第一章 第四話

 家のはす向かいにある教会で、解呪の準備をする。はったりだけでなく、スヴィカは聖者としての知識も活用しながら場を整えるらしい。ウルルは言われたとおりに準備を手伝った。呪いがこの場から外に漏れださないよう、結界を張る。赤い粉で地面に陣を描き、色石を配置していく。

 準備が整ったところで、ウルルはすこし離れた位置にいる少女――ムクナと向き合った。不安そうな顔で、かたわらで見守る母親のノルティにちらちらと目線を送っている。

「では、いきますよ。私の言うとおりに」

 ウルルにしか聞こえない声でスヴィカがささやく。ぽんと軽く肩を叩かれる励ましを、頼もしく感じた。

(やってみよう。スヴィカさまを信じて)

 ウルルはすうっと一度深く、呼吸をした。

「ウルルの力は、心の奥に封じられていますね」

「はい」

「では心の鍵を開けて、力をすこしだけ外に出してあげて。獰猛な獣の檻をあなたが開き、なかにいる生き物をゆっくりと外へ導くところをイメージしてみて」

 ウルルはうなずく。

「バルブンが放出されたら、すばやく相手の呪いだけを吸うように誘導して。生命力も、呪いも、等しくバルブンの餌となります。だから呪いにさえ食いつかせれば、あなたもほかの人の生命力も、吸われることはない。呪いを吸いつくしたところで、すぐにバルブンを引っ込めて。暴れる獣の手綱をつかんで、自分のもとに引き戻すように。失敗しても大丈夫。そのときは私がヘイラグで、呪いを強制的にあなたのなかに押し戻しますから」

 ウルルが再びしっかりとうなずくのを確認すると、スヴィカはすこし離れたところに下がっていった。

 ウルルは目を閉じ、静かに精神を集中させた。

 心の鍵をはずして。

 カチ、と鍵の開く音が聞こえた気がした。

 扉を開いて。

 ウルルのまえに扉がある。左右両開きの扉だ。いま、目のまえの扉がゆっくりと、奥へ向かってわずかに開かれる。

 ウルルは内側に巣食う宿痾へと呼びかける。

 ほんのすこしだけ出ておいで。おいしい餌があるよ。――大丈夫。俺が制御してあげるから。

 ずん、と体の奥になにか重たいものが沈んだ感じがした。次の瞬間、体が宙に引っ張られるような感じがする。

 胸の奥から、黒い空気が流れ出してくる。濃く練られた空気は何本かに分かれ、螺旋を描きながらウルルの体より飛び出していく。

(……バルブンだ……!)

 以前、おそわれたときと同じだ。ウルルの胸から飛び出した黒い霧状のなにかが、四方八方に散っていく。その根本は胸の奥へとつながっている。

 ウルルのバルブンに呼応するように、ムクナの体のなかからも黒い霧が放出された。霧はムクナを守るように、その体を取り巻き、すっかり覆いつくす。見えているのは頭頂部と、手足のさきだけになっていた。

(食べていいのは呪いだけだよ。行って……!)

 頭で命じると、バルブンはちゃんと言うことを聞いた。少女を取り巻く黒い霧に向かい、端から食いかかっていく。

 食うといっても、バルブンには口などない。ただの黒い帯状のものが霧の端に触れただけだ。でもウルルにはたしかに、おのれのバルブンが少女の呪いを食べているように見えたのだ。

 バルブンが触れたところから黒い霧が徐々に薄まり、消えていく。呪いが消えているのだ。ウルルのバルブンが食らって、消去している。

 霧が晴れて少女の体があらわになった。少女の呪いが完全に、消失した。

(戻れっ……!)

 ウルルは心で強く念じ、呪いを引き戻そうとした。

 けれど今度は呪いは、ウルルの言うことを無視した。

(えっ……)

「きゃあああっ……!」

 少女のか細い悲鳴が、教会の敷地内にこだまする。ウルルのバルブンが、ムクナの体にしゅるしゅると巻きついていく。命を吸うのだ。いましがた呪いを解かれたばかりの、少女の生命を。

(嘘っ……! だ、だめだっ……!)

 恐怖の思い出がよみがえる。ウルルの頭はさーっと冷えて、冷静に考えられる頭の領域が急に狭くなったみたいだった。

(どうしよう……どうしようっ……!)

 焦燥ばかりが、ウルルの狭い頭のなかを周回する。少女の哀れな叫び声が、途切れることなく響き渡っていた。

「ウルルッ……! 恐怖に支配されるな! 俺の言ったことを思い出せーっ……!」

 スヴィカの叫びが、はっとウルルを目覚めさせた。

(そうだ、いけない。スヴィカさまが言っていたこと)

 聖者の声で、正気の領域に連れ戻された。一度冷静になると、気持ちがすこしずつ落ち着いてくる。

 少女はいままさに生身の体に触れんとする黒い帯を怖がりながらも、まだしゃんと立っていて、叫び声すら上げている。まえにウルルの呪いがおそいかかった人は、そんな余裕すらなく、いきなり死の淵に近いところまで引きずられていた。だからまだ、ムクナは呪いに飲まれてはいない。

(まだ大丈夫だ。――俺がしっかりしないと。呪いの飼い主である、俺が)

 ウルルは頭で、鎖を握りしめるおのれの手を思い描いた。そのさきはバルブンの首輪につながっている。

(俺の呪いには、だれも殺させない。ムクナのことは必ず助けるっ……!)

