#14 クラレリアの詩
気が付けば、クラレリア母さんが前へ前へと歩を進めていた。
「家族を殺してしまって平気でいられないのはあなた自身でしょうに」
「……なんだと?」
いつもながら、クラレリア母さんが何を感じてそんな事を言っているのか、俺には分からない。だけど……その言葉はどうもギムローの触れてはいけないものに触れたらしい。冷淡だったギムローの声に、感情の熱が混じり始める。
「あなたは強い人。だから、人の間に壁を作った。何者にも立ち入らせない、堅くて冷たい壁。あなたの苦しみを、誰も知ることができない」
「ご夫人、何が言いたいのかな」
一歩、また踏み出す。冷静を装うギムローは、それに気付いていただろうか?
「あなたは残酷な人。自分が残酷になることで、この世の地獄に己の道を作らなければならなかった。一体誰が共にその道を歩めるというのでしょう」
俺は気が付いた。彼女は、詩を綴っているのだ。それが何を意味しているのかは分からない。……きっと、母さんと対話している、ギムロー本人にしか分からない。
突然歩み出した母さんを心配するように、人形を抱えたリトラが付き従った。
子供は決して愚鈍ではない。リトラはリトラなりに、ギムローが自分の……更にはクラレリア母さんの敵である事を理解している。……だけど、当のクラレリア母さんだけが違う。ギムローへ向けて、まるで捨てられた小さな子供を見るかのような、憐れみの目を向ける。
明け方の闇夜に、クラレリア母さんの銀色の髪は、ほんの僅かに緑色を輝かせている。母さんは、リトラの背中を抱きながらギムローに伝えた。
「リトラは姉になろうとしています。今は拙い両手で、妹たちを守ろうとしているのです」
また一歩を踏み出す。それに見かねてか、あるいは母さんの言葉がとうとう逆鱗に触れてか、ギムローがとうとう細剣を振り上げた。
誰もがはっとなった。母さんを助けようと駆け出そうとした。だけど……誰よりも先にそれを為した者がいた。
バヂィ……!
小さな稲光が威嚇するようにギムローの目の前で弾け飛んだ。誰もが、何が起きたかを理解していなかった。
ただ、母さんと……
……彼女を守る為に手をかざすルアンを除いては。
誰も理解できなかった。だけど、事実として認めるしかなかった。ルアンが、……この小さな少女が、あの稲光を放ってギムローを攻撃したのだと。
「……母さんに手を出したら、この船ごと吹き飛ばすわ」
兄姉弟妹達が向ける戸惑いの眼差しを肯定するように叫ぶ彼女の声は、震えていた。それがハッタリであることは誰の目にも明らかだった。それ故に言葉は警告の意味をなさない。だけど、その目は確かに告げていた。「自分は魔法を操れる。今度はただじゃ済まない」と。
そんなルアンにほんのわずかな目配せをして、母さんは告げた。
「ルアンは一番強い絆を守りたいのです。それこそがこの世界で一番強く美しいものだと分かっているから」
「母さん、下がってっ!」
ルアンにはもはや、母さんの台詞も聞こえてはいない。その台詞が、どれ程彼女という存在を示していようとも。
ギムローの表情が憎しみに歪む。
「ならば、これでどうだ!」
彼はその細剣を縁へ向けて振りかざした。そこは、今もまだ俺が手をかけている。
「やめろぉっ!」
オルカが悲鳴のような声で叫んだ。俺自身が決して声に出さない、俺を心配してくれる人の悲鳴は俺の心を酷く打ちのめした。
縁にかけた手にあまりにも鋭い痛みと熱が走る。その痛みに耐えきれず、一度は縁から手を放した。だけど、手の甲から縁へと貫通した細剣は、杭のようにしっかりと留まっていて、俺をこの船に繋ぎ止めていた。剣が俺の手を裂いて転落することもない。幸いにも、フィーカ姉の作ってくれた足場が、幾分か手に掛かる負担を軽くしている。
そんな俺の様子に堪えられなくなり、甲板のオルカが頭からギムローに向かって突っ込んでいた。丸腰の、何の力もない少年だ。それは簡単にギムローによって取り押さえられてしまう。ギムローは笑みを浮かべる。自分の方が強い事を確信した勝利者の笑みを。
「お前に何ができる? 少年」
「――――オルカは誰よりも兄に憧れる子です」
