#15 本気


 甲板上に立つ人達が投げ出される程に船は大きく揺れた。だけど、そんな揺れの中にあっても、エランダは俺の手を放しはしなかった。欄干に体を絡ませ、すっかり感覚の無くなった俺の左手に指を絡ませてでも、踏みとどまっていた。

 細剣に穿たれた手の平からは血が溢れ、今はその血がエランダの掌と袖とを赤く汚している。ぬるぬると、手を放してしまえと、ほんの少し力を抜けばいい、そうすれば楽になれると赤く囁く。エランダは手を震わせながらも必死に抗っていた。髪を振り乱し、歯を食いしばりながら、それでも握った手を落とすまいと、揺れる船にしがみついていた。

「もう少し耐えて、ファロン……! 今の内に……」

 兄さん達の船は包囲の輪を少しずつ狭めつつある。もし今エランダが手を放したとしても、俺は兄さん達の船に助けてもらえる。だけど、そうなればみんなを助けられない。

 ギムローは追っ手の船とこの船の揺れに気を取られている。もう一度船に上がるなら今だ。しかし……

「母さんっ!!」

「いやっ! いやぁーっ!」

 その時だった。ルアンとリトラの悲鳴がこの場にいた全員の耳をつんざいた。

 ようやくエランダに吊り上げられ、ようやく船縁に上半身を乗せることができた俺は、慌てて妹二人を探した。

 ルアンは暴れながらも、シーザーに抱えられた身体をふりほどけずにいる。怒りを露わにする視線の先にはギムローと、彼の腕の中でぐったりとしているクラレリア母さん、……そして、そんな母さんに泣きながらしがみつくリトラがいた。

「殺してやるっ! この船ごとお前を焼き払ってやるっ!」

 興奮したルアンがギムローに向かって呪詛を叫んだ。身体をシーザーに抑えられてもなお、魔法を行使しようと手を前に突き出す。そんな少女に、シーザーが冷静に囁きかけた。

「この船には、お前の兄弟姉妹達も乗っているんだぞ」

「知ったことかっ!」

 聞いたこともないような怒りの声で、ルアンが叫ぶ。まるでその声を象るように、辺りに蒼い焔が舞い上がった。

 それはまるで竜の吐息のごとく渦を巻き、見ているだけで目を灼かれるような恐怖を感じた。蒼炎の欠片は空を飛び交い、俺達の頭の上を飛び去り、直ぐ近くまでやって来ていた兄さん達の船へとぶつかり弾けた。

 ……全く制御の埒外なのが一目で知れた。狙いどころか敵味方すら定まっていない。これじゃあ、母さんが達も灼きかねない。

 ギムローは咄嗟に身を翻し、腕を盾にしようと掲げるも、そんなものはあの焔に比べたら糸くずにも等しい。今その焔の一片がギムローと母さんの方へと飛び、

 ――――寸前のところで弾けて消えた。

 シーザーが何かをしたようだった。黒い剣は彼の手を離れて甲板に横たわり、ルアンはもう片方の腕の中で力を無くし、朦朧としていた。

「……アンタが、邪魔しなければ……」

「その時は、お前は自分の母親を灼いていた」

 意識はあるようだったが、だいぶ弱っていた。もうしばらくは魔法を使えないのだろう。シーザーが、そのようにした。彼は続けて、ギムローの方へと顔を向けた。あれだけのことがあったというのに、平然と、少しも取り乱さずにギムローへと声をかける。どうやらシーザーには、ギムローの考えている事が分かっているらしい。

「止めるべきだ。指輪はその女が持っている可能性が一番高い」

「それなら、これは賭になるな」

 冷酷な笑みを浮かべながら、ギムローはクラレリア母さんを見、そして勝ち誇るようにちらりと俺を見た。船の側面には、トッド・モーディアを逃がすまいと兄さん達の船が迫る。海の下には浅瀬があるにも拘わらず、まるでそれが見えているかのように、巨大な船は揺らぎもせず、トッド・モーディアの逃げ道の側面に寄っていく。


「やい! 人浚いのモーディアどもめ! 今すぐ船を止めやがれ!」

 その上から、降伏勧告の声が聞こえた。ダイラ兄の声。ぶつかりそうな程迫っているガレオン船アズムールの縁に足をかけ、今にも飛び移らんばかりだ。

 ギムローにも聞こえている筈だ。だけど、ギムローは平然としていた。気に留める程度のことでもないというように、その声を無視し続ける。


 ……一体どうするつもりだ……!?