 ウルルは両足で力強く踏ん張った。

(――戻れ、戻れ、戻れーっ……!)

 呪いに巻かれた首輪とつながる手綱を、ウルルはしっかりと握りしめて強く引いた。

 とたんに黒い帯はしゅるしゅると、ウルルの胸に収束されていく。ウルルの体内に徐々に巻き取られて短くなり、すっかり溶けるようにして消えた。

 バルブンが体に戻る衝撃に、ウルルは一瞬ふらついてしまったが、転ぶことはなかった。

「ウルル!」

 スヴィカが足早に近づいてくる。

「やりましたね! ……成功です!」

 ムクナに視線を移す。解呪の衝撃で尻もちをついてしまったのを、ノルティに助け起こされるところだった。ムクナはしっかりと立った。体にけがはなく、意識もはっきりしていそうだ。

「俺……。解呪できたんですね……」

 ウルルは呆然とつぶやく。

 呪いの力を解放し、自分の命も、人の命も吸い取ることはなかった。はじめて自分の意志で、力を制御できたのだ。

 嬉しさがこみ上げて、ウルルは目にじんわりと涙を浮かべる。

 おのれのなかの呪いをおそれていた。

 いまも怖いことには変わりない。一部だけとはいえ解放された力が、ほとんど一瞬のうちに少女の呪いを吸いつくす。その力のありようをまざまざと見せつけられたのだ。おのれの呪いが、より実感を持って怖くなった。けれど同時に、ウルルさえしっかりとしていれば、自分の意志で制御できることも知った。

 それとなにより。自分と同じく呪いに苦しめられていた人を一人、救うことができた。呪いで命を奪うのではなく、人を生かすことができた。そのことが嬉しかった。

「よかった……。本当に……!」

 泣き出しそうな顔でムクナに抱きつき、背中をさするノルティの姿に同調して思わず、ウルルはぼろぼろと涙をこぼして泣いた。本当は泣くべきなのはこちらのはずなのに、というようなきょとんとした顔で、親子はウルルが泣くのを見つめていた。

「本当になんとお礼を言ったらいいか……。ありがとうございます」

 ノルティは深く腰を折って、礼を言った。

「兎のお兄さん。ありがとう」

 ムクナも、同じように腰を深く折ってお礼を言った。子どもに似つかわしくない慇懃な仕草がおかしくて、ウルルは泣き笑いの顔になる。

「ううん。解呪できて本当によかった」

 ウルルはハンカチでくしくしと涙をぬぐいながら、少女に笑みを向けた。

「それでその……。言いづらいのですが、報酬のことでご相談が」

 ノルティが遠慮がちに切り出す。

「本当に感謝をしています。ええと……メーフェの登録金額の一割増、でしたでしょうか?」

「はいはい。分割払いも承ってますよ」

 スヴィカは愛想はいいが、金銭のやり取りにはうるさい商売人がするような、満面の笑みを親子に向けた。野良の解呪師のふりをするのは、依頼を受けるための方便だったはずなのに。どうやらスヴィカは最後までだましとおすつもりらしい。

「ええと……。では申し訳ないのですが、月賦払いにさせてもらえないでしょうか? 実は、呪いの原因となった夫とは離婚済みで、収入は私一人が細々と稼いでいる状態で。……本当は四百五十万クルーナなんて大金、用意できる額ではなかったんです。でも、娘のために、解呪できたのならば必ずお返ししようと……」

 ノルティはすまなそうに視線を落とした。

 強力な呪いを受けた人は、だれからも避けられるようになる。恨みを買って呪われたり、なにかの拍子に呪いが横滑りしやしないか、おそれられるようになるからだ。解呪されない限り、とても普通の生活は送れなくなる。――自分の子どもがそんな目に遭うのは、つらいだろう。代われるものなら代わりたい。けれどノルティに呪いがうつることはなかったし、メーフェから派遣された人でも、呪いを解くことはできなかった。ムクナから呪いを消し去るのは、母親にとってどれほどの悲願だったことか。

 呪いを解きたくて、でも解けなくて。悶々としながら、人とかかわりを持てない生を続けてゆく。息が苦しくなるほど、ウルルにはそのつらさがわかった。自分ではなく子どもの身に起きていることなので、母親にとってはなおのことつらいだろう。ウルルの両親だって思いつめて倒れ伏し、最後の見送りさえできなかったのだから。

