第三章 第三話
一日半、歩きどおしで、ヘイラ道に入ってから三日目の昼に、聖賛地へと渡る大橋に到着した。
「すごい、長い橋」
ウルルは感嘆の息をもらす。橋はあまりにも長い。出口が見えないほど遠くにある。
「見た目は長いけど、距離的にはそうでもない。一時間も歩けば着く」
「ここからまた一時間か」
「これまでの行程を考えりゃ、早いほうだろ?」
「まあね」
橋は一人がようやっと通れるか、という細さだ。スヴィカがまえ、ウルルが後ろで、連なり歩く。
橋が終わりに近づくと、反対側から伸びているべつの大橋が見えるようになる。あれがもうひとつの大橋。聖賛地の北方からかかっている大橋だ。北の休息地で、聖者たちが何人もブルーガの餌食になった。南から来ただれかが、ヘイラに報告済みであるといいのだが。
「あれが、ヘイラ」
北と南の端がぶつかる中央に孤島がある。
「ヘイラは二層建てなんだ」
まえを行くスヴィカは足を進めつつ、基本情報をウルルに教えてくれる。
「ヘイラのあるレイリ島は、上から見るとほぼ円形だ。その中心にあるのが、神官と政治家だけが入れる区画。聖都市って呼ばれてる。その外周を囲むのが準聖都市で、そっちはだれでも入れる。厳密には、聖賛地ってのは聖都市だけを指すんだ」
「そうなの? 町全体が聖賛地なんだと思ってた」
「そう思ってるやつのほうが多いと思うぞ。まああえて、分けて説明することもないからな。でも、ノールリオスの宗教施設に議会があるのは、聖都市だけだ。」
「準聖都市にはなにがあるの?」
「一般人の居住区」
「普通の人でも住めるんだ」
聖賛地には神官と政治家しかいないと思っていたウルルには意外な情報だった。
「ちょっと説明に語弊があった」
スヴィカは言いなおす。
「聖都市のやつらだって、飯やら着るものやら、生きるためにはいろんなサービスが必要だ。それを提供してやるのが、準聖都市に住んでるやつら。聖都市が神官と政治家の居住区で、準聖都市はその生活を支えるための商売人が住む町ってとこかな。ま、聖都市の神官と政治家合わせて三千人もいないだろうから。そんな少人数相手に商売してたんじゃ生活が立ちいかない。だから準聖都市のやつらには、聖都市から特別手当が支給される仕組みになってる。こんな辺鄙なところに住んで、聖都市を世話してやるぶんの手数料だな」
「へえー」
情報通のスヴィカに、ウルルは感心しきりだ。
「見えてきた。あれが準聖都市」
背の高い建物が立ち並ぶ。建物の色合いにはあたたかみがある。尖塔こそないが、町の風景がどこかニールトンを思い起こさせた。
「ニールトンは準聖都市を参考に作られたんだ。雰囲気が似てるだろ?」
どうりで、とスヴィカの説明にも納得だった。
大橋と町を隔てる境界はない。石造りの橋からそのまま町の外周に直結している。
歩いてみると、そびえる背の高い建物に荘厳な雰囲気など、たしかにニールトンと似ている。でもニールトンとの決定的な違いがひとつある。人が極端にすくないのだ。開いている店もほとんどない。
「なんだか、おもちゃの町みたいだね。人が生活している感じがしないというか」
人気のない巨大な町の物珍しさから、ウルルはきょろきょろとあたりを見まわす。ニールトンでは道幅からはみ出すほどの人の往来があったのに。ここでは大通りでたまに一人、二人出くわすか、といった程度だ。
「人口がすくないからな。それでこんだけの規模だ。贅沢な町だよ」
スヴィカがあきれたように言う。
たまに歩いている人は、聖者の黒衣によく似た長衣を着ている。いずれも年若い。まだ十代と思しき子どもたちばかりだ。
「ここには神学校があるんだ。神官候補を育成するための」
「ああ。じゃあ、あの子たちは学校帰りなのかな」
楽しそうにおしゃべりしながら通りを往来する神官候補たちを、憧憬の目で見つめる。封じ子となったウルルは、退学を余儀なくされた。
「いや、神学校は寄宿舎だ。あいつらはたぶん、課外時間に出歩いてるんだろう」
スヴィカが言い添える。ずいぶん詳しいんだなと思ったところで、スヴィカがウルルの肩に腕をまわす。