 彼が行動に移す最後の瞬間まで、その意図を読めなかった。そして、理解した時には遅すぎた。彼の囁き声が聞こえる。

「――――さようなら、海に祝福されし婦人よ」

 ギムローが母さんを抱えていた腕を払う。それは、リトラの手を母さんから引き離すためのもの。そして、母さんの身体を放すための………

 意識の無いクラレリア母さんの身体が傾き、欄干を越えて船縁の外へと落ちていった。

「いやああぁぁぁぁ―――――――っ!」

 リトラの悲鳴が辺りに響き渡った。ルアンが悔しげに奥歯を噛みしめ、声の出ないオルカが甲板を拳で叩いた。

 水音は聞こえない。クラレリア母さんは静かにこの船から消え去り、その音の代わりに、あまりにも大きな歪みを皆に残していったのだ。


「くそっ! おいっ! ウィールに伝令っ! 今すぐ全ての船を止めろっ! トッド・モーディアからクラレリア母さんが落ちた! ぼさっとしてんな! 船を止めろ! 下手したら母さんを船で挟んじまうっ!」

 慌ただしくダイラ兄の声が告げる。「母さんが落ちた」と。

 直ぐそこまで迫っていた船を見る。もう少し……本当にもう少しの所だったのに、フィーニの艦隊はその足を止めなければならなかった。

 今、ダイラ兄の姿も船上から消えた。母さんを助ける為に、彼女が落ちた場所が分かるうちに海へと飛び込んだのだろう。船の高さも浅瀬の恐怖も関係なかった。気を失ったまま海へと投げ出された母さんを見失わない内に、一刻も早く確保しなければならなかった。

 ダイラ兄だけではない。モーディアを追跡していた全ての小舟が、母さんを探し出すために舟を止めた。舟を止め、白兵戦を用意していた者は武器を置いて水面を見張り、櫂を握っていた者はカンテラに持ち替えて海を照らし目を凝らしていた。

 そしてトッド・モーディアだけが、その間を走り抜けていく。それこそ、得物を掠め取る悪戯猫のように。

 呆然とするエランダ。泣き叫ぶリトラ。

 ただ一人、ギムローがほくそ笑んでいる。してやったりの顔で、母さんの落ちた水面を見つめている……


 ギィンっ!


 金の打ち合う耳障りな音が鳴り響いた。

 ようやく船に上がった俺は、エランダが確保していてくれた剣を拾い上げてギムローの方へと駆け出し、その不敵な横面に向けて剣を振り下ろしたのだ。

 それを無理も隙も無く受け流すギムロー。勝ち誇ったように、しかし見下したように俺を見て口の端を吊り上げた。

「まだやるつもりか? その手で? 存外に往生際が悪いんだな」

「まだ終わっていない!」

 俺は叫んだ。

「貴様は俺が止める! 必ずだ!」

「無理だな。君は僕には勝てない」

 ギムローは執拗に未だ血の止まらない左手を狙ってくる。その度に痛みが走り、俺は反射的に左手を庇い、身体は大きく傾いてしまう。牽制にと振り抜く一振りでさえ、この剣は細剣に打ち負けていた。左手をかけることができない。たったそれだけのことなのに、剣がひどく重く感じられる。振った剣の勢いさえ、御しきれないのだ。

 そんな俺を見て、ギムローは馬鹿馬鹿しいとばかりに構えを解いた。

「君ごときに負けてはいられないんだ。黙って見ていたまえ。僕がこの運命から見放されていなければ、結果はもうすぐ出る筈だ」

 ……コイツ、何を言っている? 俺が怪訝に思ったその時だった。


 キシイィィ――――――


 あの音。港で聞いたあの……

 石が割れるようなあの耳障りな音が、再び俺の耳を突き抜けた。

 まさか、と思った。ギムローが言う『結果』とは、これのことか?! 今夜の全てが起因する全てのこの現象は、フレスガノンの港から遠く離れているにも関わらず、この船上にて引き起こされた。

