第三章 第一話

 ブルーガが追いかけてこられないよう、ヘイラ道に入ってから仮眠を取り、陽が昇ったところで再度出発する。

 気持ちのいい朝日を浴びながら、広大な自然のなかを行く。溶岩石が溶けて固まった、黒い岩石があたり一面を覆う。平坦な道が、どこにも終わりのないこの世の果ての空間のように続いていた。

「そうだ」

 ウルルはフードをはずした。

「耳と尻尾は出しておこう。またブルーガみたいなのにおそわれないように」

 ブローフ族であることをだれかに知られたとしても、もう気にしない。むしろ、呪いの封じ子であることを利用してやるのだ。ウルルはズボンの尻側に開いているボタンをはずし、なかから丸い尻尾を取り出した。

「やっぱり、尻尾が出てるほうが楽だー」

 ズボンに押し込めていると窮屈だ。解放されたしっぽが、嬉しそうにぶるると震えた。

「ふうん」

 なぜだかスヴィカは、嬉しそうにすこしだけ笑った。

「なに?」

「そのほうが、いい」

 あごをしゃくり、ウルルの耳を指し示す。

「耳? 耳が見えたほうが、いいってこと?」

 スヴィカは照れたのか、ぷいっとそっぽを向いて歩きだす。

(これは……ほめて……くれたってことでいいのかな……)

 遅れをとらぬよう、ウルルもすぐにスヴィカに並ぶ。

 ウルルが油断したところで、

「おらっ!」

 突然むぎゅっと、尻尾をつかまれた。

「ぎゃー! な、なにする……っ」

 ウルルは目を白黒させた。

「あのな! この尻尾は飾りじゃないんだ。握られたら痛いよ」

「おお、そうか。悪い悪い。つい、右手がうずいてな」

 悪い、と言いつつスヴィカに、悪びれている様子はない。

「へへへ……。ひよこ握りつぶしたみてえ」

 尻尾を握った右手を顔のまえでにぎにぎして、感触ににやついてさえいた。

「か、かわいそうな妄想するなよな」

 いきなり尻尾をつかむなんて不躾だし、ひよこを握りつぶした妄想をするなんて変なやつだと思いつつ……。スヴィカが聖者だったときと変わらず、自分に触れてくれるのがなんだか意外だった。

 進むにつれて、平坦だった道は徐々に、ごつごつとした溶岩石が積み重なる険しいものに変わる。ときにウルルの腰の高さまで段差のある岩を登ったり降りたりの繰り返しだ。岩はところどころが苔蒸しており、ちゃんと靴の裏で岩の表面を踏みしめておかないと、滑って転びそうになる。半日も歩きどおしだと、全身に汗が湧いた。

「ウルル」

 スヴィカはウルルに手を差し伸べる。山道は歩き慣れているウルルでさえも、きつい道のりだ。スヴィカは徒歩で全土をめぐる旅などしていないだろうから、この道のりはウルル以上にきついだろう。それでも、危ないところではウルルが転ばないように気を配る。

