第二章 第二話
ウナの町には二日後の午後、たどり着いた。ノールリオス教の大聖堂を町の中心に擁し、そこから円周上に六本の大通りが伸びる。通りはそれぞれ、建物で埋めつくされていた。それでも猥雑な感じがしないのは、通りのいたるところに草花がふんだんに植えられているからだろう。建造物となじむように、庭園のような景観に気を配られている。
食事をしようと、スヴィカはウルルを誘って飲食店に入った。普段ウルルは、手でつまめる簡単な食事を持ち帰りにして、人目につかないところでこそこそ食べていることが多い。人とのかかわりをなるべく避けるためだ。飲食店にはほかの客がいるし、否応なく接客をされてしまう。
お店で座って食事をするなんて、いつぶりだろう。
ここにいてもいいのかと戸惑うような気持ちで、ウルルは落ち着きのなさを感じた。だがそれも、食事が運ばれてくるまでのことだ。目にも楽しい数々の料理に、ウルルはすぐに夢中になった。
「私は食べられませんが、せっかくなのでウルルはたくさん食べてくださいね」
スヴィカが大皿に盛られた肉や魚を小皿に取り分けて、ウルルに差し出してくれる。そして大皿に残った付け合わせの野菜のほうだけを、自分用の皿に取り分ける。
聖者に給仕のようなことをさせるなんて、と最初は気が引けた。でも、おいしいものを食べて目を輝かせるウルルを、スヴィカはほほえましく見つめる。人の喜びを、自分の喜びとすることができる人なのだ。そう気づき、途中からは遠慮なく、スヴィカの好意に甘えさせてもらった。
タラをすり身にして丸く形成した揚げ物は、細かく刻んだほうれんそうのクリームソースにつけて食べる。フマールという大海老が、姿そのまま皿に乗って登場したのを見て、目が飛び出そうになった。身が固くならないよう、ほんのりとだけ火入れがされている。大きさの割にはわずかな身を、黄みがかった桃色のソースにつけて食べる。酸味と甘みがちょうどよく混ざり合ったソースがぷりぷりとした歯ごたえを引き立てて、ウルルは身もだえた。
食事があたたかい。そうか、食事はあたたかいものだったなと思い出す。いつもは保存がきく、冷えた総菜ばかりを食べている。出来立てを食せる幸運が身に染みた。
「ウルル……?」
レモンを絞った雪解け水で喉を潤していたスヴィカが心配そうに呼びかける。ウルルの目に涙が盛り上がり、ぱた、と垂れてテーブルクロスに薄灰色の染みができた。
「すみません……。こうやってだれかとお話しながら、あたたかい食事をするのがひさしぶりで、俺……。嬉しくて……」
ぱた、ぱた、と涙が垂れる。ウルルはハンカチで目もとをぬぐった。
「よかった。嬉しくて泣いていたんですね。食事が口に合わなかったのかと、心配しましたよ」
スヴィカはウルルの手からハンカチをもらい受けると、ちょんちょんと優しく目頭から目じりをぬぐう。泣いているところを世話させてしまった。まるっきり自分は子どもみたいだなと情けなくなる。
「ウルル……。あなた、泣き虫でしょう?」
スヴィカが我が意を得たり、とばかりに言う。
「まだ出会って間もないのに。何回も泣き顔を見ました。涙もろいんですね」
涙は引いた。返してもらったハンカチは水気を吸ってしっとりと湿っている。
「……子どものころから、泣き虫でした。すぐに泣くのはよくないと思っていても、勝手に涙が出ちゃうんです。大人になってこんなの、おかしいなって自分でも思うんですけど」
ウルルは照れたように笑い、ハンカチをポケットにしまった。
「俺は兎族のなかでも、大柄なほうなんです」
「言われてみれば。兎族は小柄な方が多いですもんね」
成人しても、人間でいう十代なかばのような体つきの者がほとんどだ。
「故郷を出たときは小さかったんです。自分でもこんなに背が伸びるとは思ってなかった。いま、両親に会ったらおかしがられるだろうなあ。見た目はすっかり大人なのに、中身は子どものままだって」
両親にももう八年間、会っていない。
泣き虫兎のままのウルルだけれど、封じ子に立候補したときと旅立つときだけは泣かなかった。自分の行くさきについて、だれにも心配させないように。
食事を終えて店を出る。今夜の宿を探すのだ。町の役所やメーフェの事務所など、主要な庁舎が集中しているあたりに足を運ぶ。
途中、身なりの整った女の人と行き合った。
ウルルたちとすれ違ったあとで、女性はヒールのついた靴でがつがつと石畳をうがちながら、ものすごい速さで後ろから戻ってきた。真正面から一瞬、スヴィカの顔をまじまじと見つめると――。
平手打ちでスヴィカの頬を張った。
(ひぃいっ……!)
