第一章 第二話

 アラネスの滞在も十日目になろうとしていた。

 ひとつの町に滞在するのは、長くても半月と決めている。アラネスは小さな町なので、ウルルが住人でないことが知れるのも早い。そろそろ次の町に移動する頃合いだった。

 最後にこの町の情景を目に焼き付けようと、ウルルは港のほうへとやってきた。大きな船が何艇も停泊している。いまは昼だ。船が漁に出るのは早朝で、収穫を市場に売り渡した漁師たちはもう、この日の仕事を終えている時間だった。

 アラネスの位置する沿岸部一体は、天候が薄曇りの日が多い。空はいまも、灰色の雲に覆われている。雲のベール越しに、やんわりとした陽の光が降り注ぐ。

(次はどの町に行こう……。まだ、行ったことのないところがいい)

 波止場のベンチに腰かけて、ウルルは持ってきた地図を広げる。ペンでめぼしいさきにいくつか赤印をつけた。一度巡ったさきには、青印をつけてある。故郷のブロトルフにほど近い大陸の中北部はもう、ほとんど真っ青に塗りつぶされていた。風で地図の端が、ぱたぱたとゆれる。

 風のある場所では地図が見づらい。宿に帰って本格的に、次の行き先を吟味しようと立ち上がりかけたところだった。

「もし、旅のお方」

 ふと地図から目を上げると、目のまえに人がいる。地図に気を取られて、いつの間にか目のまえにやってきたことにも気づかなかった。

「隣に座っても?」

 ウルルが返事をするまえに、魅惑的な笑顔で圧しながらその人は、隣に腰を下ろした。

 だれだろう。どうもこの町の人ではなさそうだ。

 男は黒髪に、やや紫がかった黒色の瞳をしている。左目にレンズが丸くて小さい、片眼鏡をかけていた。首から足首までを覆う黒衣をまとっている。神職が着る祭服のようだった。

「突然話しかけてしまってすみません。私はスヴィカ・レーブル。ノールリオス教の神官をしている者です」

 やはりだ。相手は聖者だった。スヴィカは髪も肌もきちんと手入れが行き届き、神職者らしい清潔感に満ちていた。

「あなたとお話したいと思ったのはその――。不躾ながら、かなり強大な呪いを秘めておられるのが気になって」

(えっ……)

 ウルルはびくん、と体をびくつかせた。耳と尻尾は隠してある。ブローフ族であることは、スヴィカにはわからないはずなのに――。

「ああ、お気を悪くされたのならすみません。私は千年都市から来ました」

「千年都市って……」

 その名は聞いたことがある。創世期からある、世界でもっとも古い町だ。ノールリオス教の神官のみが、住まうことを許されている。

 ウルルは呪われている。呪われている人は、人の呪いの量も見えるようになる。だが、スヴィカは聖者だ。呪いとは縁遠いはずなのだ。

 古都に住めるほどに徳の高い聖者だから、呪いの量が見えるのだろうか。

 ウルルが心に浮かべた疑問を読んだかのように、スヴィカは片眼鏡を指さし説明を付け加えた。

「この眼鏡で、人の呪いの総量が見えるんです。失礼ですが、その呪いをどこで拾われたんです? ――あなたはそれほど多くの恨みを買うような人には見えないのですが」

「それは……」

 話すか、話すまいか。ウルルは迷い、膝の上で組んだ手をきゅっと握りしめた。

 ノールリオス教の神官と話すのははじめてだ。そもそも、人と会話をする機会が極端にすくなく、またそうした機会があったとしても、短時間にするよう努めているウルルにとって、だれかとこれほど至近距離で話をするなどひさしぶりだ。長いこと無言でいると、会話をするための機能が衰えてしまうらしい。話そうとしても、うまく言葉が出てこない。

「なにか、悩んでいることがあるのなら話してくれませんか? だれかの懊悩を聞き力になるのも、神官に課せられた責務のひとつです。私の修行を助けると思って、ね?」

 おだやかな声に、優しい目つき。そのやわらかいものにうながされて自然と、硬く閉じていたウルルの唇が徐々に開いていく。

「実は――」

 ウルルはフードをはずしてみせた。なかで丸まっていた青い兎の耳が飛び出し天に向かって伸び生える。

 こうしてウルルは、封じ子になってからいまに至るまでのいきさつをスヴィカに話した。やはりなかなか言葉が出てこないので、つっかえつっかえではあったけれど。

 先代との代替わりで、封じ子に選ばれたこと。封じ子は役割の交代まで、二度と故郷に足を踏み入れることは許されず、人とのかかわりをなるべく避けながら、世界を一人で巡り続けなければならないこと。孤独な一人旅には耐えられても、家族や友だちにもう会えないのは、このうえなく寂しいこと――。