「じゃ、いよいよ
スヴィカがウルルのフードをつまんで頭にかぶせる。
「ここからは、耳と尻尾を隠しておいたほうがいい。おまえが封じ子だってばれたら、厄介なことになるかもしれない。聖地は呪いをおそれるからな。それにおまえの依頼人も、どこに潜んでいるかわからない。相手の目的がわかるまでは、慎重に動いたほうがいい」
「わかった」
大変なところに来てしまったらしいと、ウルルはあらためて気を引き締めた。
町の中心部へ向かうと、聖都市が見えてきた。正確には、聖都市を覆う高い壁が見えた。
人の背丈の五倍ほどはある壁は石膏の色をしている。ぐるりと聖賛地を取り囲み、どこにも切れ目がない。だからなかの様子がいっさいわからない。
円の壁の中央に位置するのが、聖都市への入り口、聖門だ。壁と同じく真っ白な扉には、全面にレリーフが彫られている。円形と花々の形を組み合わせたような模様だ。
扉の左右には門番が立っている。門番は長い棒の先端に虫眼鏡がくっついた、巨大なルーペとも言うべきものをたずさえていた。
すこし離れた場所から様子をうかがう。
門のまえには、黒衣の人たちが数名、列を成していた。巡礼の聖者たちだ。聖者たちは順番にルーペをかざされ、確認できた者から、扉のまえに横一列に整列させられている。
「あの眼鏡でヘイラグの分量が見通せるんだ。俺の偽眼鏡のヘイラグ版だな」
「じゃあ、あそこに並んでいる人たちはヘイラグの量を確認されてるの?」
「ああ。聖賛地に入るのにふさわしいやつかどうか、ヘイラグの量で試されてるんだ」
透視試験を受けていた一人が門番に止められた。聖なる力の量が足りず、おまえは入る資格なし、と通告を受けているらしい。するとその人は懐からなにかの紙切れを取り出し、門番に見せている。紙を確認すると門番は棒を振り、門前の待機列に加わるよう指示した。
「賄賂だ、賄賂」
ちっと舌打ちをして、スヴィカがそう吐き捨てる。
「修行不足でヘイラグがじゅうぶんじゃないやつは、代わりに献金をすれば加点してもらえるんだ。それで基準値に届けばなかに入れる」
「い、いいの?」
努力が足りないところをお金で解決しようだなんて、ずるい気がする。
「一応、聖賛地への献金自体、徳を積む行為だって建前で加点されるんだ。まあそんなの、都合のいい方便だけどな。……聖賛地は腐敗してるんだ。俺がいたころから腐ってた」
「え?」
あまりにさりげなく混ぜられた情報を、一瞬聞き逃しそうになった。。
「スヴィカ……。住んでたの……? 聖賛地に……?」
聖者に片足を突っ込んでいた。以前、スヴィカがそう言っていた。
口を滑らせたスヴィカは――。自分でもうかつだと思ったのだろう。苦い顔をしつつ、認めた。
「一時だけな。神学校で、神官の端くれの修行をしていた」
寄宿舎があるなど、学校事情に精通していたからくりを明かすと、スヴィカはさっさと話題をもとに戻す。
「増幅させた俺のヘイラグでも、基準値にはとうてい届かない。これでわかっただろ? 俺とおまえは、真正面からじゃぜったいになかに入れない。俺のヘイラグは基準未満だし、おまえにはそもそも、バルブンしかない。しかも超特大のバルブンだ。あの眼鏡でのぞかれたとたんに、聖賛地を脅かしに来たんじゃないかって警備隊がすっ飛んでくるぞ」
「う、うん……」
ウルルは緊張で唾を飲み下す。
「どうする? だれかにくっついてそっと入るとか」
うまいやり方はないかと頭のなかで模索しつつ、そういえば、とそもそもの旅のきっかけを思い出す。
「聖者は一人だけ、呪いを背負っている人をなかに連れていけるんだよね。どこかで聖者さまを待ち伏せして、連れていってもらえるようにお願いするとか……」
「ああ。推薦者を浄化してもらえる話か。あれは嘘だ。悪いな」
「あれも嘘……なの……⁉」
いまさら知らされた。もはやうまい話への期待感などなかったので、ウルルは憤然とするよりも、脱力する思いだった。
「うーん。あの壁をよじ登っていくのはさすがに無茶だしなあ……」
そびえたつ壁は表面がすべすべしてどこにも取っ掛かりがない。あまりにも高すぎてロープも渡せない。
