第二章 第一話

 聖賛地には徒歩で向かう。それが聖者の習わしらしい。よほど遠方にいる場合は飛行船などの使用も許されている。けれどさいわい、アラネスから聖賛地は徒歩で二週間もあればたどり着ける。

「聖賛地に近いアラネスでウルルに巡り合えたのもまた、ウルティマフ神の思し召しですね」

 そう言って、出会えたことの幸運をスヴィカは嚙みしめているようだった。

 次に目指すのはウナの町だ。ウナは、聖賛地の近くの一番大きな都市に向かうための中継地点となる町だ。

 一日じゅう、歩きどおしだ。でも徒歩での長い道のりも苦にはならない。道すがらずっと、スヴィカとおしゃべりをしているからだ。

 スヴィカとの旅路は楽しかった。楽しい、という言葉ではまだ足りない。でも楽しいという以外にどう表現していいのか、ウルルにはわからない。

 自分の呪いの影響を受けないだれかと、こんなに長く時をともにするのは、故郷を離れて以来はじめてだ。他人が近くにいる。多くの言葉を交わす。それが嬉しい。このうえなく楽しい。生まれてきていまが一番楽しいと思えるほど、ウルルは新鮮な刺激に夢中になった。スヴィカと会話の応酬を続けるうちに、話し方も思い出してきた。はじめのころはつっかえ気味だった言葉が、スムーズに出てくるようになった。

 スヴィカは身の上話のようなこともしてくれた。

 ノールリオス教への帰依を誓って家を出たのは十歳のころ。スヴィカは千年都市へと一人移住して神官候補となり、十二歳のときに正式な神官として認められた。以来、千年都市の教会でほかの神官たちと集団生活を送り、務めにその身を捧げていた。スヴィカの主な務めは、呪われた人の浄化だった。その功績が認められて、まだ二十歳と若い神官が今回のヘイラ召致を受けたのだ。

「聖者はメーフェに登録されていなくても、解呪ができるんですね」

 スヴィカにとっての常識は、ウルルにとっての新しい知識だ。

「あれ、解呪、浄化。どちらが正しい言い方なんでしょうか?」

 言葉の使い方に、はた、とウルルは迷った。

「ほぼ同義で用いられることの多い二つですが、厳密には異なります。浄化は聖の力での解呪のみを指すのに対して、解呪は呪いを解くことそのものを指します。呪の力での解呪は、こちらに含まれます」

 解呪師のなかには呪の力を行使する者もいるとスヴィカが説明してくれたことを思い出した。

「浄化は我々の本業のひとつです。はじめ、浄化は神官たちだけに許された行為でした。それが神官以外の人でも解呪が可能となり、呪いを解きたい人と解呪師をつなぐメーフェという組織が誕生したのです。世界に呪われた人は多くいます。すべてを解呪しきるのに、神官だけでは手が足りません。こちらとしても、解呪師の方たちに協力いただけるのは助かるんですよ」

 スヴィカは多くの人を浄化をした功績が認められて、聖賛地にもその名が認識されることとなった。幼くして神官になり、聖賛地にも認められるなんて。ウルルはあらためて、スヴィカはなんて立派な人なんだろうと感心した。

「聖なる力ヘイラグと、呪いの力バルブンは、非なるもののようで実は、力の出し方が非常に似通っているんです。だから私でも、あなたにバルブンの使い方を教えることができた」

「そう――なんですか?」

 ウルルは目をぱちくりとさせる。聖の力は貴ばれるもの。呪の力は忌避されるもの。聖呪の力が似ているなど、考えもしなかった。

「ええ。――祝福も呪いも、この世にはない。あるのは人の心の在り方だけ」

「心……」

 ウルルはスヴィカの言葉を咀嚼しようとする。

「そうかもしれません。俺のバルブンがムクナまで飲み込もうとしてあせったとき、スヴィカさまの言葉が、俺をしゃんとさせてくれました。バルブンは必ず自分で制御できるって気持ちを立てなおせたから、最後まで解呪できたんです。それは、格言かなにかですか?」

「私が考えた――と言いたいところですが、師匠の受け売りです」

 スヴィカは目を細めておどけ、舌をぺろりとのぞかせる。

「スヴィカさまのお師匠さまは、どんな方ですか?」

「立派な方です。ノールリオスの教義への造詣が深く、ただ定説にばかり頼るのをよしとしない。常におのれの頭で考え、新しい角度から真理を導き出そうとする。我々にもそうするように求める。厳しいけれど、優れた指導者です」

