#10 クラレリア母さん
シーザーを先頭に、俺とルアンがしんがりを、そしてリトラを抱いた母さんをその間に挟むようにして俺達は港へと向かった。まだあの亡霊達が出るかもしれないと考え、家を出るときに軽めの剣を一振り持ってきたが、どうやらそれも必要なさそうだった。
さっきほど亡霊が多くなかったのもあるが、一番の理由は俺達が亡霊を目に捉える間もなくシーザーが消してしまうからだ。改めてこの傭兵の実力を思い知る。いや……それだけではない。本来斬る事の出来ない亡霊を切り裂くその姿は、正に……
「“神殺し”シーザー………か……」
その名を呟く。異国の伝説によれば、世界でただ一人“神”を斬った人間の名。『魔剣のシーザー』の名でも呼ばれ、その剣で斬れないものはなかったという。
例えば、人間が神を殺した神話自体は特に珍しくはないのだという。時代が下れば神は人と交わり人となる。祖先を辿れば神に行き着く民族なんて数多ある。神話に人間が登場してからというもの、神を殺すのはいつだって神の子孫である人間の英雄だった。そうして創作話である神話はその役割を終え、装丁で区切られた神話本の外で人間の歴史が始まる―――――――
だがシーザーという人間に関しては、事情が逆だ。存在を証明する遺物がいくつか残されていながら、その偉業の曖昧さ故に歴史学者達からは神話の一部であると断じられてきた。
言うなれば彼は、神話と歴史の境界に存在する人間。神話の世界から俺達が住む歴史の世界に飛び出してきた人間なのである。
……と以前聞かされた事がある。他でもない、ルアンに。
「……お前って昔からシーザーの話が好きじゃなかったか?」
「はん! そんなわけないでしょ。あんなシスコン甲斐性無しの不感症」
「―――――――」
……取り敢えずルアンがどうしてそんな言葉を知っているのかは突っ込まない。俺達よりもはるかに本を読んでいることだし、もう慣れた。ため息を零すだけ。
「嫌いなのになんでそんなに詳しいんだ? 書蔵の本は“神殺し”の話ばかりじゃないだろうに」
「読めば読むほど腹がたってくるのよ。人間的にどうかと思うわ、あの人」
「………だから何で読んでるんだよ。そんなに嫌いな話を」
「やたら目に付くのよ! しかもそれを書いた歴史学者の浅はかなこと! ちょっと考えれば矛盾してるって分かる筈なのに」
イライラが貯まるほどに壊れていくルアン。
「――――――ああああっ! もう! 思い出したらまた腹が立ってきた! 私の前世はシーザーの宿敵だったに違いないわ!」
とうとう邪神を自称し始めた。なんとも可愛い邪神もいたものである。よく転ぶし。
いや、それはともかく………
「本物だったりしてな」
声を潜めてそう呟くと、ルアンは黙り込んだ。
彼女はきっと、本物だと確信しているのだと思う。そうでなきゃ、初対面のシーザーにあそこまで敵意を向けたりはしない。
「シーザーの最期って、どうなったか知ってる?」
神妙な面持ちのルアンが、そんな事を尋ねてきた。
「そりゃ勿論有名な話だからな。えっと……」
そう言いつつ考えるも、思い出すことはできなかった。
“神殺し”の伝説なんて(ルアンから)飽きるほど聞いた話。だけど、その部分……英雄の最期だけは、記憶の何処にも存在しなかった。
神を殺した後も、シーザーはいくつかの冒険を成し遂げた筈だ。だが、その最期は切り取られたかのように思い浮かばない。病床で倒れるのも、誰かに討たれるのも、あるいは崖から落ちたり海で溺れたりというのでもなかった気がする。ましてや、老いて静かに亡くなったというのも。
なんだか気持ち悪かった。シーザーを名乗る人間離れした人物が目の前にいるから尚更に。
以前彼女が言っていた言葉をもう一度思い出す。シーザーは、神話の世界から俺達が住む歴史の世界に飛び出してきた人間なのだ、と。
ルアンは自分が掛けた問いに答えるわけでもなく、神妙な面持ちで彼の背中を見つめている。それはつまり、俺と同じように英雄の最期を知らないということだ。家族で二番目に本を読んできたであろうルアンでさえも。
だが……
「帰らなかったのよ」
「―――――――?」
呟きが聞こえた。だけど俺はそれが誰の呟きなのか、一瞬分からなかった。
さっきまでは確かにルアンと話していた。だけど、ルアンは知らないのではなかったのか?