「自力で突破する方法がある」
スヴィカの言葉に、あるの? とウルルは期待で目を輝かせた。
「あるさ。はじめからその手を使う気でいた。勝算がなきゃ、依頼なんざ引き受けられないからな」
スヴィカの抜かりのなさに安堵する一方、はじめから打つ手がわかっているのであれば、まわりくどい説明を抜きにさっさとその手を使えばよかったのに、と疑問にも思う。
「ただし、実行するにはおまえの協力が必要だ」
「俺の?」
作戦を耳打ちされた。そんな子どもだましのような手が通用するのかと、ウルルは若干青ざめた。
わざわざ聖門のまえまで来たのには、ちゃんと理由があったのだ。
聖門が開く。
扉のまえに一列に並ばされた聖者たちは、黒衣の裾をゆらめかせながら、静かになかへと行進していった。
黒い影を飲み込むと扉はすぐに閉められる。
ウルルとスヴィカは、門番のまえに歩み出た。
(どうしようー)
前頭部から後頭部まで房飾りが生えて、鼻筋まで覆う立派な兜を着用した門番が、二人を睥睨する。不審者を威嚇するその目にウルルは、ズボンにしまってある尻尾をびくつかせた。
スヴィカは黒衣を荷袋にしまい、布で頭を覆って顔を見えなくしている。とりあえずウルルは、だまってスヴィカの隣に立っていればいいと言われている。スヴィカは背中を丸めて、よろよろとした足取りで門番のまえに進み出た。
「ああ……。ついに聖賛地に来たんじゃなあー……」
はあ⁉ ウルルはスヴィカの声にびっくりした。しゃがれた声で、まるで老人みたいだったのだ。
「ああー、ありがたやヘイラ。ありがたや、大司祭さま」
スヴィカはひざまづき、弱々しい手つきで扉をなでさすっている。本当に老人かのような演技が巧みだ。、門番にもかなり年老いた人物に見えていることだろう。突如、扉にすがりはじめた老人をどう扱ったらいいか戸惑っているようで、お互いに顔を見合わせている。
「ご老人。入り地をするなら、透視を受けていただかないと」
わずかに恐縮しながら門番の一人が声をかける。老人に扮したスヴィカは、首をふりふり応じた。
「いえ……。儂はもう長いこと呪われていますじゃ。そのありがたい眼鏡で透かして見たところで、ヘイラグなど見えようはずもない」
言葉の合間に、えっふぇ、えっふぇ、と乾いた咳まで織り交ぜて、いかにも弱った老翁を演出している。
「どんな解呪師でも解けんかったこの呪いをどうにかせんと、祈念大祭に合わせて、半年かけてここまでやって来たんじゃあ」
スヴィカ翁は体を震わせ訴える。
「お願いじゃ。その資格がないのは重々承知です。じゃがこのおいぼれに情けをかけてどうか、なかに入れてはくださらんか? どうか儂に、祈念大祭の恩寵を受けさせてはくださらんか――」
スヴィカは地面に突っ伏して、おいおいと泣き伏せた。
「この娘を見てください」
唐突に、ウルルのほうを指さす。
「儂の孫娘です。かわいそうに、物心ついたときからこのおいぼれの世話に追われ、呪いのために人から避けられ、まだ恋も知らん哀れな娘です。この苦しみから孫を解放してやりたい。儂のためだけでなくどうか、あの子を助けると思って、なにとぞ」
スヴィカは門番の足にひしっとしがみついた。その勢いに門番は思わずのけぞり、脚を振り払うようにしていあとずさっている。
孫……娘……。女ってことにされているのか。声を聞かせるのはまずい。ぜったいにだまっていよう。ウルルはきゅっと唇を引き結んだ。
フードをかぶっているので、門番にはかろうじてウルルの顔の下半分と、鎖骨あたりまで垂れる銀の髪が見えたくらいだろう。容貌のほとんどが隠されていれば、男くささとは無縁のウルルだ。老人の孫娘であることを、門番は疑ってかかる様子もない。
「ご、ご老人。残念ですが、これは決まりなので。大きな町に行き、優秀な解呪師を探しなさい」
しどろもどろになりながら、門番は泣き伏せるスヴィカを説得にかかる。
これ以上、長居をするとまずいかも。