オルカがそんな状態にあっても、母さんの詩は続く。まるで、ここにいる俺達の心情を歌うように。
「誰よりも兄が好きで、いつかは兄のようになりたいと、兄のように弟たちを守りたいと願っています」
……あるいは、ギムローの心を慰める子守歌のように。
俺には母さんが詠う意味は分からない。恐らく、この場の誰もそれを理解できずにいるだろう。それとも、この詩そのものが、ギムローと俺にしか聞こえていないのではないかとさえ思う。……きっと母さんの詩は魔法か何かなのだろう。そうでなければ、ここまでギムローの心を乱したりはしない。まるで理解していない、あるいは聞こえてない俺達兄弟姉妹の心をこんなにも奮わせはしない。
背後に兄さん達の船が迫っていた。小さなトッド・モーディアは、まるで逃げまどうネズミのように不乱に走る。だけど、その船の上に立つ母さんは、あまりに穏やかで……そして神秘的だった。
それを振り払うように、ギムローが叫ぶ。
「それが! フィーニが誇りにしている家族か!」
「……あなたは悲しい子。壁の向こうのあなたには、……地獄の道を行くあなたには、一番綺麗なものが見えない」
「黙れ!」
「一番欲しかったものさえ、塞がれ見えなくしてしまうのでしょうね。悲しい子……」
「あああああっ!!!」
上がった悲鳴は、オルカのものだ。オルカを押さえつけているギムローが、手に一層の力を込めたのだろう。
ともかく、クラレリア母さんの言葉が、ギムローの逆鱗に触れた。
だけど、オルカはそれに必死に堪えていた。堪えながら、押さえつけられた肺で声をひねり出す。
「エランダ姉ちゃんっ……! ファロン兄ちゃんを!」
「え、ええ!」
その声に、エランダがはっとなった。まるで、母さんの詩の魔法から解かれたかのように、オルカを抑える為にギムローが離れた縁へと駆け寄る。
しかし、俺は今体を船の外に置きながら、船体側面に突き刺さった太矢を足場に、細剣で左手を船縁に縫い留められている状態だ。右手には剣を握ったまま。エランダにその手を伸ばすことはできない。
「ファロン! 剣を抜いたらあなたが落ちちゃう! 右手で掴まれないの?」
「剣を……放せない」
「命とどっちが大事なの! そんなもの、捨ててしまいなさい!」
「駄目だ! これを無くしたら、ギムに逃げられる」
そう答えながら、剣を持った右手をエランダの方へと伸ばした。確かに、剣さえ手放してしまえば、随分と楽になるのだ。それでも、剣を捨てるわけにはいかなかった。
「――――もう! アンタなんて、落ちたって知らないんだから!」
そう言いながらも、エランダは宙吊りの俺の手から剣を受け取ると、それを足元に放り、直ぐさま突き立てられたギムローの細剣を抜きにかかった。その姿はあまりにも危なっかしく、突然に抜けた細剣で怪我を負ったり、はたまた抜けた勢いと船の揺れが重なって、彼女自身が今にも船から放り出されそうだった。俺は慌てて空いた手で縁を掴むと、穿たれた手の痛みに耐えながらもなんとか上半身を縁まで乗り上げた。
「もう少し!」
エランダが叫ぶ。
その時、閃光が弾けた。
灼けたような真っ白い煙がもうもうと立ち上がり、一瞬辺りが見えなくなる。
それは、ルアンの魔法に違いなかった。閃光は確かにギムローを射抜いたように見えたから。
しかし……
「!」
手が……
水が灼けて煙となったその中からぬっと右手が伸び、細剣を引き抜こうとするエランダの両手に重ねられた。
それはギムの手。覆っていた霧が晴れたとき、彼は足でオルカを押さえつけ、空いた手で再び細剣を取り戻そうとしていた。
その形相が、普通ではなかった。
冷たい……、まるで血の通わぬ別の生き物であるかのような、感情を殺した恐ろしい眦で、宙吊りの俺と、それを助けようとするエランダの姿をまとめて見下ろしていた。
俺は恐怖した。このままここに掴まっていれば、彼はその細剣で俺を殺そうとするだろう。エランダもそう感じていた筈だ。突然添えられた手の主を見つめたまま、彼女は己の表情を凍り付かせていた。
ギムがその目を背後のルアンへと向けた。
「……外れだ。お嬢さん。そして、最後のチャンスも失ったな」
俺もまた思わずルアンの方を向いていた。
