしては失敗し、それでも挫けないが為に周りから止められる。勿論、海賊の妻になるような人が普通の貴族の筈がないのだって分かっている。

「だけどねー、あの子はここまでついて来たの。貴族には違いないのよ? クロウォルト侯爵の長男」

 クロウォルト。それは確かによく聞く貴族の名だった。だけど、フィーニ・オードインクでよく聞く貴族というのは、つまり……

「フィーニにとっちゃ仇敵だよ」

 幾度と無く争ってきた。戦争まがいの領海争いだってしたことがある筈。

 近隣ではフィーニ・オードインクの名は大きい。主権の秩序が機能していないこの国では、その名を聞いただけで避けようとする貴族もいる。摩擦を起こさないよう賄賂を送り、暗黙のうちに癒着してくる者も多い中、クロウォルトという貴族だけは、フィーニと並ぶだけの軍事力を持ち、同時にはっきりと敵対の意志をも見せている。

 ギム。

 ギムロー・クロウォルト。敵なんだ、彼は。

ならフレスガノンの町は彼にとっては敵地に等しかった筈。

「その敵地へ、あたし達に紛れ込んだとはいえ、たった一人でそこへ行くっていうんだよ。あたしは最初、『亡命でもしたいのかい?』って聞いたんだ。けど違うって言う。捜し物がそこにある筈だって言うんだ。無謀どころか正気を疑うよ」

「捜し物?」

 それって……もしかして……

「指輪だそうだよ」

 目の前が真っ暗になった。彼は、確かにそう言っていた。私と初めて会った時にも、指輪の事を訊ねた。


 ――――――指輪を捜してるんだ。

 ――――――どの宝石とも違う。とにかく珍しい石の指輪。


 そんな風に。だけど特定の指輪のことだとは思わなかった。とにかく珍しい指輪をフレスガノンでいくつか仕入れて、別の遠い町で売りさばくのだろうと思っていた。その時はギムを商人の見習いだと名乗っていたのだから当然だ。私はフレスガノンを案内しながら、指輪を扱うお店を二、三軒紹介してあげた。それっきりだ。きっとギムは私の誤解に落胆しながらも調子を合わせていたのだろう。




 ――――――……これで確証を得られた。あの婦人ではない。指輪はお前達の中の誰かが持っているということだ

――――――さぁ、誰だ? 誰が指輪を隠し持っている? 君達の中の誰かだ。エランダか、魔女のお嬢さんか、生意気な小僧か、あるいは人形を抱えて泣いてるその子か……それとも…………それとも、君が持っているのか? ファロン


 私はいてもたってもいられなくなり、包帯を結び終わるなり身なりを整える間もなく立ち上がり、治療部屋……メイザの私室を出た。

 部屋を出たところにはムトンの太っちょが、メイザ社長を待ち構えていた。彼は私の恰好を見てぎょっとし、私はその脇を無視してすり抜けて行った。

 メイザは私を止めようと追ってきたが、部屋を出たところでムトンに止められたようだ。ムトンはメイザに用があって、しかし部屋には入れずに待っていたのだろう。

「エランダちょいと待ちなって! あーもムトン! そのでかい腹をどかしな! あたしが通れないじゃないか!」

「んなこといったって、そろそろ航路を決めねぇとフィーニの船に追いつかれるよ。オラ、リンドンに言われて社長を呼びに来たんだ」

 それっきり、メイザは追ってこなかった。私は道すがら上着を着直しながらギムの姿を探した。きっとファロン達と同じ部屋にいる。上にいる筈がないから下だろう。私はとにかく見つけた階段を下りていく。

 “彼ら”は直ぐに見つかった。リトラの泣き声が上の廊下まで聞こえていたのだ。

 一階下の船倉。モーディア商会が積み込んだ荷物と一緒に、弟妹達は繋がれていた。「繋がれていた」というのは、それはつまり虜囚として扱われていたということ。それは人として扱われてはいない。手と足を縛られたまま壁に繋がれている。寝間着に上着だけの恰好を縛り付ける縄は、見るからに痛々しく仰々しい。見れば、ルアンはさるぐつわまで咬まされている。喋れなくすれば魔法は使えない筈と、そう思ってのことだろうけど――――――