そう判断して、ウルルはスヴィカに駆け寄り、肩を貸しながら立たせ、離れたところへと連行した。老翁は扉のまえで泣き伏せて、いかにも衰えた様子だったのに。女にしては長身の孫娘。その孫娘と、ほとんど背丈が変わらない老翁。この違和感を見抜かれやしないかとドキドキした。
聖門が見えないところまで逃げてくると、スヴィカはウルルの肩から腕をはずし、かぶっていた布頭巾を下ろした。
「だめだったね」
「いや、うまくいった」
通してもらえなかったのに? その疑問には答えてくれず、スヴィカは、「次に行こう」とウルルをうながした。
スヴィカに連れられ、準聖都市にある石屋に立ち寄った。天然石を扱う専門店らしい。スヴィカは、店の奥にしまわれていた高価な石を持ってこさせると、いくつか見繕って会計をしてもらっていた。ウルルの目玉が、ぎょっと飛び出る金額になった。
「ちっ。報酬に、俺の貯金を切り崩したぶんも上乗せだな」
スヴィカは会計直後にぼやいていた。
準聖都市には聖都市を訪問する人のための、宿泊施設がある。さっそく部屋を取ると、スヴィカは買ってきた石を机に並べた。丸い、小石くらいの大きさだ。全部で七つ。赤、青、黄、水色、緑、橙、紫がある。
「聖門は常に施錠されてる。試しを受けて、合格した人が入り地するときだけ開く。門番の持ってた巨大な透視眼鏡が、鍵でもあるんだ」
「ほんと? 門には鍵穴なんてなかった気がするけど」
表面にレリーフは彫られていたが、穴などはあいていない、ただの石の扉だった。
「物理的な鍵穴はないんだ。門番が持つ眼鏡棒の先端にこれと同じ色石がはまってた。その配置が、鍵」
スヴィカは縦に石を並びかえる。
「石の配置を扉に覚えさせておくんだ。石に門番のヘイラグを流し込むことで鍵の役割を果たして、扉が開く」
段々、ウルルにも話が見えてきた。
「そっか。じゃあ同じ石で、偽物の鍵を作ればいいんだ」
スヴィカがにやりと笑う。
「そうだ。ヘイラグ自体には、呪いを浄化する力しかない。でもこうやって道具を媒介にして聖なる力を注いでやると、いろんなことができるようになる。ヘイラグの分量を量る眼鏡も同じ仕組みだ。そういう道具は総じて、
「なるほどー。あれ……。じゃあさっきの演技はなんだったの?」
門番の同情を引いて、扉を開けさせる作戦だとばかり思っていた。
「あれは石の配置を盗み見るため。近づかないと見えなかったからさ」
地面にうずくまった際に、色石がどういう順番で杖の先端に並んでいるかをたしかめたのだ。はじめから、哀れな老人と孫の演技で突破するつもりではなかったらしい。
「じゃあスヴィカは最初から、鍵を偽造するために……」
「そうだ。フレイに聖門の突破方法がないか相談されているうちに、俺が適任そうだからって依頼を引き受けることになったんだよ。あいつも俺がヘイラにいたことを知ってるから。ひょっとしたら俺なら、心当たりがあるんじゃないかと思ったんだろう」
スヴィカがヘイラ出身であることを知っていたフレイが相談するくらいだ。聖門の開け方は、普通の人では知りえないことなのだろう。
「そのために弱ったお年寄りのふりをするなんて。スヴィカ、ひどいよ。本当に呪いで苦しんで、ヘイラに救いを求めに来た人だっているかもしれないのに。その人たちに悪いと思わないの?」
また人をだました。ウルルのためとはいえ、弱者を利用するようなやり方にわずかに心が痛む。
「思わないね。俺はそういう人たちの嘆きを代弁したつもりだぜ? ひどいのはヘイラのほうだろう。祈念大祭に入れるのは、日ごろから神官の務めで徳を積みまくった聖者どもだけ。しかも、点数が足りなけりゃ賄賂で大目に見てもらえる。そうやって恩寵を受けた聖者はますます徳を高めて、戻ってきたときには神さま扱いだ。解けない呪いに苦しんでいる人たちは救われねえ。たまにはああやって、自分たちが見殺しにしている人たちのことも考えるように、目線を向けさせてやらないとな」
スヴィカは苦々しく吐き捨てる。救われない弱者に思いを馳せるその顔は――とても聖者のふりをして詐欺を働いていた人物には見えない。聖者や、ヘイラの矛盾への強い怒りを、ウルルは感じとった。
いつ、どうして。スヴィカはヘイラに住んでいたの?