帰らなかった? 誰が? “シーザー”が、帰らなかった。神を殺し英雄となった後も帰らず、彼は旅を続けた。そういう意味。それ以外のどんな意味でもあり得ない。
……だけど、何故だか違和感を覚えた。
俺が知らなかった事を、ルアンが知っていたというだけ。ルアンも知らないのだろうと思っていた当てが外れただけ。よくある思い違い。本当なら、ただそれだけのことなのに……
「シーザーは、帰らなかったんだと思うわ、きっと」
自分の想像でしかない、というニュアンスで彼女は言い直すも違和感は消えなかったのは、そう言った時のルアンがとても不安そうな顔をしていたからかもしれない。
「旅人さん、ちょっとだけ待って貰えますか」
その時、前の方から声がした。それは、先行するシーザーを呼び止めるクラレリア母さんのものだった。シーザーは特に何の感慨も見せず、言われた通り立ち止まってクラレリア母さんの様子を見守っていた。
何か問題が起きたのだろうか? そう思って俺達も足を止めた。だけど、次に母さんが向き直ったのは俺達の方……いや、母さんが心配しているのは俺ではなくて、ルアン。身を屈め、少女の顔を覗き込む。
「……疲れたのかしら? 大丈夫? もう少しだけ、頑張れる?」
片方の腕でリトラを支え、
もう片方の手の平でルアンの頭を撫でる。
声は羽毛のようにそっと。表情は優しく。
疲れているのは、母さんだって同じだろうに。それでもクラレリア母さんは子供の為に語りかける。
「……平気」
なのに、たった一言。ルアンがそう言ってしまうのは、天邪鬼な彼女の強がりか、それとも母さんを気遣っての台詞か。
「平気よ。港までもう少しだもの。それまでは我慢する」
「……ルアンは強い子ね。偉いわ」
「――――――――――――――」
「だけど、独りでいちゃ駄目。いい?」
独りじゃないもん。と、俯くルアンの唇がそうなぞったような気がした。だけどその声は聞こえてはこない。
俺にはクラレリア母さんの言うことがいまいち理解できない。だけど、こうした場面を見るとぼんやりと先ほどの仮説を確信する。母さんは、子供達の心が聞こえてるんじゃないかと。
だから母さんの声も同じように、ルアンの心に聞こえるんじゃないか。うまく言えないけど、……もしそうならクラレリア母さんはきっと……世界で一番素敵なお母さんなんだろうと思う。そして俺達は、そんな母さんの子供達なんだ……
「ファロン、あなたも疲れているでしょうけど、ルアンを負ぶってあげて」
「はい。分かりました」
だから、それは在る意味当然な頼みであったと思う。俺はルアン一人背負うくらい、なんてことない。
「!?ちょっと! おか……クラレリア!」
受け入れられなかったのは、俺ではなくむしろルアンの方。変にプライドの高い彼女のこと、俺に背負われるだなんて思いもしなかっただろう。
「私、大丈夫だってば!」
「だめ。でなきゃ、またあなたは独りでいようとするんだもの」
「な……何を言ってるのよ! みんなで走ってるんじゃないの! 独りのわけないでしょう!?」
「なら、負ぶって貰うのだって平気よね? みんな一緒なんだもの」
………会話が噛み合ってない気がする。ルアンも訳が分からないというように母さんに必死に反論していた。
「だいたい! ファロンだって疲れてるのよ!」
「ルアン、我が儘ばっかりじゃあいけないわ」
「だーかーらーどうして我が儘になるのよ! みんな疲れてるから、私は走るって言ってるの! れっきとした団体行動でしょ!」