「ひどい……!」

 私は、思わずそう声に出していた。

「エランダ」

 ギムとファロンの声が重なった。その後を続けたのはギムだけ。ファロンは直ぐに目を逸らしてしまった。

 私はというと、ファロンの左手の怪我が気になってしまう。手当てはしっかりされているように見えたが、どうにも安心はできなかった。

「まだ動かない方がいい」

「平気よ」

 本当かどうかも分からないギムの気遣いを適当に流し、私はルアンに駆け寄った。妹にかけられた痛々しいさるぐつわを解こうと、その結び目に指をかける。当然のようにギムが止めに入った。

「エランダ……解いてはいけない。それは魔女だ。口を開けば魔法を使う」

「使わないわ」

「さっき見ただろう? この船を沈めようとした」

「あなたがクラレリア母さんを突き落としたからでしょう。それに比べたら船の一隻ぐらい…なんだって言うのよ」

 メイザが聞いていたらなんと言うだろう。

 あの人は……あの人だってきっと怒ったりはしない。家族とか親子とか、メイザはちゃんと分かっている。その家族に、どれほど残酷な仕打ちをしたのかも。可哀相なことに、この人だけが分かっていない。ギムはただ溜息をついた。

「海のど真ん中だぞ。今船を沈められたら一巻の終わりだ」

「だからそんなことしないわ。するわけがないじゃない」

 そう……するわけがない。自分達が乗っている船。船が沈めば、自分達だってただではすまないのだから。そんなことくらいギム自身だって分かっている。だからくつわを解こうとする私を止めようとしない。……分かっているのに、どうしてこんなことをするのだろう。私はさらに苛々を募らせる。

 手ぬぐいを丸めて縛っただけのくつわは思いのほか堅く結んであって、指先だけではうまくほどけなかった。私は歯も使ってなんとかそれを解いた。

 僅かに緊張が走るのが分かった。ギムが身構えただけじゃない。ファロンも、オルカも、……そしてルアン自身ですら僅かに身を引くのが私からでも分かった。

 ……兄弟姉妹ですらこの仕打ち。あまりに残酷だ。私はやりきれなくなって、ルアンの身を抱きしめてやった。クラレリア母さんがいつもそうしているように。

「ルアンは賢い子よ。あなたが考えていることくらい簡単に見透かしているわ」

 おそらく、ギムがクラレリア母さんを殺そうとして海に突き落としたのではないことも。ただ、そうと分かっていても抑えられない怒りもあるから、彼女は魔法で船を沈めようとしたのだ。あの時海に落ちた母さんが無事なら、同じ場所で船が沈んだところで私達は無事でいられただろう。

 いわば最後の手段。そして、今はその「最後の手段」は使えない。ルアンはお利口だから分かっている筈だ。

「……私、そんなに良い子じゃないわ」

 くつわを解いた口から最初に告げられたのは、私にしか聞こえない、小さな声。そんな私の考えに否定的な呟き。……いや、ぶつかりはしない。彼女は決して、「船を沈めたい」なんて言っているわけではない。

 私は側に落ちていた帽子に気が付いた。それはルアンがいつも被っている帽子……父さんがルアンにあげたプレゼントだった。ルアンはあの騒ぎの中で、咄嗟にこの帽子だけを掴んで持ってきたのだろう。私は腕を縛られたままのルアンに代わって、それを彼女の頭に被せてやり、そしてもう一度その小さな体を抱きしめてあげた。

「必ず帰れるわ。だから我慢して」

 私は早口に、そして小さくそれだけを返して立ち上がり、ギムの方に向き直った。

「そんなことより、これは何?」

 ギムと、弟妹達。立って見下す者と、繋がれ見上げる者。何の感慨もなく睨め付ける男と、怯える妹達。

 私はその間に割って入り、ギムと向かい合った。

「どういうこと?!」

「海賊を懲らしめているだけだ。盗んだものを返してもらわないと」


 ピシィっ!