訊きたくても、訊きづらい。スヴィカの過去のことに話がおよぶと、なんとなくいつも会話を逸らされているような気がする。ヘイラに住んでいたことはスヴィカにとって、あまり語りたくない過去なのかもしれない。
聞かれたくないことについて、自分からはなにも言うまい。ウルルは話題をもとに戻した。
「じゃあ、この石を同じ並びにして、スヴィカが力を注げば門が開けられるってことだね」
「いや、無理だ」
たったいま、鍵の仕組みを説明したばかりなのに。きっぱりとした否定に、ウルルはわけがわからなくなる。
「この石は、買えるなかじゃ最上級のものだ。それでも、門番の鍵についていた特上の色石とは比較にならないクズ石。だから、媒介としての力が劣る。それと、俺のヘイラグはあの門番たちよりもかなり弱い。儀具の質とヘイラグの出力の掛け合わせで、効果が決まるんだ。俺がやっても、門をこじ開けることはできない」
「じゃあ、どうするの?」
ウルルは眉間に皺を寄せる。
スヴィカは石をつまみ、さっさと位置を変えた。縦に並べた石を下から上に移し、真逆の配置に並べる。
「逆配置。反対の力をぶつけて、無理やり鍵をぶっこわす。ウルルが力を注ぐんだ」
聖なる力の逆は、呪いの力。
「儀具の動作の仕組みも、ヘイラグとバルブンと同じなんだ。ヘイラグとバルブンはお互いにその効果を打ち消し合う。その性質を利用して、媒介の配置を逆にしてバルブンを注げば、扉にかかったヘイラグは消える。儀具は強くないぶん、おまえのバルブンで効果を爆上げするしかない」
「……どうやればいいの……?」
もう一度呪いの力を、自分から解放する。わずかな緊張から、ウルルは唇を舐めた。一度解放した呪いの手綱を引いて自分のなかに戻すのだって、まだ全然慣れていないのに。解放した力を道具に注ぎ込むという、高度な技術を要求される。こなせる自信はない。
「……ウルルが呪いを受け継ぐとき」
スヴィカの問いかけにぎくり、とした。呪いを受け継ぐ儀式のことは、あまり思い出したくはない。けれどスヴィカはウルルを脅かしたくて、話題を切り出したわけではなかった。
「なにか媒介を使わなかったか? バルブンもヘイラグと同じだ。なにかを媒介にすることではじめて、呪い以外の効果を得られる。人から人へ呪いを受け渡すには、媒介がないとできないはずなんだ」
つらい思い出だ。でも、ヘイラに入るためには目を背けられない。ウルルはいやな記憶に手を突っ込み、探る。
夜、村の教会に子どもたちが集められる。呪いを受け継ぐはずだった世代の子たち、全員だ。なかではたくさんの蝋燭がゆれていた。強い橙の光で目がまぶしかった。
教会内に特別なものはなにもない。ウルルも含めてみんな、儀式用の真っ白な長衣を着ていたくらいか。なにか特別な道具を持たされたという記憶はない。
ウルルと、いままさに呪いを渡さんとする年老いた封じ子が歌を歌う。子どものころから何度となく聴いて、ブロトルフの人たちならば全員、体にしみ込んでいる歌だ。ずっと童謡だと思っていたそれが、儀式に用いられる特別な歌であると、儀式の数日まえになり知らされた。いつなんどき、封じ子が交代してもいいように。継承の準備が日々の生活に練り込まれていた事実を知ったあのときほど、戦慄したことはない。
あの歌――。あの歌がはじまったとたん、前代の封じ子の体から黒い物が飛び出て、そして――。ウルルのなかに入り込んだ。
ひょっとして、あれが。
「……歌を、歌うんだ。呪いを継承するための歌を」
神に捧げる聖なる歌の、裏音階を取った妙な調子の旋律。
「でも、儀具は道具なんだよね。歌じゃ媒介にならないか」
「いや、それで間違いない。媒介は必ずしも、物じゃなくていいんだ」
確信を得て、スヴィカはうなずく。
「おまえは一度、媒介を使ったことがある。まえは力を受け取る側だったけど、今回は力を放出する側。やることは違うが、似たような経験はある。だから、今回もうまくいく」
本当にやれるのか。ウルルは覚悟を決める気持ちで、縦一列に並んだ色石を見つめた。
「俺を信じろ。いまは詐欺師だが、神学校で学んだ知識は本物だ。俺がいたのは十年もまえのことじゃない。だから知識はまだ、廃れてない」
ウルルは隣に立つスヴィカを振り仰いだ。いまならば詳しい話が、聞けるかもしれない。