突然の暴挙だ。ウルルのなかで臆病な兎の心が震える。
「エドワルド! あんたまだこんなことやってんの⁉」
険のある声で、女性はスヴィカに向かって吠えた。
「い、一体なんのことです……? 人違いでは……?」
エドワルドと名前を呼ばれたスヴィカは張られた頬に軽く手を添え、困り果てながら応じた。
「とぼけんじゃないわよ! 髪の色に目の色も変わってるけど、あたしにわからないわけないでしょう? あんたはエドワルドよ!」
エドワルドという人物への恨みが相当根深いと見える。女性は栗色の巻き髪の渦を崩さんばかりの勢いで、スヴィカに食って掛かる。
「いえ、違います。私はノールリオス教の神官です。こちらの方とともに、聖賛地への巡礼旅の途中なのです」
女性をなだめるように必死に、スヴィカはそう説明した。
「エドワルド……じゃない?」
まだ疑いは晴れていない。真贋をたしかめる宝石鑑定人のような目つきで、女性はスヴィカを訝し気に見つめる。
「ち、違います。この人はスヴィカさまです……! 千年都市からいらっしゃった聖者さまなんです……!」
「あなた、男だったの……!」
スヴィカの擁護をするウルルの声を聞き、男だと気づいたらしい。巻き髪の女性は吃驚した。
「やだ、ごめんなさい……。私の勘違いだわ……。本当に大変申し訳ないことをしました」
深く謝罪をする女性に、片頬を腫らしたスヴィカは鷹揚に応じた。
「いえいえ。あなたのお知り合いと私。よほど似ていたのでしょうね。……その方にお怒りなのでしょう?」
女性はこくんとうなずいた。
「……婚約者だったんです。結婚の話が具体的に進みそうになったところで逃げられた。結婚がいやになって逃げられたというよりは、最初からお金目当てだったとわかりました。破談になってから、だまされていたくやしさで夜も眠れなくて……。さっきそこであなたとすれ違って、また結婚詐欺を働いているのかと思ったら、とっさに頭に血が昇ってしまって……。本当にごめんなさい」
「それは……なんと申し上げたらよいのか」
どうやら女性は、ウルルが自分と同じく、エドワルドなる人物に結婚詐欺にかけられそうになっている人だと勘違いしていたらしい。
「どうか顔を上げて。だまされ傷ついたあなたにきっと、ウルティマフ神の祝福がありますように」
スヴィカは顔のまえで、簡易的な祈りの印を切る。
「ありがとうございます、聖者さま。失礼なことをした私を許すばかりか、私のために祈ってくださるなんて……」
立ち去る女性の委縮しきった背中に向かい、どうかいいことがありますようにとウルルも祈らずにはいられなかった。
半日休み、翌朝はまた次の町に向けて出発する。
今度の町はニールトンだ。途中にある簡易宿泊施設を経由しながら、五日ほどかけて到着した。
ニールトンはあたたかな橙色の屋根をした建物に、石畳の道が張りめぐらされた大都市だ。建物に塔を備える建築様式が多く用いられており、塔が立ち並ぶ景観から別名、「尖塔都市」とも呼ばれている。
ニールトンは、世界五大商街のひとつに数えられている。商街は、商売と交易の中心地だ。ウルブルヨルズゥルにはあと四つ、主要な大都市がある。その大都市は、間に点在するいくつもの町を、物資を供給する交易路でつなぐための重要拠点となる。
交易の中心地は、人の行き交いがそれだけ多い。等級が一番低い宿の、一人部屋はすべて埋まっている。やむなくひとつの部屋に、ふたつの寝台が並ぶ部屋を取った。ここ以外の宿は等級が上がるため、最安値の部屋でも百五十クルーナは跳ね上がる。仕方のない選択だった。