「……あの、お代は結構です」

 ウルルの言葉に、ノルティはうなだれていた顔を上げる。

「あの……。お気遣いはありがたいのですが……。あなたがたも仕事でしょうから……」

「いいんです。今回は、お代は結構です」

「う、ウルル……?」

 困惑するスヴィカに、ウルルは笑みを向けた。

「構わないでしょう? スヴィカさま。当面は旅費にも困りませんから」

 スヴィカはなんともいえない顔を一瞬した。足の裏がむずがゆくて、でも掻くほどではないかというような微妙な顔だ。そのあとではっ、と短く息を吐くと、頭をがしゃがしゃとかきまわす。

「まあ、こいつもこう言ってるんで。今回はいいっすよ。特別サービスで」

 ノルティの顔がぱっと輝いた。

「ありがとう……! ありがとうございます……!」

 ノルティはウルルの手を握りしめて、何度もお礼を言った。

「ありがとう、兎のお兄さん」

 母に倣って、ムクナも礼を繰り返す。母の礼がなにに対してのものなのか、はたしてどこまで理解しているやら、だ。

「きれいな兎さん。またね」

 別れるときムクナは、小さな手できゅっとウルルの手を握ってそう言った。

 ひさしぶりに人の手のぬくもりに触れた。ノルティとムクナの親子は封じ子になって以来、スヴィカを除いてはじめて、ウルルに触れてくれた人たちだった。


 親子が家に帰るのを見送り、ウルルは教会の敷地内に敷いた色石を回収してスヴィカに差し出した。スヴィカはなにも言わずに石を受け取り、小さな巾着にしまい込む。

 スヴィカがだんまりだ。どこか、不機嫌そうにも見える。これまでは会話の接ぎ穂が見つからなくて、やや気まずい思いをしたことはなかったのに。ウルルの心がちょっとだけざわつく。解呪で疲れてしまったのだろうか。

「あの、スヴィカさま」

 ウルルはひとまずお礼を言いたくて、スヴィカに呼びかけた。

 スヴィカは力の使い方を教えてくれた。極度におそれるものではないのかもしれないと思わせてくれた。スヴィカが解呪を提案してくれたおかげだ。自分では、自らの意志で力を解放してみるなど、間違っても実行しなかっただろう。

 スヴィカはウルルを見ていない。呼びかけられて気づいているはずなのに、ウルルのほうを見ようともしない。あいかわらず不機嫌そうなままで、遠くを見つめている。

「あの……」

 スヴィカは、はあっとため息を吐いた。

「無償で依頼を引き受けるなんて、感心しませんね」

(えっ――)

 ぴしゃん、と全身が鞭で打たれたような気がした。ノルティから依頼料を受け取らなかったことを、責められた。ほめられこそすれ、責められるとは思ってもいなかった。

 解呪師の演技を続けながら、てっきりスヴィカも賛同してくれていると思っていたのだ。スヴィカも、報酬は無償にする方向に話を誘導するのだとばかり思っていた。その役目を自分が引き受けたことで、むしろ助かったと思ってくれているんじゃないか。指示されることなく自らノルティ親子を慮るとは、ウルルの心の正しさを感心だと思ってくれているんじゃないか――。内心ほんのりと期待していたウルルは、思い上がりが恥ずかしくなった。

「無償で、しかも銀二の解呪を引き受けた解呪師がいた。そういう噂が広まると、解呪師に値引きを持ちかける輩が出てこないとも限りません。……特にメーフェ登録外の解呪師は、後ろ盾がないので足もとを見られますからね。あなたはいいことをしたつもりでしょうが――。善意は時に、だれかの悪意になる。おのれの行為のもたらす影響をよく、考えてから物事を口にしないといけませんね」

「ご……ごめんな……さい……」

 スヴィカに叱られたショックで、全身が固くなる。

 さきほどまでは、聖者であるスヴィカが依頼料を受け取ろうとするなんて、とどこか信じられないような気持ちがあった。でも、ウルルは考えをあらためた。いいことをすればみんなが喜ぶ。だからなにも問題はない。それは浅はかな考えだった。スヴィカはもっと先々のことまで見据えたうえで、適切な判断を下していたのだ。

「ごめんなさい。俺、そこまで思い至らなかったです」

 しゅんとしてウルルは視線を落とした。さきほど全開に栓が開いた涙腺は、いともたやすくゆるくなる。涙がにじみかけたところで、降ってきたあたたかな声に救われた。

「でも――。仕方がないですね。他人への優しさは、あなたの美徳ですから」

 顔を上げるとスヴィカは、困ったような顔をして笑っていた。子どものわがままに翻弄されながらも、最後には甘やかす父親のような顔で。

「ご、ごめんなさい。気をつけ、ます」

 スヴィカに嫌われたわけではなかった。ほっとしたが、しばらくガラスに砂をこすりつけられるような、ざらっとしたいやな感覚を引きずった。

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