「準聖都市の神学校だなんて……。相当優秀な人じゃないと、入れないだろ?」
なにせ世界最高峰の聖者が集う、聖賛地のお膝もとなのだ。
「ああ。各地の神学校から推薦を受けた、選り抜きが集まる超絶優秀校だよ。ところが、各地で神童ともてはやされた優秀な神官見習いのなかに、行き場がないので仕方なく放り込まれた聖賛地の関係者が混ざっていた。聖賛地の司祭が、女を孕ませてできちまった子だ。それが俺」
はっとウルルは息を飲む。スヴィカは私生児だったのか。
「聖都市に毎日、食事を届ける仕事をしていた俺のおふくろに、親父はころりとまいっちまったらしい。気づけば腹がふくらんで大あわて。俺を産んだとたん、びびった母親はとんずらだ。俺の扱いに困った親父は、信用できるほかの司祭に相談して、神学校の寄宿舎に俺を放り込んだんだ。俺はそこで、教師をしていた聖者たちに育てられた」
聖者は姦淫が厳禁のはずだ。事実を隠しとおそうとする父親は、ひそかにスヴィカを育てつつ、ばれて神官の資格をはく奪されやしないかと冷や冷やしていたことだろう。スヴィカから手が離れてほっとしたのかもしれない。
「五歳になったら最年少の学年に編入した。まわりにいるのは生え抜きの聖者候補たち。そこに聖者の私生児が放り込まれた。そういう異端児は、普通は徹底的にいじめられるか、それともいないみたいに扱われるかだが……。俺の場合はどっちでもなかった。みんな、こんな俺にも優しく接してくれたよ。ま、なにせ世界最高峰の神官になるべくして集められたガキどもだからな。ガキのくせして、たいした人格者がそろってたよ」
皮肉気な口ぶりでも、声色に刺々しさは感じられない。純粋に、昔の友だちをなつかしんでいる様子が伝わってくる。
「神学校には十五歳までいたかな。自分からやめた。環境にうんざりして」
スヴィカはためらい、一瞬唇を引き結んだ。
「俺がいたころから、ヘイラは腐りはじめてた。司祭たちに賄賂が送られる。代わりにやつらは政治家のために便宜を図る。そういう汚い噂をいくらでも耳にした。俺の親父みたいに、戒律を破って女に手を出す司祭もいれば、こっそり酒を差し入れてもらっている司祭もいたし。でも――。一番許せなかったのは、神学校の教師が、俺の同級生に手ぇ出してたことだ」
手を出すと言うのは性的に、という意味だろう。聞いていて気持ちのいい話ではない。いやな思い出がぶり返したらしく、スヴィカは拳を握りしめる。
「それも一人、二人の話じゃない。かかわっていた教師は複数。気に入った生徒を手当たり次第だ。女を抱けない代わりに慰みものにしたのか、それともはなから年下の男が好みだったのか。まあ変態野郎どもの趣味なんざどうだっていい。普段は素行の正しい聖者のふりしたやつが、自分にぜったいに反抗しない相手にすりよって言いなりにさせてる。その事実に、とにかく反吐が出る」
スヴィカがふ、と息を吐く。それで体のこわばりがほんのすこしだけ、ゆるんだ。
「なんとなく、スヴィカは昔のことを話したくないんだって思ってた」
それも、出自を知れば納得なのだが。
「……いずれ話さなきゃと思ってた。単なる詐欺師が、どうしてこんなにヘイラグとバルブンの使い方に詳しいんだって不思議に思ってただろ? ちゃんと神学校で得た知識だってわかれば、おまえが安心するかと思ってさ。おまえに危ない橋を渡らせるんだ。俺も、できることは協力したい」
「そう……」
スヴィカの気遣いはありがたい。ありがたいけれど――。
ウルルはスヴィカのことが、わからなくなってしまった。
「俺が安心して呪いの力を解放できるように、昔のことを話してくれた。それはすごく嬉しいよ。ありがとう。――けどごめん。俺は、聖都市には行けない」
「……は……?」
スヴィカが戸惑うのはよくわかる。
ようやく目的地に入れる突破口が見えたところなのに。突然こんなことを言い出すなんてわけがわからないだろう。ひょっとしてウルルは怖気づいたのではないか。内面を推し量り、困惑した顔で自分を見下ろすスヴィカを、ウルルは真剣に見つめ返した。