「へえ……。お名前は、なんとおっしゃるんですか?」

「ウルル」

 スヴィカの濃く黒い眉毛がふにゃりと垂れ下がる。愛嬌のある子犬のような顔になる。スヴィカは時おり、いまみたいに困ったようにほほえむことがある。精悍な顔つきがかわいらしく映るので、ウルルはこの顔が好きだった。

「私の話ばかりで退屈でしょう。続きはまた今度。それより、ウルルのことを聞かせてくれませんか?」

「お、俺のこと?」

「はい。なんでもいいんですよ。私と出会うまでずっと旅をしていたのでしょう? 旅先で見た面白いものや、印象に残った出来事などはないですか?」

 ウルルは呻吟する。

 スヴィカと会うまでの八年間、ずっと世界を巡っていた。大陸の北西部を中心に、比較的小さな町を転々としていた。それこそアラネスのような、観光名所などなにもない平凡な町だ。だから嬉々として語れる話はない。

 煮詰まってしまったウルルを見かねて、スヴィカは優しく誘導する。

「思いつかなければ好きな食べ物に、嫌いな食べ物でもいいんですよ。なんでもいい。私は、ウルルのことを知りたいんです」

 興味を示されて、ウルルの頬が火照った。

 スヴィカさまは、人の話を聞き出すのがうまいなあと思う。ウルルが気負わず話ができるように気遣ってくれていることがわかる。だが、へつらわれているような心地悪さは皆無だ。それはたぶん、口下手の話を仕方なく引き出してやっているのだというやれやれ感が一切ないからだ。ウルルの話を引き出すようたくみに誘導しつつも、スヴィカ自身がウルルに興味を持ってくれていることが、口ぶりから伝わってくるからだと思う。

「えっと、好きな食べ物……」

 母の作ってくれる、蜂蜜マスタード入りのサンドイッチ。でも母の味はもう二度と、味わえない。悲しい話はしたくない。

「では、嫌いな食べ物は?」

 ウルルがまたも煮詰まってしまったのを察したらしく、スヴィカが問いなおしてくれる。

 においのきつすぎる香辛料は苦手かもしれない。獣人は原始となった動物の身体機能のいずれかが、能力として開花する。ウルルの場合は、兎の聴覚と嗅覚だった。獣の身体機能に切り替えなくとも、普通の人よりもすこしだけ、耳と鼻が敏感なのだ。

 でも、もしスヴィカさまの好物が香辛料の効いた料理だったらどうしよう。人格者のスヴィカさまだ。ウルルが正直に話したところで気分を害さないだろうけれど、人の好きなものを否定する不要な気まずさは味わいたくない。ウルルは、思わず嘘をついてしまった。

「特に、思いつかないです。スヴィカさまの好きな食べ物と嫌いな食べ物は?」

「私ですか? そうですね。特にこれが好き、というこだわりはない気がします。逆に嫌いな食べ物は――肉や魚ですかね。それから、お酒に香辛料。嫌いというより、宗教上の理由で禁忌なので、食べられないんです」

 聖者は食事についても、色々な戒律を守らないといけないものらしい。

 ウナの町に至る三分の一まで進み、今夜は野営をすることになった。ウルルは手際よく、一人用の天幕を張る。スヴィカの天幕と隣り合うように設営した。

「ウルルは細身なのに、ずいぶんと慣れていますね」

 設営の手際のよさをほめられて、ぽっと頬が赤らむ。

「十四のころからずっとですからね。そりゃ、慣れます」

 町から町へ移動する間、野宿することもままある。

 大きな石をあつめて囲いを作り、拾った小ぶりな木の枝を積み重ねて、マッチで火を起こす。簡易のかまどだ。

 ウルブスヨルズゥルは通年、涼やかな気候だ。いまは夏なので、日中は半袖でも過ごせるくらいあたたかくなる。一年でもっとも過ごしやすい季節だ。それでも、夜は長袖を必要とするほど冷える。近くでたき火をすれば天幕内の空気はすぐにあたたまり、朝まで熾火をくゆらせておけば寒さにわずらわされることなく眠れる。冬は氷点下まで冷え込むので、ふんだんに綿の詰まった外套などよほどの重装備がない限り、野営などしたら即凍死だ。