そこには、ルアンの細い腕を掴むあの男……シーザーがいて、彼女の前を遮るように、彼の象徴たるあの黒い大剣を立て掲げていた。……人質を取ったというようにも見える。だけど、そうではない。彼は、あくまでルアンの魔法を封じたいだけなのだろう。その目は、俺達ではなくルアンだけを見ていた。
俺は驚愕した。何故彼がこの船に?などと、考えるだけ無駄だと悟る。そうだ、当然予想するべきだった。彼が最初からギムローと一緒にこのトッド・モーディアでフレスガノンへとやって来ていたのだろう。ギムローがとうとう動き出した彼に満足そうに笑みを浮かべる。
「そうだ、そのままでいい。ただその厄介な魔法を封じてくれれば、それでいい」
シーザーは何も言わない。ただ、感情の無い目をギムローに向けただけだった。ギムローも又、その様子に満足しているのか、何も言わなかった。ただ、あの冷たい瞳で、細剣を奪い合う形になっているエランダを見下ろしている。
「さぁエランダ、手を放すんだ」
「駄目!」
エランダは叫んだ。細剣を大事に抱えるようにして守り、剣の柄に添えられたギムローの手を払おうとする。細剣が動くたびに俺の手には痛みが走ったが、エランダは転落するよりはマシとばかりに、未だ突き立ったままの剣を離そうとはしなかった。そしてギムローは、その様子すらも冷たい表情で見降ろしていた。
「―――エランダは、きっとあなたに愛を教えられる。冷たい石に閉じこめられたあなたを温める為に」
母さんの詩が聞こえる。それがギムローに聞こえていたのかどうか、彼は少し冷静さを取り戻したかのように目を細めただけだった。そんな彼を、エランダは威圧するようにじっと睨み付けていた。
「ファロンを殺すつもりでしょ! そんなこと、絶対にさせない」
「……なら、死ぬのは僕の方だろうな」
その言葉に、彼女は躊躇ったのだろう。ほんの一瞬、エランダの力が弛んだ。剣の柄を握って競り合っていたギムローがその一瞬を突いた。
俺の手を縁に縫いつけていた剣は抜け、その煽りを受けた俺は、それまで体を支えていた矢の足場を踏み外して、海へと放り出された。
「っ!」
「ファロン……!」
その俺の手を、エランダが掴んだ。
剣に穿たれた手は血に染まっている。エランダの手も、直ぐに赤にまみれた。乾かない血が滴り手が滑るだろうに、それでもエランダは手を放さなかった。両の手で、必死に俺の手を握りしめる。
穴の空いた手が痛みに軋む。だけど、それは耐えなければならない痛みだ。この痛みに耐え、俺はもう一度戦わなければならない。エランダや、オルカやルアン、それに母さんやリトラを守るために。
「――――ファロンは、鏡の向こうのあなた自身――――」
母さんの詩。それは俺自身を詠ったもの。声が聞こえたとき、背筋が凍った。
そして、確かに一瞬だけ時が止まったかのような錯覚を覚えた。
俺の腕目掛けて細剣を振り抜こうとするギムローは、詩に抗おうとするかのように口を引き結び、クラレリア母さんに視線を送っていた。
「もう一人のあなた。あなたが手に入れられなかったものを持っているあなた。あなたが勝ち取ったものを手に入れられなかったあなた」
「……確かにそれは的を射ているかもしれない。彼には嫉妬すら覚える。だが、だからどうだというのだ?」
その一瞬の間に、確かにギムローの声が聞こえていたのだ。彼は剣を振り抜くこともなく、そして口を開くこともなかった。しかし、確かにこの凍り付いた時の中で彼は、クラレリア母さんと対話していて、俺にはそれがはっきりと聞こえていた。
「所詮僕と彼は違う存在だ。そう納得するしかない。だが僕は、欲しい物は必ず手に入れる。たとえ貴方が“もう一人の自分”と評する彼を殺してでも」
ギムローの声は、勝ちを確信しているようにも聞こえた。確かに、今剣を振り抜き、エランダが掴んでいる俺の腕を切ってしまえば、俺は海へと落ちるだろう。ギムローは俺の腕を骨ごと断ち切るだけの技量を持っている。味方の船が近いとはいえ、腕を失うほどの怪我をして海水に浸かるのだ。命を落とすことだってあるかもしれない。
……死ぬのか、俺は……弟妹達を守れないまま、この男に殺されるのか?