「まぁ! ルアン、誤解しているわ。誰もあなたが嫌いだなんて思ってないのよ。だからもっと頼ったっていいの」
「あーもうー! せめてちゃんと会話しなさぁいっ!」
ルアンの理詰めもクラレリア母さんには通用しない。どうやら、ルアンにとって一番相性が悪いのは、オルカではなくて、案外クラレリア母さんなのかもしれない。それがなんだか皮肉めいていておかしい。
……俺はさてどうしたものか。これじゃあ先に進まない。俺達は一刻も早く港に避難しなくちゃいけなかったはずだ。
考えた末、俺は『先を急ぐ』ことにした。
今もまだ喚き散らしているルアンの側に歩み寄り、その小さな身体を肩に抱き上げる。
「ゃあああっ!? なんてことするのよ! この大馬鹿変態の垂れ目蛮族! 背高ノッポの益体無し!」
そして予想通りの反発……もとい、反撃が俺の胸と背中に浴びせられた。
……勿論、効いてなんかいない。歳の事を抜きにしても、ルアンは兄弟姉妹の中でもかなり体格が小さい。その膝蹴りも拳も不自然な体勢で滅茶苦茶に暴れるだけ。男の身体に通るようなものではない。身体の構造からして違う。
「さぁ、俺達も急ぎましょう」
「……あらあらあら」
クラレリア母さんが、その様子を見て少し困ったような表情で笑った。ハスア母さんがよくこんな笑い方をする。「あらあらまぁまぁ」と。
………そう言えばハスア母さんはちゃんと逃げられただろうか? 危機感の無い性格もさることながら、あの人の場合、乱築されたフィーニ邸において毎日のように道に迷う。なので「ハスア母さんが出歩く時は最低誰か一人は付いているように」というお触れがミアキス母さんから発せられた。にもかかわらず未だ以てあの人が迷子になるのは、その気紛れと好奇心と危機感の無さとによる。目を離した隙にいなくなる……というとまるで猫のようだが、あの人の場合本当にいつの間にかいなくなっていることが多い。いくら必死に探そうとしても見つからず、結局彼女とは全然関係ないおかしな所で“出くわす”。
どうやらあの人は賑やかな方へ、楽し気な方へと足を向けてしまうらしく、結果、血気盛んな海賊達の喧嘩の場に現れては、その独特な雰囲気を盾にやんわりと仲裁することになる。そんな光景をよく見かける。
………考えていたらなんだか本当に心配になってきた。
いや、勿論大丈夫だとは思う。こういう時、子供達の次に避難させるのがハスア母さんだ。一緒にしておいた方が子供達が落ち着くというのもある。あのイサリア母さんが何も言わなかったのだから、ハスア母さんの避難は真っ先に指示したのだろう。
閑話休題。今は自分の手の届く家族を守らなければいけない。
俺はシーザーに「大丈夫だ」と合図を送りまた歩き出した。勿論、肩から聞こえてくる罵詈雑言は一切無視。そのうち彼女が諦めてくれる頃にでも背負い直せばいいと考えていたのだけど……
やはりルアンは兄弟姉妹の中でも飛び抜けて負けず嫌いなのだ。言葉が尽きて尚、俺に罵声を浴びせ続ける。
「ばぁか…! ばぁか…っ!」
語彙などとっくに尽きているが、さすがにその声に泣き声が混じり始めると罪悪感が湧かないわけがない。
「……そろそろ妥協しないか? この体勢は疲れる」
「だったら、降ろせばいいでしょ…! あんたなんかに頼んでないわよ!」
「ルアンの頼みでやってるんじゃない。クラレリア母さんの頼みだからやってるんだ」
「ふん! 母さん達の言うことなら何でも聞くの? このマザコン!」
……ルアンに言われるとなんだか腹が立った。俺は下りの階段の最後を飛び降りてやった。着地の時の衝撃で、肩から小動物の泣き声のような悲鳴が洩れた。