「あ、ありがと」

 ウルルはスヴィカの手を取り、段差のある岩場を進む。

 スヴィカは、口は悪いうえに人をだますことをなんとも思わない卑劣漢だ。でも、こういう人への気配りは、当然のような顔でする。きっと根っからの悪人ではないのだろう。

「……スヴィカは、どうして詐欺師なんてやってるの?」

「それが一番、手っ取り早く稼げるからだ。ほかの仕事よりも向いてる」

 お金のためなんて即物的すぎると思いつつ、適性があるというのはそのとおりかもしれない。聖者であることを、いとも簡単にウルルに信じ込ませた。

 しばらく進むとスヴィカはふうふう息を切らせながら立ち止まり、水筒に水を汲んでひと息に飲み干した。

 飲み水の心配はない。新鮮な湧き水がそこここで湧いているからだ。巡礼者向けに、水道が整備されているのだ。冷えた地下水が喉を潤し、火照った全身を冷やしてくれる。

 スヴィカに合わせて、ウルルも水を飲んだ。立ち止まるといつもより早い心臓の拍動が感じられる。

「この服、あちいな」

 スヴィカは詰襟の黒衣を胸まで開き、袖は捲り上げ、ベルトで裾を膝までたくし上げる。派手に着崩すともう、聖者の召し物には見えなかった。

「ほんと、その服にだまされちゃったなあ」

 スヴィカは不敵な笑みを浮かべる。

「人をだますには、まず見た目から徹底的に演出するのが要だからな」

「それが詐欺師の技?」

「技のひとつ。基本だな」

「へえ。詐欺師の技って、ほかになにがあるの?」

 いとも簡単に人の心理を操る手腕に、ウルルは興味を惹かれた。

「なんだ。詐欺の真似事でもするつもりか?」

「違うよ。もう二度と、きみみたいなのにだまされないように」

 軽い嫌味を撃ち込まれて、スヴィカはぐぬ、と顔を引きつらせる。あごに手をやり、ちょっと考えたあとで言った。

「そうだな……。いろんな手口があるから、ひと言でまとめるのは難しい。けど、どれも目指すところは同じだ。ありそうもないうまい話を、いかに人に信じ込ませるか。苦労しないで大金が手に入るとか、徳の高い聖者に祈念大祭に連れていってもらえるとかさ。どういう仕組みで? とか、どういう理由で? って、普通なら疑問に思うところで、相手を思考停止させる。うまみをぶら下げて、『この話に乗らないと大損だ!』って気分を煽ったり、逆に脅かすようなことを言って、『この話に乗らないと破滅だ!』って焦燥を煽ったり。説得力を持たせるために、相手が知らないような情報をテーブルに並べたりさ」

「なるほど」

 ウルルは至極納得だった。聖者らしい身なりに話し方。それから、ノールリオス教に関する豊富な知識。はじめて出会ったスヴィカのことを、聖者だと信じて疑わなかった。

「じゃあ聖者になりきれるように、スヴィカも準備したんだね。聖賛地のこととか、ノールリオスの教義についてとか、やけに詳しかった」

 宗導部の現体制や、大司祭が十二年間の奉行に入っているなど、ウルルが聞いたこともない話ばかりだった。

「いまの聖賛地がどうなってるかは、小耳に挟むことが多かったんでな。そのほかは準備らしいことは特に。聖衣と偽の片眼鏡を用意したことくらいか」

「あの眼鏡、偽物だったの?」

「ああ。でも、本当に呪いの総量が見える眼鏡はあるんだぜ。希少過ぎて俺にはとても手が出せない。だから千クルーナしない安もんにしといた」

「そう……」

 スヴィカがムクナの解呪まえに片眼鏡をはずして以来、再びかけているところを見たことがない。スヴィカは、ウルルが標的だと知っていて近づいた。なぜウルルの呪いの総量が見えるのか。その理由を、初対面のウルルに信じさせるのにさえ使えば、あとは用済みだったのだろう。幾重にもだまされていたのだな、と痛感するウルルだった。

「そういえば。俺のこと、いつから尾行してたの?」

「フレイの情報網。おまえがアラネスにいるってんで、急いで向かったんだ。移動されるまえにつかまえられて、よかったぜ」

 神の使いがあらわれたかのような、出会いさえも演出されていた。

 嘘に嘘を重ねていたスヴィカ。だけど――。嘘ばかりでないこともある。

「聖者っていうのは、嘘なんだよね。でも、だったらどうして、スヴィカは聖者と同じだけのヘイラグを持っているの?」

「そんな話したか?」

 いくらなんでも、とぼけるのが下手すぎる。その程度のかわし方では、もはやウルルはごまかされない。

「……とぼけないで。ブルーガの人もそう言っていただろう。それに……。ヘイラグで俺の力が暴走するのを、止めてくれた」

 実際に力を行使するところを見られていた。言い逃れはできないとはじめからわかっていたのだろう。スヴィカは頭を掻くと、歯切れ悪そうに白状した。

「俺は、聖者に片足を突っ込んでたことがあるから。おまえをだますのにも、そのときの知識でなんとかなった」

「そう……なの……?」

 ウルルは目を丸くする。

「スヴィカ、本当に神官だったの?」

 詐欺師はもと神官。この転身は意外を通り越して、どういう心境の変化なのかまるで理解できない。

「片足って言っただろ? 見習いにも届かないくらいでやめてる。ヘイラグを増幅させる呼吸法もそのときに習った。神官がヘイラグを溜めるのに使う、特殊な呼吸法だ。聖者だと信じさせるのにヘイラグを使う場面があるかもしれないと思って、事前に仕込んでおいたんだよ」