 私は迷わず、自分の掌でギムの頬をはたいていた。自分の手に残るほんの僅かな痺れすら振り払うように思いきり。

 ギムは少しだけ驚いたようだが、それほど動じることもなく、私をじっと見つめる。

 貴族。それは既に、貴族の目だった。

「何をするんだ」

「嘘つき。卑怯者」

「嘘なんかついてない。僕は最初から指輪を探す為に――――」

「正体を隠して?」

 私がそう云うと、ギムは黙り込んでしまった。

 確かに、彼は目的に関しては嘘をついてない。だけど、貴族だと云うことを隠して私達の前に現れた。

「……フレスガノンに来たのはモーディア商会との交渉の為でもある。だから、君を騙してたことには……なるんだろうな」

「それだけじゃないでしょう? 思い返してごらんなさい。その指輪一つ探すために、あなたは一体どれだけ非道な事をしたの?」

「相手は海賊だぞ。そんなことを言われる筋合いはない」

「あなたの方がよほど海賊じゃない。……ううん、海賊だってこんな非道いことはしないわ」

「捕まれば処刑されるような奴らだぞ」

「私の家族よ!」

 引かない。既に身体は緊張で固まってしまっている。船が揺れでもしたら私は植木のように簡単に転げてしまう。それでも、引けない。ここには私しか、弟妹達を守ってあげられる人はいない。

「この子達にもしもの事があったら、私は絶対にあなたを許さない」

「理解できないな」

 ギムはそう言って静かに頭を振った。

「家族だからなんだというんだ。君は自分で言っていたじゃないか。『関係ない』と」

「そ、それとこれとは話は別でしょう」

「別なものか。第一君を傷つけたのは、その“家族”だろうに」

 ドキリとした。一瞬だけ後ろにいる筈のファロンの方に気がいってしまう。ギムには、私が目を逸らしたように見えただろう。

「一緒に住んでいたというだけで、そんな怪我をしてまで守らなきゃいけないものなのかい?」

 早口に問いつめるギムに、私は言葉を返せなかった。「そんなの当然でしょう」と、思ったことを云えばいいだけなのに、それでは理屈が埋まらないような気がした。それが、私の意志ではないような気がした。

「……お前には分からないだろうさ」

 私の後ろめたさを破るその声は、気にしていた背後からすり抜けて聞こえてきた。ファロンだ。目一杯の軽蔑を込めて、それはギムへと降り注がれる。

「最初から指輪を探しに? さぞかし大層な理由があるのかと思ったら、なんだ、お前はあの亡者どもと一緒ってことじゃないか」

「……なんだと?」

「そんなんで“家族”って言葉の意味を理解できるわけもない。お前等には親も兄弟もないんだろうな。指輪一つの為にたとえ家族で殺し合う」

 言い終わる前にギムが動いた。間に私が立っていることにも構わずに、ファロンに拳を振り上げる。私はそれを必死に抑えた。空気が変わったことを感じてか、リトラが再び泣き出した。

「あの女といいお前といい! フィーニはいちいち気に触る連中だ! 貴様らに何が分かるっ!」

「やめてっ! あなたが怒ることじゃないでしょう? あなたは、あの亡霊とは違うわ」

 睨み合いは続いた。「同じだ」とファロンが小さく呟くも、今度は突っかかっていくようなことはなかった。

 だけど、怒っているのは感じる。今は抑えているけど、抑えきれない程の怒りがビリビリと伝わってくる。

「……どうしてこんなことをしたの? 指輪って何? 話してくれなきゃ、あなたの言う通り何も分からないわ」

 私は彼の気を紛らわせる為にも話題を変えた。

 そもそもの疑問。彼が探しているという、指輪について。

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