「俺、スヴィカのことがわからなくなったんだ。はじめは、嘘ついて人のことをだますとんでもないやつだと思ってた。でもそれはスヴィカの本当の姿じゃなかった。本当のスヴィカは困っている人に手を差し伸べてくれる、優しい人だ。俺が寂しがってるのを知って、抱きしめてくれた。それにいまだって、俺のために話したくないことまで話して、俺を安心させようとしてくれた」
スヴィカは次の言葉を待っている。ウルルは大きな目をしばたたいた。
「スヴィカはどうして、詐欺師になったの?」
「……それは……」
思いがけないタイミングで質問が差し挟まれた。スヴィカは一瞬、言いあぐねる。
「だまされるほうも、悪いんだ」
ぽつり、と独り言のようなつぶやきが返ってくる。
「聖者の相手をしていたやつらは……善良だが、相手が聖者の皮を被った変態だと見抜けない間抜けだ。俺だけはぜったいに、だまされる側になんかまわるかよって思った。だから、詐欺師のやり口を徹底的に学んだ。……おまえとは逆だな。俺は自分が傷つくくらいなら、人を傷つけたほうがマシだと思ったんだ」
「どうして……」
ウルルは悲しくなった。
「いい人のふりをして、きみの友だちをだました聖者にきみは怒っていた。それなのにどうして、自分が同じことをするのは平気なの?」
悪臭を吸い込んだかのように、スヴィカが苦しそうな顔をした。
「あいつらと俺は同じ、じゃない」
「同じだよ」
ウルルは同情を挟まず、指摘した。
「だって相手が自分のことを信頼する気持ちを、利用してる」
ウルルはスヴィカの真正面から、認めづらい事実を突きつける。
「だからだよ、スヴィカ。本当は優しいはずのきみが、平気で人をだまして、傷つけてる。きみが軽蔑していた聖者たちと同じことをしている。俺、きみがわからないよ。きみの言葉が、いまは信用できない」
スヴィカからの反論はない。簡単に言い返せないのは、ウルルの言葉をそれだけ深く、重く受け止めている証拠だ。
ウルルはあえて、スヴィカに耳の痛い話をする。本当はスヴィカにもう、詐欺師をやめてほしいからだ。導くべき少年たちをだます聖者に幻滅していた過去を知ったのなら、なおさらだった。
ブルーガにおそわれたあとで、スヴィカはウルルを激しく糾弾した。どうしてそんなに厳しい態度なんだろう。あのときはよくわからなくて、ひたすら怖くて悲しかった。けれど、そのおかげでウルルは、本当は怒りたかった自分の気持ちを認めることができたのだ。それで胸のつかえが取れた気がする。
痛いところをあえてじくじくと指でほじくり返すような真似をしたスヴィカには、むかつきつつも感謝のような気持ちを抱いている。言葉にすることではじめてウルルは、隠してきたおのれの気持ちに気づいたからだ。
今度はウルルの番だ。言いづらいことでも、あえて口にする。スヴィカが目を背けたいことに、無理やり目を向けさせる。今度はスヴィカが、自分のなかの葛藤と向き合うときだ。
「ねえ、スヴィカ。きみはもう、だれかのことをだます必要なんてないんだ。そんなことしなくてもきみは、だれにも利用されたりなんかしない」
「黙れ」
「黙らない。だってこのままじゃ、きみは、きみの憎んだ聖者と同じになってしまう。きみは、本当にそれでいいの?」
「俺は……違う……。俺は……」
スヴィカはぎゅっと顔をゆがめて、泣き出しそうな表情になった。
「同じだよ、スヴィカ」
ウルルは容赦なく、スヴィカの退路を断つ。追い詰められた黒い双眸が、光を失った。
きっとスヴィカの意識はいま、心の内側に深く深く落ちていっている。そこで、おのれの、本当の気持ちを見つめなおすために。そう信じてウルルは、辛抱強くスヴィカの言葉を待った。
「……あいつらが、言ったんだ」
ぽつり、と通り雨を予兆する雨だれのような言葉が降ってくる。
「神官さまは、寂しかったんだって。だから、自分がなぐさめになれたのなら、それでいいんだって」
旧友たちから聞いたであろう言葉を、スヴィカは自らの口で反芻する。
「俺たちはガキにすこし毛が生えた程度の――ただのガキだった。そんなガキどもが、いい大人に利用された。それなのに――。自分の意に反して犯されたやつらが、さもいいことをしたみたいに聖者をかばうんだ。俺は――それが……許せ……なくて……」
ウルルは、はっと気がついた。
スヴィカは怒っている。自分にぜったいの信頼を寄せる生徒たちをかどわかした、聖者に対して。でも、スヴィカはそれ以上に怒っている。傷つけられたはずなのに、それを美談にすり変える、旧友たちに対して。