 スヴィカは目を細める。どこか、昔をなつかしむような顔をしたあとで、

「日暮れまえに進めるところまで行くぞ」

 そうウルルをうながす。それでさりげなく、会話が打ち切られた。

 ずっと険しい道のりが続き、長話をしているとすぐに息が切れる。

 途中、岩石の狭間に平坦な草地のあるところに行きついた。時間もちょうどよく、そこで昼食を採ることにした。

「あー、腹減った」

 もはや聖者ぶる必要もない。スヴィカは胡椒付きの干し肉が何層にも重なったサンドイッチにかぶりつく。ブルーガにおそわれるまえ、数日分の食糧を買っておいたのだ。ウルルも、蒸した薄切り肉が挟まれた堅焼きパンを頬張った。

 口をふくらませるウルルを、スヴィカがじっと見つめる。

「なに? じろじろ見られていると食べづらいな」

「いや……。そういや獣人って、肉は普通に食うんだなと思って。共食いになっちまわないのか?」

 スヴィカはこれまで、獣人と接点がなかったらしい。たしかに、人間の数に比べると獣人は十分の一ほどで、居住範囲も限られている。一生のうち一度も、生身の獣人を見たことがないという人も一定数いる。それにしても無知ゆえの愚直な質問に、ウルルは吹き出しそうになる。

「俺たちは、厳密には獣とは違うよ。獣の能力を持っている人間って言ったほうが近いかな」

「でもさすがに、兎肉は食わないだろ?」

「……うん。それはさすがに。だって、俺たちの原始になった動物だし。なんか、かわいそうだし」

 獣人は原始となった動物の肉だけは避ける傾向にある。

 ちょうどそのとき、一羽の兎が目のまえを横切った。肉を食らいながら兎を眺めるのは気まずい。きみのことは食料視していないよ、と誓う気持ちで、ウルルは思わず目を逸らした。

 獣人が珍しいようで、スヴィカはいろいろと質問をしてくる。

 獣人は原始となった動物の耳や尻尾を持つ以外は、人間と体の作りが変わらないこと。意識を切り替えると、原始となった獣の能力を使えるようになること。ウルルの場合は、聴覚と嗅覚が特に優れていること。具体例を混ぜたウルルの説明を、スヴィカは興味深そうに聞いていた。

 昼食を終えて、再びヘイラに向けて出発する。ウルブスヨルズゥルは快晴の日のほうがすくない。今日も薄曇りだ。雲のベールが適度に日光をやわめてくれて、時おり吹く風は清涼で過ごしやすい。それでも夕方まで歩くと、全身が汗みずくだった。

 汗と脂で汚れた体のまま眠る心配は不要だ。ウルブスヨルズゥルは、火山活動が活発な海嶺の上にある。地下水が潤沢で、地面をすこし掘っただけでも、水がしみ出してくる場所がたくさんある。成分が豊富な水は地熱であたためられて、天然の温泉となる。

 ヘイラへの道程にも、巡礼者用に設備が整えられた温泉場がいくつもあった。だいたい、数人が一気に入れる温水の溜まり場に、板で簡単に覆いを作っただけの脱衣所が併設されている簡易的なものだ。汗をさっぱりと流して就寝し、翌朝はまた新鮮な気持ちで聖地を目指すことができるのはありがたかった。

 完全に陽が落ちきるまえ、ウルルは浴場のひとつに目をつけた。水に溶けた成分により、湯は乳青色をしている。浴場は岩を組んで作られている。浴場は外から、小さな洞窟内まで続いていた。