「もう…最低よ…! アンタは他と違って多少マシだと思ってたのに」
「そりゃ残念だったな。ルアンの知らない俺はどうやら強引らしい」
そういう自分があることを否定はしない。俺も男だから、揉め事無くのんびりしたいと思う一方で、腕っ節で解決してしまえるような強さにも憧れる。男が家族を守る為に一番手っ取り早い武器は、やっぱりそういうものだと思うから。
「ルアンも強情だからな。分かってくれないなら、こうするしかない」
「もうやだ……ファロンまで母さんみたいなこと言わないでよ……」
「クラレリア母さんの考えだなんて、俺じゃあ察してやるだけで精一杯さ。……でも、これで分かったろ。あの人に嘘はつけない」
「……嘘なんてついてないもん……」
「じゃあ、単純にお前が母さんに勝てなかったんだな」
「……降ろして。ちゃんと背中に負ぶさるから」
「はいはい」
手早く乗り降りを切り替えながら思う。
彼女もきっと分かっている筈なのだ。ルアンの理詰めもクラレリア母さんには通用しない。同じく、ルアンの強がりだって、母さんには通用しない。母さんはいつだって子供のことを気に掛けていて、………心が読めるとか、そのくらいはっきりと子供達を感じている。
だから、強がりばかり言うルアンとは会話が噛み合わない。そもそもあの人はルアンの口から出る言葉と会話していないのだから。
「……他人の心なんて、分かるは筈無いじゃない……」
「そりゃ、全部とはいかないだろうさ、例えクラレリア母さんだってな。だけど、ちゃんと思い遣ってあげられる人は、必要な時にはちゃんと分かってるもんだよ」
「……今も分かるの?」
「んー……ルアンは寂しいのか?」
「違うわよ。馬鹿」
「そっか。俺もまだまだ思い遣りが足りないってことだな」
わざとらしくそう言って、俺は言葉を切った。奇妙な沈黙が続く。そういえば、さっきから随分と軽くなった。ルアンが暴れなくなったからだろう。
「……鬱陶しいのよ。本当の家族じゃないくせに」
代わりに、小さな呟きだけが返ってきた。聞こえるか聞こえないかの、小さな声で。
ルアンは背中でおとなしくしているから、背中の重みが心地よい。だから、俺は聞こえないフリをすることにした。そして、先を行くクラレリア母さんの背中を追って行った。
彼女の腕に抱かれて、リトラは眠っている。おんぶではないのは、リトラが人形も一緒に連れてきたからだ。人形を抱えたリトラをおぶさるのは難しい。そして、母さんはそんなことだってちゃんと理解している。リトラが絶対に人形を手放さないであろうことも。
フレスガノンの街はすっかり静まりかえっている。今、街の何処かでは兄さん達が戦っているのだろうか? あるいは、街の人達の避難を急いでいるのだろうか? ………それにしては街は静かすぎた。俺達は取り残された最後の人間なのだろうというのは直ぐに理解できたが、もはやその俺達の前にも亡霊達は現れなかった。
先頭で警戒に当たるシーザーは、剣こそ抜き身のままで肩に抱えてはいたが、態度はすっかり油断しきっているように見えた。周りに潜んでいるかもしれない亡霊達よりも、子供達を背負ったせいで足の遅い俺達を待つのに気を回しているようだった。……もっとも、その無表情が苛立ちに歪むような事もなく、相変わらず感情の無い目でじっと待つように見ているだけだったが。
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