(スヴィカさまと、同じ部屋……)
同室になるのははじめてだ。スヴィカの私的な姿を目の当たりにすることになるのだろう。ウルルは嬉しさと緊張がないまぜになる。
荷解きをして落ち着いたところで、ウルルは窓枠に腰かけ、外に目を向けた。
削った鉛筆のさきのように細い、並び立つ尖塔が見える。町には大きな運河が流れている。運河には大きな太鼓橋がかけられ、左右に隔てられた町をつなぐ。ウルルから見て左側の中心には、どの建物よりも大きなノールリオス教の教会が。右側のはずれには、大きな時計台があるのが見える。
荷解きを終えたスヴィカが隣に立っていた。
「ウルルは、商街ははじめてですか?」
「はい。すごく人が多いと聞いていたので」
なるべく人との接触を避けたかったので、これまで訪れるのは中小規模の町に限定していた。
「では、せっかくなので観光にでも参りましょうか」
「えっ」
スヴィカの提案に色めき立つ。
「い、いいんですか?」
「もちろん。私もニールトンははじめてなんです」
窓枠の奥の、絵画みたいな町を自分の足で歩きまわれるなんて――。
(すこしなら、いいよね。スヴィカさまも一緒だし)
これまでは呪いをおそれて、内に引きこもることしかできなかった。スヴィカが隣にいてくれるというだけで、これほど心強くなる。勇気が出る。
外に出るため、ウルルはフードを深くかぶった。
ニールトンは、ウルルがこれまで見たこともないほどの大都市だった。かなり大きな町だと思ったウナの町でさえ、比較にもならない。背の高い建物が空のすき間を埋めつくすように、上方からウルルを取り囲む。建物の合間に、網目のような細い路地のステッチがいくつも走る。そういう区画が、数えきれないくらい続いている。
「俺、一度にこんなにたくさんの人が歩いているのを見るのははじめてです」
密集した人が川のうねりとなり、通りを流れていくようだった。物珍しさから、ウルルは歩きながら絶えず左右をきょろきょろと見渡す。
「こんなに大きな町だと、迷子になってしまいそう」
複雑な網目を行き交う人々。紛れてしまったら、スヴィカを探すのは困難に思えてやや不安になる。
「大丈夫。迷子になんてならないように、私がしっかりと、あなたをつかまえておきますから」
スヴィカはそっとウルルの腰に手をまわして抱き寄せる。
触れられるのは嬉しいけれど、戸惑う気持ちもある。ウルルは困ったように薄くほほえむしかなかった。
(スヴィカさま……。優しいんだけど、スキンシップが過剰で時々、どう反応したらいいか困るんだよなあ……。こういうこと慣れてるのかな? いやもちろん、やましい気持ちなんてないからこそ、できるんだろうけど)
こうして直接触れ合うことで、信者たちの不安をなだめてあげるのがスヴィカのやり方なのだろうと思う。わかってはいても、まるで姫君をエスコートするかのようなうやうやしさで自分を引き寄せる手つきに、体がこそばゆくなってしまう。
「あれ、スヴィカ」
途中、すれ違った男性がスヴィカを呼び止めた。
「わあ、偶然だね。巡礼旅は順調?」
男性は親し気に、にこにこしながらスヴィカに話しかけてくる。
「……フレイ。おひさしぶり、ですね」
なぜだろう。呼びかけに足を止めたスヴィカは――。困ったような顔をしていた。
「せっかくだから今晩、夕飯でも一緒にどう? よろしければ、お連れの方も一緒に」
愛想のよい顔を向けられ、ウルルもほんのりとだけ、笑みを返しておいた。