 汚れた服は、浴場に併設された洗濯専用のたらいを使い、温水につけておく。脂汚れを剥離する温泉成分のおかげで、軽く石鹸を溶かした湯につけておくだけで、きれいに洗い上がる。地熱が特に高温になる場所が点在しており、岩盤のうえに服をひと晩張りつけておけば、寝ている間に乾いてしまう。

 ヘイラへ行く人は少ない。ウルルとスヴィカのほかには、人っ子一人見かけない。

 脱衣所でベストを脱ぎ、チュニックを脱ぎかけたウルルを、スヴィカがじろじろと見つめる。服の奥まで見透かされているようで、なんだかいたたまれなくなる視線だ。

「なに」

 ウルルは軽くスヴィカをねめつける。

「いや……。人間と同じってことは……。ウルルは雄……? 男、でいいんだよな?」

「俺、男に見えない?」

 ウルルはきょとんとする。

「見える」

 スヴィカは即答する。そのあとで難しい顔をしながら付け足した。

「でも……。なんかおまえって、自分の容姿に無自覚だよな」

「どういうこと?」

「うまく言えねーけど。見た目が男っぽくないから、こう、一緒に風呂入るのに抵抗感があるというか……」

 ウルルはにんまりと人の悪い笑みを浮かべた。スヴィカは兎族の性別について、なにも知らないらしい。

「スヴィカ……。俺に常識がないなんて陰口をたたいておいて、きみだって獣人について基本的なことをなにも知らないじゃないか」

 盗み聞きしていた陰口の、意趣返しをしてやれるのは爽快だ。ウルルはさっさとズボンも脱いで、腰にタオルを巻いた。スヴィカにはわざと答えを教えず、洗い場で石鹸を使い、体を洗う。

 さっさと体を清め終えたウルルは温泉に浸かり、狭い洞窟内に侵入した。

 洞窟の天井は高い。水中に、ちょうどよく腰かけになる岩がある。座ってわざと声を出し、自分の声が洞窟内で反響するのが面白かった。

「スヴィカも早くおいでよ! 声が響いて、楽しいよー」

「ったく、おまえはほんとガキみたいだな」

 腰にタオルを巻いたスヴィカがやって来る。胸にアクセサリーを付けたままだ。ああ、あれが呪いの護珠なんだな、と思い当たる。小さい玉が連なり、真ん中に横に長いプレートみたいなものが挟まっている。スヴィカはウルルには目もくれず、すーっと泳いで洞窟の奥のほうに向かっていった。

「待ってよ、スヴィカ」

 ウルルも軽く泳いで、スヴィカを追いかける。

「つかまえた!」

 背中から抱きつくと、スヴィカはぐおおおっと変な声を上げて悶絶していた。

「どうしたの?」

「ふ、不用意に抱きつくんじゃねえよっ!」

 スヴィカは、ざばざばと水をさばいてウルルから距離を取る。湯気がもうもうと立ち上っていても、わずかに見える横顔が酒に酔ったかのように赤らんでいるのが丸わかりだ。

「スヴィカ、いきなり抱きついてごめんって。もうしないから、隣に来てよ」

「いや、俺はここでいい」

「悪かったよ。……俺から触られるの、いやだったんだろ? 護珠をしててもさすがに、呪いは気になるもんな。もう、しないから」

 自分のなかの呪いは、過度におそれる必要がない。少女の解呪を通じて、制御できる力であることを学び、苦手意識から解放されたような気持ちでいたのに。他人にとってはやはり怖いものなのだと、自覚してしゅんとした。

「そんなんじゃ、ない」

 スヴィカはそう否定する。また水をさばいて、ウルルの隣に戻ってきた。相変わらず、ウルルのほうを見ようとはしない。

 突然触られて怒っているのではない。そのぎこちない態度から、ただ裸のつきあいに猛烈に照れているだけだ。ウルルにもようやくわかった。

 あんなに遠慮のないスヴィカなのに。彼らしくない反応にウルルはびっくりした。これまで友だちと温泉くらい、一緒に入る機会はあっただろうに。ウルルにはこれまで経験のなかったことだ。だからつい、長年連れ添った友だちと大騒ぎをするような気分で、はしゃいでしまったところがある。