スヴィカがあれほど厳しくウルルを問い詰めた理由が、いまわかった。
あのときは依頼が失敗に終わりそうな気配を察知して、それで腹が立っていたせいだと思っていた。それもすこしはあっただろう。けれど、スヴィカにとってウルルは詐欺の標的に過ぎなかった。はっきり言って、どうでもいい存在だったはずだ。それなのに、信条のことで口論になったスヴィカからは、ウルルを徹底的に追い詰めようとする執念を感じた。スヴィカはウルルに、激しい怒りを燃やしていた。ウルルのことを憎んでいた。
「だからきみは、あんなに俺に怒ってたんだね」
本当は傷ついているのに、怒りたいのに。すべてを飲み込んで弱々しく笑っているウルルのことが、憎らしかったのだ。
「自分を犠牲にしてでも、人の役に立てるなら本望だって強がっている俺が、昔の仲間と重なって見えたんだろう」
「……だって、馬鹿みたいだろう。傷つけられたほうが、どうして笑っていなくちゃいけない? どうしてだれも、本当はいやだったって、声を上げないんだ……!」
苦しそうに言葉を吐き出し、スヴィカは手で、目もとを覆った。
「俺は、あいつらを憎んでいた。傷つけられても平気なふりして、それがいかにもうつくしいことのように思い込んでいるやつらを、許さないと思った。いいさ。そんなにだまされたいのなら、俺が欺いてやる。そう思って、俺は……」
友情は憎悪に変わり、スヴィカはそのぶつけさきを、人をだますことに見出した。
「神さまが憎いよ。俺は、神さまが嫌い」
なんの脈絡もなく、ウルルは神への憎悪を口にした。手の覆いをはずし、続きを問いかけるような目で見つめるスヴィカに、ウルルは笑いかける。
「神さまはいつも、危険な旅路から俺を守ってくれている。それなのに、千年まえの怒りは忘れてくれない。神さまって、優しいのか、残酷なのか、よくわからない。俺は、優しいふりして俺たちを傷つけ続ける神さまのことが、本当は嫌いだったんだ」
慈悲と無慈悲の極端な二面性を持ったウルティマフ神。一部におそろしい顔も持つからこその神なのだと、無理やり自分を納得させて、受け入れてきた。
「言葉にしてはじめて、気づくことがあるってわかったんだ。俺はずっと、自分のなかの怒りが見えなかった。スヴィカと言い争いしなかったら、たぶん、いまも」
自分の悲惨な運命に、本当は怒っている。認めることで、胸のわだかまりが軽くなっていく。納得できない気持ちに無理やり蓋をし続けることで発生した、もやもやとした苦しみの雲が晴れていく。
「俺は……。俺の忠告を聞き入れないあいつらのことが、信じられなかった。不当な扱いを受けたと報告する代わりに、聖者を守ろうとするあいつらに怒っていた。失望していたんだ」
「スヴィカ……」
ウルルはスヴィカの手に触れた。
この人はやっぱり、優しい人だ。優しいから、弱者のために怒る。その怒りの矛先をべつの者に向けてしまうほどに。そして、信頼のおける人だ。ウルルの厳しい言葉を受け止めて、ちゃんと考えて、答えを出してくれた。
「スヴィカもずっと、つらかったんだね」
ウルルはスヴィカを抱きしめた。されるがままで棒立ちになっていたスヴィカは、おずおずと手を伸ばし、ウルルの背中を抱きしめる。
「ひどいこと言ってごめん。でも俺は、もうスヴィカには詐欺を働いてほしくないんだ。だって、弱い人のために怒ってくれるきみに、弱い立場の人をだれも虐げてほしくない。きみが嘘をつき続けたら、きみの嘘で傷つく人は確実にいる。ウナの町できみをぶった女の人みたいに」
ウルルの説得を、どう受け止めたかはわからない。その結末は、スヴィカ自身にゆだねたい。いまはまだ答えはなくとも、この人とならば一緒に聖都市に行ける。
「スヴィカ・レーブル。どうか俺を助けて」
もう詐欺師のスヴィカと、呼ぶのはやめた。
「俺、やるよ。聖門を壊してヘイラに行く。だから俺に、儀具の使い方を教えて」
必ず聖都市に入る。ウルルはぎゅっと拳に力を込めた。
「必ず連れていく。この依頼に決着をつけるためにも」
ウルルの決意に、スヴィカは力強い抱擁で応えた。
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