 まばたきする間に例の亡霊どもが姿を現す。乞食に貴族、騎士に奴隷、女も老人も、子供や獣まで……

 あっと言う間に、トッド・モーディア号の上は死霊どもで埋め尽くされた。

 みんなの悲鳴が聞こえる。家族達だけではない。舵を取るメイザや、航行の作業をしていたムトンやリンドンまでもが、再び現れた不気味な亡霊どもに驚愕していた。

 そんな中、彼らの出現を当然とするように、平然としている者が二人いた。

 一人はシーザー。今は茫然自失としているルアンを抱えたまま、あの黒い大剣を振るい、亡霊を消していく。

 もう一人はギムロー。この結果に満足したように、……いや、なお興奮したように笑みを浮かべている。

「……これで確証を得られた。あの婦人ではない。指輪はお前達の中の誰かが持っているということだ」

 亡霊を恐れる様子は微塵もない。それどころか、刺突の為の細剣を、まるで棒きれか何かのように軽く振るい、自らに群がる亡霊どもを消している。

 実体の無い亡霊を消すのに、大きな力も裏を掻く技も必要ない。得物で手応え掴み、そこに何もないのを確かめれば、それで彼らは消えていく。まるでそこには初めから何もいなかったというように。

 ……彼は、それを知っている。俺達が経験によってようやく得た手法を、コイツは初めから知っているのだ――――

「さぁ、誰だ? 誰が指輪を隠し持っている? 君達の中の誰かだ。エランダか、魔女のお嬢さんか、生意気な小僧か、あるいは人形を抱えて泣いてるその子か……それとも……」

「貴様ぁ―――っ!」

 怒りにまかせ斬りかかる俺の剣を、ギムローは軽々と受け止める。本来なら打ち合えばギムローの細剣が負ける。ギムローはそれを知っていながら、わざと真っ向から受けてみせた。今の俺の不足を自覚させ、圧倒的な優位を見せつけるために。

「……それとも、君が持っているのか? ファロン」

「っ!!」

 冷酷な笑みを浮かべて囁くと、ギムローは容易に剣を払い、そして俺を蹴り飛ばした。もはやまともに相手をするつもりさえ無いというように。

「ファロン……!」

「ファロン兄……」

 エランダとオルカ。二人の声が聞こえる。俺を気遣い、心配する声が。今の俺は、随分と彼らに心配をかけているのだろう。

 みんな動揺している。クラレリア母さんが海に落とされ、俺達を乗せた船はフレスガノンからどんどん離れていく。フレスガノンの船ももう追ってはこられない。この船には頼れる兄さん達も母さん達もいない。俺達は、家族から引き離されようとしている。

 誰もギムローを止められない。ルアンの魔法も、エランダの言葉も、オルカの勇気も、リトラの泣き声も、何一つこの男には届きはしない。

 ――――――俺だけ。

 俺が、守らなきゃいけないんだ。


「エランダ。みんなを頼む」

「……ファ…ロン……?」

 エランダの声が訊ね返してくる。だが返事をしている余裕はない。意識はもうとっくにギムローの方を向いていた。

「――母さんの代わりに、俺が」

 俺は、剣を構えてじっと敵を見据える。


 俺は左手を負傷。しかしギムローには未だ弱点も死角も見当たらない。細剣は彼のスタイルなのだろう。よく使いこなしている。その上思い切りもいい。得物の大きさの格差、ひるまない冷静な度胸もある。

 細剣を使う剣技はベアフォーリ兄とセルエ姉と同じ。だけど、単純な技だけならともかく、総合的にはギムローの方が一枚も二枚も上手かもしれない。

 兄さん達との訓練を思い出す。

 細剣専門のセルエ姉が苦手とするのは、大槍のベルーガ兄と曲刀アルゲイド兄の二人。相性以前にこの二人に勝てないのは仕方ないのかもしれない。逆にダイラ兄相手には、例え彼がどんな武器を持ち出そうとも負けることがない。セルエ姉には小細工や付け焼き刃は一切通じない。

 ならどうするか。セルエ姉が言うには、「武器が軽い分、単純な力がぶつかると弱い」のだそうだ。だが豪快に大剣を振り回すオクトロアノ兄にも、セルエ姉さんは決して引けを取らない。何故か。