 スヴィカらしからぬ反応を、ウルルは好ましく感じた。呪いを気にしているのだとウルルをがっかりさせたくないばかりに、照れつつも隣に戻ってきてくれる優しさも。

 聖者の仮面をはずしたスヴィカと過ごすうちに、いつのまにか当初の嫌悪感が薄れていた。

 スヴィカが、いつも本音でウルルに接してくれるようになったからだ。それと、スヴィカは呪いの封じ子を腫れ物扱いしない。護珠に守られているとはいえ、体に触れることも厭わない。ウルルは、呪われるまえと同じように、だれかに接してもらえるのが心地よかった。

 入浴後は焚火を起こして、暖を取る。温泉でぬくもった体が火であぶられ、体の芯からいつまでもあたたかさが続いた。

 今夜は深く眠れそうだ。ウルルは星空を見上げる。

 ヘイラ周辺の天候は気まぐれだ。昼は空全面に雲がかかっていたのに、夕方からさーっと引いてしまった。雲のない空は夜まで維持されている。

 視界をさえぎるものがなにもない、岩石と草木の入り混じった平野を覆う、漆黒と小粒の宝石のドーム。視界全面に夜空が広がる様子は圧巻だった。

 人間はなんてちっぽけなんだろう。

 雄大な自然のなかに身を置くと、ウルルはいつもおのれの小ささを悟る。不思議な気分だ。でも、悲しくはない。あの小さな星々のひとつと同じように、ウルルもたしかに地上に存在して、生のきらめきを放っているはずだから。自分だって、自然の一部なのだ。

「さっきの性別クイズだけど」

 手のひらくらいの大きさをした酒瓶から、ちびちびと舐めるように酒を味わっていたスヴィカは、ウルルに目線を向けた。

「兎の獣人は男女のほかに、たまに女の雄型と男の雌型が生まれてくることがあるんだ。要するに、第二の性別があるようなものだよ。男で雌型だと子どもを産むことができるし、女で雄型だと子種を持つことができるんだ。ブローフ族も含めて、なぜか兎の獣人だけ、一時期ものすごく数が減ったんだって。それで種族を存続させるために、子どもが増えるように体が進化したんじゃないかって言われてる」

「なるほど。魚のなかにも、群れで雄がすくなくなると、雌が性転換するのがいるもんな。似たような原理か」

「たぶんね。第二の性別を持つ人は、見た目が中性的な人が多いみたいだよ。ちなみに正解は……俺は男で、雌型」

 スヴィカがぶーっと酒を噴き出した。

「うわ、なんだよ……! 汚いな」

 スヴィカはゲホゲホとむせている。

「スヴィカが俺のこと、男っぽくないって言うから教えてあげたのに」

「……じゃあ……。おまえは……その……」

 スヴィカは咳で喉を嗄らし、言葉が途切れがちになる。

「うん。体は男だけど、子どもを産めるよ。子宮に当たる器官があるから。お腹のこのあたりかな?」

 ウルルが下腹部をなでるのに、スヴィカはあわてて視線をそらした。

「まあでも。俺が子どもを持つことなんて一生ないんだけどね」

「さてはおまえ、相手に恵まれないんだろ?」

「ある意味正しいよ」

 スヴィカの軽口に、ウルルは苦笑する。

「封じ子は、家族を持っちゃいけない掟なんだ。生まれた家とも縁を切らないといけない」

 悪いことを口にした。そう気づいたらしいスヴィカの眉間に、悔恨のしわが刻まれる。意図せずウルルを傷つける冗談を口にしたスヴィカに、ウルルは安心させるように笑いかけた。

「気にしないで。家族を持てないことを俺はもう、なんとも思ってないからさ」

 家族を持てないのも、封じ子に課せられた決まりのひとつだ。封じ子は伴侶を持ってはいけない。ましてや子どもなど、ぜったいに作ってはいけないことになっている。理由は、自分にとって一番親しい人に、呪いが横滑りするのを防ぐためだと伝えられている。でも、それも憶測の域を出ない。なにせ千年もまえに作られた掟なのだ。掟だけが伝わり、なぜそうしなければならないのかの理由は、どこかに置き去りにされた。