「――ウルルはずっと一人で、旅を?」

 隣り合ってはぜる火をながめながら、スヴィカが尋ねる。

「ええ。それが掟ですから」

 ウルルは手もとの細い枝を数本まとめて握り、真ん中からへし折ると火のほうへ放った。

「つらくは、ないですか?」

 ぱきん、とまた枝を折り、火に投げ込む。

「……つらくないと言えば、嘘になります」

 人とのかかわりを最小限に抑える生活。歩くときも、ご飯を食べるときも、眠るときも。ウルルはいつも一人ぼっちだ。行く先々で出会う人と話をしたい衝動にかられることもある。相手が愛想よく話しかけてくれるのをほどほどに切り上げるのを心苦しく感じることもある。

「でも、平気です。一人なのはべつにいいんです。慣れてしまえば、どうってことないから」

 火がはぜ、薄い煙が星のまたたく漆黒の天蓋へと吸い込まれていく。

 日常の孤独以上に、ウルルを苦しめていることがある。

「本当につらいのは……。つらかったのは……。俺を抱きしめてくれる人がだれもいなくなってしまったことです。封じ子になったとたんに、だれも俺に触れなくなった。……俺の一族は呪いへの恐怖心が特に強いから。だから……」

 ウルルの瞳に涙の膜が張られる。目に映る橙色の炎の輪郭が、わずかにゆがむ。

「俺が出発する日の朝。家族は見送りに来られなかったんです。俺が封じ子を引き受けたことがショックで、起き上がれないほど思い悩んでしまって。だから俺は、村の人たちに見送られて出発したんです。見送るのも、封じ子に関する掟のひとつだから。……友だちも、近所でよく話をしていた人たちも、みんな来てくれた。でも、俺のことを抱きしめてくれる人はだれもいなかった……!」

 抱きしめ慈しまれて送り出されたのならば、いまほどの疎外感は生じなかったのかもしれない。

 だれもが気遣わし気な顔をしつつ、ウルルを遠巻きにした。ウルルは同じウルルなのに。封じ子になるまでの昨日と、封じ子になってからの今日とで、扱いが天地の差だ。

 ウルルは急に、昨日までの自分がどこかに行ってしまったような気がした。昨日までの自分を失うという信じがたい喪失感におそわれた。だから村を出るとき、単なる離別以上の寂寥を味わったのだ。

「ウルル……」

 スヴィカの腕が伸びてきて、ウルルの肩にまわされた。そのまま軽く引き寄せられて、スヴィカの上半身に体をあずけるような格好になる。

 スヴィカは両腕でウルルを抱きしめた。

「す、す、す、スヴィカさま……っ⁉」

 腕のなかでウルルはひたすら狼狽した。

「かわいそうに。代わりに、私があなたを抱きしめてあげます。あなたに触れられなくなった人たち全員分の抱擁に匹敵するくらい、たくさん」

 敬愛する聖者に、自分なんかを抱かせていいのだろうか。困惑しつつも、あたたかさ、心地よさに、すぐに抗えなくなる。

(スヴィカさまが、好きだ……)

 ウルルは、抱きつきたくなるのをこらえて膝の上で手をぎゅっと丸くする。

(優しくて、おだやかで、頭がよくて。……俺なんかを気遣って、優しくしてくれる)

「ウルルは頑張り屋さんです」

 スヴィカの大きな手が、ウルルの肩をなでさする。心地よさを喚起するようなその手つきに、腹の奥がしゅん、と収縮するような感覚を抱いた。そのしゅん、とした感覚に、なぜかいけないことを考えたようで恥ずかしくなった。ウルルは瞬時に、こみ上げそうになる甘やかな感覚に蓋をした。

(わかってる。スヴィカさまはだれにでも、分け隔てなく優しくしてくれる人だって。べつに、俺のことを特別に思っているからじゃない。でも――)

 黒衣にそっと顔を押しつける。普段質素な生活をしている聖者とは思えないほど厚みのある胸板であることを、ウルルは頬で感じた。

(せめて旅の間だけは、スヴィカさまにあこがれを抱くのを許してほしい。それ以外はなにも望まないから――)

 ウルルのささやかな祈りを歓迎するかのように、天に縫いつけられた無数の星々は、ちらちらとまたたきを放っていた。

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