「すみませんが、長旅で疲れていて、夜は早めに休ませてもらおうと思うんです。積もる話は、また今度」
ことわられて残念がるふうでもなく、男はあっさりと引く。
「うん。じゃあまた。気をつけてね。ええっと、きみにもウルティマフ神の祝福を」
少年のようにくりくりとしたはしばみ色の目を細めてウルルに笑いかけ、フレイは軽く手を振り大通りをまたいで行った。
いまの男の人はどういう知り合いなんだろう。ウルルは誰何する。こげ茶色のくせ毛に、生成りの綿のシャツがラフな印象を与えた。どうも神官仲間ではなさそうだ。でも、巡礼旅の最中であることを知っていた。ウナの町は女性の勘違いだったとはいえ、スヴィカの知り合いに遭遇することが連続した。
フレイに声を掛けられたスヴィカの顔は――知り合いと行き合った嬉しさではなく、困惑……というよりも、なぜかむっとしているように見えて、問いただすのがはばかられた。
大時計台や運河などを見てまわる。陽が傾いたところで、ノールリオス名物の羊肉の燻製を食べさせてくれる店で手早く夕食を済ませて、宿に戻ってきた。
「町歩きで疲れたでしょう。人酔いしませんでしたか?」
「いえ……。うーん、すこし、疲れたかもしれないです」
スヴィカと交代で部屋に備えつけの風呂を使い、質素な長袖のチュニックと長ズボンの部屋義に着替え、眠る準備を整えたところだ。疲労感から頭がぼうっとする。スヴィカの言うとおり、人酔いをしたのかもしれない。
スヴィカが茶器をウルルに差し出す。
「ではこれをどうぞ。よく眠れるようになる薬草茶です」
「あ、ありがとう、ございます」
食事も、睡眠も。徳の高い神官さまに世話を焼かれてなんて贅沢なんだろう。ありがたく杯を受け取るも、ウルルはぎょっとした。
茶は濃い緑色をしており、白磁の底が見えない。わずかにかたむけると、どろりと粘度が濃い。雑草を煮詰めた汁に泥でも混ぜたのかと思える凶悪な見た目をしていた。
「い、いただきますね」
正直、まずそう。そう思っていることを悟られないようにさりげなく、だがおそるおそる、あたたかな湯気を立てる茶をひと口すする。
(――⁉)
そのあまりのまずさに、ウルルは目を白黒させた。
(ま……まずっ……)
相性の悪い香草同士を合わせて何倍にも濃縮したような、強烈な異臭が鼻をつく。あまりの苦さに、味覚がなくなった感覚さえする。お手製の薬草茶を飲むウルルを、スヴィカはにこにこと見つめている。
正直にまずいと言うのは気が引ける。残すのは、もってのほかだ。
仕方なしに――本当に気が引けたのだが――スヴィカが目を逸らしたすきにウルルはすばやく窓を開け、通りに向かって下げられた植木鉢に薬草茶を流してしまった。
(あああ……。スヴィカさま、ごめんなさい。それからお花も……。あまりの苦さで、枯れてしまうかもしれないな……)
「あ、ありがとう。スヴィカさま。なんだかすごく、効きそうなお味でした」
スヴィカはどういたしまして、というように笑い、ウルルの手から空の杯を受け取る。
スヴィカにまた嘘をついてしまった。罪悪感の針がちくんと胸を刺す。それでも、嘘をついたほうがまだマシだった。
こういうちょっとしたことですら、ウルルはだれかと対立するのがいやなのだ。
自分がいやだと思うことを伝えて、人に不愉快な思いをさせたくない。人を不愉快にさせたことで、自分の心もまた、かき乱されてしまうから。心の乱れは、呪いの暴走につながるから。
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