 たとえ掟がなくてももうひとつ。ウルルが子どもを産めない理由がある。

「俺、発情期が一度も来てないんだ。兎族もほかの獣人と同じで、発情期が来ないと子作りのできる体にならない。俺は背は伸びたけど、体のなかは成長が止まっちゃったんだろうね」

 色恋沙汰についてもっとも多感な十代のうちに、ウルルは人と引き離された。以降、たいした刺激もなく、一人きりで生きていたせいだろう。成長期に、生殖機能が育たなかった。男としても雌としても、子を成す機能はないだろうとウルルは自己診断している。

「自分に子どもが産まれないのは、もうあきらめてるからいいんだ。でもね、もう二度と家族に抱きしめてもらえないことだけはやっぱりすこし、寂しいかも」

「生まれた場所にもう、帰れないからか。次の封じ子と交代するまで」

「うん」

 ウルルは目を伏せ、銀の髪を指に巻きつけて遊んだ。

「封じ子になったとたんに、だれも俺に触れなくなった。呪いがうつるのが怖いからね。ブローフの人は特に、呪いを怖がるんだ」

 呪いがもたらす悲惨な運命の連鎖を、子どものころから見せつけられてきたから。

「俺が村を出るときに、だれも俺を抱きしめて、さよならを言ってくれなかった」

 手すさびに髪をいじり、なんでもないようなふりをしていたのに。やっぱりだめだった。口にすると寂しい思いがこみ上げてくる。

「呪いが消えるなら……。村に帰りたい。母さんにもう一度、抱きしめてもらって、頭をなでてもらいたいなあ」

 いつも優しく笑っていた母だった。甘えて抱きつくと、やわらかくて、ふくふくとした胸とお腹のあたたかさが心地よかった。

 子どもの自分にとっては大きな存在だった母も、いまとなっては小さな人だったのだなとわかる。背丈は、いまのウルルの肩にも満たないくらいだろう。記憶のなかの姿ももう、薄ぼんやりとしてきているので確信はないが。

 我が子が封じ子に選ばれた嘆きでむせび泣く母の涙を見たくなくて、ろくに別れを告げず、逃げるように故郷を去った。最後に母の姿をしっかりと目に、焼き付けてくればよかった。