「彼は僕には勝てないよ。剣を交えて分かった。彼は負け犬だ。大きな可能性を持ちながら、それを自分から発揮しようとしない。……いや、自分からその可能性を捨て去った男だ。僕は、彼とは違う」
「あなたはあなたを殺すことはできません」
「では殺せるものかどうか、試してみるか」
細剣が薙ぎ払われる。その時は、俺の手首を斬り落とすその軌道までも見えた。
勝ちを確信したギムローが冷酷な無を顔に浮かべている。
――――不意に、凍っていた時が動き出した。
ガクン――――――っ!!
しかし、その時船が大きく傾いた。細剣の刃は俺の腕に届かないまま、ギムローは体勢を崩した。
ギムだけではない。トッド・モーディアに乗っていた誰もが、その突然の揺れによって甲板の上に蹲った。それ程の大きな揺れだった。どうやら何かにぶつかったらしい。ガリガリという嫌な音を立てながら、揺れはなおも続いた。
「何があった?!」
それに対して怒りをあらわにしたのは他ならぬギムローであった。甲板を転がるクラレリア母さんを睨み付け、大声で船を操っているメイザに訊ねた。
「暗礁だ、ちくしょう! 追いつめられてたってのかい!?」
「持ち直せ! 追いつかれたら全てが水の泡だ」
「そりゃ無茶だぜ! 坊ちゃん!」
甲板の反対側から、ちびのリンドンの声が聞こえた。彼とふとっちょのムトンは、船を全速力で航行させるために作業しているに違いなかった。リンドンが悲鳴のように叫ぶ。
「船足も地の利も指揮も、一切合切向こうの方が上なんだ! こんな船なんか、直ぐに押し潰されちまう!」
この船は小さな貨物船なのだ。海賊の船と追いかけっこするようには出来ていない。
直ぐ背後にはウィール兄のガレオン船アズムール。それだけでもトッド・モーディアとは比較にならない程の大きさなのに、同規模の帆船がもう1隻、既にこのトッド・モーディアを取り囲んでいる。そしてそれらの間を縫うようにしてやって来るのはトッド・モーディアより二回り小さな突撃艇。正面からの力比べでは非力だが、装甲を施していない貨物船では無事では済まないし、簡単に組み付かれるだろう。
フィーニの海賊達は、それらを巧みに動かし、このトッド・モーディアを浅瀬へと追い込んでいたのだ。戸惑う船員を、船長のメイザの声が一喝する。
「ぶーたれてんじゃない、リンドン! 周りから目を離すんじゃないよ!」
「そんな無茶な!」
「あんたは自分の仕事だけしっかりやりな! この子の行き先を決めるのはあたしさね!」
船の腹を引っ掻く浅瀬を壊すような勢いで舵を切ったのが分かった。彼らにはもはや船の損傷など気に留めている余裕などない。
再び船が大きく傾き、ガコンという大きな音が鳴った。しかしそれは浅瀬に引っかかった時のものではなく、抜ける時のものだ。揺れというならば、この時が一番大きく揺れた。それは、船が身をよじらせて悲鳴を上げたかのようだった。
メイザは投降するつもりはないらしい。本気で、これまで家族ぐるみで交友を続けてきたフィーニを敵に回そうというのだ。
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