「そりゃあ、そういう“単純な力”を端から切り崩していくのが、細剣の技だもの」

 さも当然のように微笑むセルエ姉。

「確かに、大剣は戦い難い方かもしれない。ぶつかればまず負ける。だから、ぶつからないようにして勝ちを取りに行くのよ。細剣と大剣なら、割と楽にそれができる。でも出来なかったときは負け確定ね。それはもう大剣のペースだしね」

 そして、ベルーガ兄とアルゲイド兄の二人を指して、こうも言っていた。

「……あの二人は、私が細剣でペースを取りにいける絶対的な技量の優位がないのよ。単純な技でならベルーガ兄を上回ってる自信はあるけど、力で圧倒的に負けてる。アルゲイド兄に至っては、得物の強度も扱う技も向こうが上。まったく……攻めにくいったらないわ」

 ……つまり、ベルーガ兄の力と、アルゲイド兄の技があれば決して負けることはないということ。その両方を兼ね備えれば、オルカが言うフィーニ最強に違いない。

 正直無理だ。だけど最低限、奴を切り崩すために必要な力と、ペースを切り崩す為の技ならば、二人を真似てみることはできる筈だ。


 ―――――心を研ぎ澄まし、右手を構える。左手は使えないから、せめて手首を柄に宛い、足りない力を補う。

「君には無理だ」

 無理とは思わない。ギムローの哀れむような目を、睨み付けるのではなく、じっと、まっすぐに見据える。

 アルゲイド兄の技。それはリズム。例えるならば背の存在しない湾曲した刃の軌跡。

 突き刺し、斬り付け、そして引き戻す。その全てが、鋭利な銀光に閃いている。

 なぞるのはイサリア母さんの二本の銀閃。兄さんの剣は、たった一本でその軌跡の全てを描き出す。

 イサリア母さんの剣も、それを辿るアルゲイド兄さんの剣も、俺は見慣れているのだから、

 できない筈がない。


 ギィン……!


「!?」

 剣が初めての手応えを捕らえた。俺は決して隙を見せず、引き戻す動きの一つ一つにすら鋭利な刃を思い描きながら、次々と斬りかかった。

 ギムが防戦一方となる。それを見越して俺は、奮う剣に少しずつ力を込めていった。

 それはベルーガ兄の力。……いや、力を無駄なく体現できる軌道。それは、例えるならば実体を持った暴風。

 あるいは、どんな防壁にも屈する事無く振り抜ける様は、一波で街を蹂躙していく津波のそれに似ている。

 変幻自在で決まった形は無いのに、その一撃はとてつもなく重い。

 当然だ。ベルーガ兄の体格で、それを最も効率よく力を振るう為に、兄さんは大槍という武器を選んだのだ。

 見習うべきは、その力の込め方。ベルーガ兄の槍の軌道からそれに乗せられる力の振るい方を導き出し、それをなぞり、振り切る。

 それこそが、あの暴風の如き力。



 ギムローは体勢が間に合わず、受けの姿勢を取っている。細剣で剣を受けようと言うのだ。―――愚かしい!

 渾身の力を右手に、その上に左手首を宛い、俺は伸ばした腕一杯の力で剣を振り切った。刃は何の手応えも無く振り抜け、代わりに小さな音を刈り取った。

 それはギムローの細剣の折れる音だった。

「しまった……!」

 驚愕するギムロー。正面から受けるには頼りなかった細剣は、反撃に転じる為の武器にすらならない。

 俺は勝ちを確信し、最後の一太刀を振り上げた。

「やめて……!」

 振り下ろす瞬間には声が聞こえた。誰の声か分からない。剣は止まらない。

 振り下ろされる剣は、やがて肉を抉る鈍い手応えを手に伝える。

 ギムローに剣が届く前。

 剣は、全く予期していなかった介入者の肩を抉って、止まった。

「あ……」

 思わず声が零れる。最初に目に飛び込んできたのは、痛みに表情を歪ませたエランダ。振るう剣の先にいてはいけない、大切な、家族。

 しかし俺の握る剣は、宿敵のギムローではなく、家族である彼女の左肩を切り裂いて止まっていた。

「もうやめて……殺す必要なんて、ないでしょう……?」


 殺す……? 誰が? 誰を?

 剣の刃が血に滴っていた。それは、エランダ自身の血に違いなかった。



[何も見えてはおるまい。そなたが今何を打ったのかも]

 その時、何処かで聞き覚えのある声が、自分を嘲笑ったような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る