 涙で星明かりがにじむ。

 ああ、また泣いてしまう。星の輪郭がゆがんだ。

 星よどうか、その輪郭を変えないで。俺に涙を流させないで。ウルルは星の光に祈りを捧げた。

「ウルル」

 突然、スヴィカに手首を引かれた。スヴィカの膝の上に乗せられ、そのまますっぽりと、腕のなかに抱きこまれる。

「な、なに……⁉」

 唐突な行動に面食らって、ウルルの涙は瞬時に引っ込んでしまった。

 ウルルを腕に抱くスヴィカはなにかに気づくと、むっとした顔をして胸もとを探る。護珠をはずすと、近くの草むらに放り投げた。

「俺は護珠がないとおまえに触れない腑抜けじゃねえぞ」

「は、はあ……」

 スヴィカの行動に、発言の意味がよくわからない。

 スヴィカはウルルをぎゅっと抱きしめる。唇と唇が触れ合いそうなほど、顔が近くにある。気恥ずかしくなりウルルは、思わず顔をうつむかせた。

 でも体は正直だ。人のぬくもりを感じられるのが嬉しい。小さく丸い、兎の尻尾がばたばたと左右にゆれる。

「尻尾、めちゃくちゃ動いてるぞ」

「そ、そう。嬉しいと、無意識で動いちゃうみたい」

「嬉しいのか? 俺に抱き締められるのが?」

「ま、まあね。ほら、まともに抱きしめられるのは八年ぶりで、人のぬくもりってやつに飢えてるからさ」

 ウルルは必死に言いつくろう。言い訳のうまい、下手を考えている余裕は、いまはない。

「ふうーん」

 ウルルがそれらしく言い訳をするのを、スヴィカは軽く受け流す。

「聖者のスヴィカさまじゃなくても、嬉しいんだな」

 からかうのではなく、たしかめるように、スヴィカが言う。

 聖者のふりをしていたスヴィカに、何度か抱き寄せられたことはあった。それも嬉しかったけれど、ウルルはいまのほうがよほど嬉しい。

 スヴィカが聖者だったとき、ウルルを抱きしめるのは、単にスヴィカがいい人だからだと思っていた。だからその優しさは嬉しいけれど、ウルルだけを特別扱いしているのではないのだとわきまえなければならない、と嬉しい気持ちに歯止めをかけていた。いまとなっては、ウルルの機嫌をとって、なつかせようとしていた策略でしかないとわかっている。

 だからスヴィカはもう、ウルルを抱きしめる義務なんてないはずだ。でもいま、スヴィカはおのれの意志で、ウルルを抱きしめてくれている。呪いの身代わりになってくれる護珠をはずしてまで、ウルルを抱きしめるのはいやではないと態度で示してくれている。

 ウルルをなつかせる魂胆などなく、ただスヴィカがそうしたいから、ウルルを抱きしめてくれている。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。

 尻尾はあいかわらず、高速で左右にゆれる。

(これじゃあ……スヴィカに抱かれるのが嬉しいって、認めてるようなものじゃないか……!)

 急に恥ずかしくなったウルルは、あせって身をよじる。

「あの、もう離してくれない? 俺、平常心じゃなくなると、心の鍵がゆるんで、呪いが出てくるかもしれないし……」

 平常心じゃなくなるなんて伝えたらますます、スヴィカを増長させてしまうだけなのに。あわてふためくウルルはおのれの失言に気づかず、スヴィカにしっかりと抱きこまれてしまった。

「ブルーガにおそわれたときみたいに、不安な気持ちにならなけりゃ大丈夫だろ?」

 ウルルの心臓が跳ねる。けれど不安や恐怖におそわれるときのような、いやな弾み方ではない。呪いは静かに、ウルルのなかで眠っている。

「うん、大丈夫……だと思う」

(どうしちゃったんだろう……スヴィカは……)

 ウルルをだましていたときはあれほど饒舌だったのに。素顔のスヴィカは多くを語らない気がする。ウルルと温泉に入るのにあんなにどぎまぎしたり、突然抱きしめたり。行動が謎めいていて、ウルルは翻弄されてしまう。

「おまえの故郷のやつらは白状だ。これから過酷な運命を背負うおまえを送り出すとき、抱きしめてもくれないなんて。それでてめえらが助かったくせしてよ」

(あ……)

 突然抱きしめられた理由が、いまわかった。スヴィカは怒っているのだ。

 掟だからというだけで、これまで仲間だった人を急に遠ざけるウルルの一族に、スヴィカは怒っていた。きついくらいの抱擁で、ウルルはおのれの寂しさがなだめられたような気がした。

「じゃあさ、ヘイラに行くまでの間、スヴィカがたくさん抱きしめてくれる? このさき一生分」

「特別に、それもサービス内容に含みにしといてやる」

 ウルルは両腕をそっと、スヴィカの胴にまわして自ら体を寄せた。自分とは違う、大きくて硬い体がそこにある。

 心臓の音がどきどきとうるさい。これほど近くにいたらスヴィカにも、拍動が伝わってしまっているんじゃないかと思う。でも、知られてもいいとさえ思った。抱きあうことで自分の孤独をなぐさめてもらう。その感覚をいつまでも味わっていたい気持ちは、恥じらいを簡単に凌駕してしまう。

 金にがめついだけの詐欺師ならば、これほどのあたたかさを持ってウルルを抱きしめたりはしない。スヴィカのなかには、優しさの奔流がある。それはふとしたときに外に流れ出してきて、ウルルにそっと寄り添うのだ。

 スヴィカに抱き締められているうちにうとうとしてきたウルルは、半分閉じかけた目で天幕に入り、朝までぐっすりと眠った。

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