 スヴィカは無言の小休止を挟みがちになるウルルが話終えるのを、辛抱強く待っていてくれた。時おりあいづちを打ちながら、熱心に話を聞いてくれていた。

 決してウルルを急かすことなく、スヴィカはあたたかいまなざしでウルルを見つめる。自分に注がれる瞳の熱を感じてウルルは、話の間じゅう、まともに顔を上げられなかった。

「それは――。大変おつらかったでしょうに」

 話を聞き終えたスヴィカが、眉根を寄せて同情をあらわにした。

「……つらいと言えば、つらい、かもしれません……。でも、俺は……」

 ウルルにとってなにより大事なこと。自分がつらいよりも、他人がつらいほうがよほどつらい。

「だれかが……傷つくくらいなら。自分が、傷ついたほうがいいんです。俺が傷ついている間は、だれかは傷つかなくて済むから」

「――それで、身代わりに?」

 スヴィカの顔が曇る。曇ったのちに、天使のような顔で笑った。

「自分が犠牲になってでも他人を助ける。その優しさは、あなたの美徳ですね」

 美徳、と言われてウルルの顔がほてった。ひそやかに胸に秘めてきた矜持だけれど、いままでそれを認めてくれる人はだれもいなかった。

 だめだ。心を動かされてはいけない。自分は何事にも、心を乱してはいけないのだ。呪いを心に封じ込めておくために。あわててそう、自分を叱責する。

 けれど――だめだった。

「あっ……」

 目からぽろりと、涙がこぼれた。

 これまでだれも、ウルルのがんばりを気に留めてくれる人はいなかった。それはそうだ。ブローフ族であることを隠しながら、逃げまわるようにこそこそと旅をしていたのだから。だからようやく、巡り合えた。ウルルのがんばりを認めてくれる人に。その優しさのために重荷を背負うことになったウルルを、ねぎらってくれる人に。

「ウルル……?」

 突然の涙にスヴィカは目を見開き、おどろいている。

「す、すみません。俺――」

 ウルルは手の甲で涙をぬぐった。

 心を乱されたらいけないはずなのに。早く止まれ、俺の涙。

 ウルルは自分を律しようとする。それなのに――。スヴィカの思いも寄らない行動で、またも心が跳ねた。

 スヴィカはおのれの両手で優しくウルルの右手を包むと、いとおしそうになでさすりはじめたのだ。ゆっくりと慈しむように、スヴィカの大きくあたたかい手のひらが、ウルルの手をさする。

 突然触れられた。なのに嫌悪感はいっさいない。他意はなく、スヴィカがウルルの心をいたわるために、手を包んでくれているのだと伝わってくるからだ。じんわりとした心地よさだけが、広がっていく。

「泣かないで、ウルル」

 スヴィカは噛んで含めるように優しく話す。

「いえ……。泣いてもいいんです、のほうが正しいですね。あなたはずっと一人で、耐えてきたのでしょう?」

「あ、あの……。スヴィカさま、手を離して……ください……」

 封じ子になってからというもの、だれもウルルの体に触れる者はいなかった。スヴィカは呪いなどおそれず、堂々とウルルに触れてくる。

 腫れ物扱いされない。それどころか、最上級の美術品を扱うようなスヴィカの手つきに慈しまれて、それだけでウルルはまた、泣きそうになる。

「ウルル。私はあなたの力になりたい」

 スヴィカは黒い瞳に、力をみなぎらせる。

「どうか私に、あなたの呪いを解かせてほしい」

 スヴィカの提案に、ウルルは飛び上がりそうになった。

「む、無理です……!」

 ウルルの呪いは世界最強の呪い。神でさえも解けない呪いだ。

「俺だって、できれば呪いを解きたい。……俺のためだけじゃない。あとに続く封じ子のためにも――。でも、無理なんです。呪いが強すぎて、だれにも解けない。神さまにだって、無理なんです」

 ウルルが言いつのるのを、スヴィカはひと言、ひと言をしっかりと受け止めるように、うなずきを返しながら聞き、そして安心させるようにほほえんだ。

「安心してください。解くのは私ではありません。ウルル、私とともに聖賛地せいさんちに来てもらえませんか?」

「聖賛地……?」

「聖賛地ヘイラ。そこは、あらゆる罪を祓い、穢れを癒すための場所」

 ヘイラの名は耳にしたことがある。けれどそこはウルルにとって、千年都市以上に遠い場所だ。ウルルにとってはもはや伝説上の都市で、この世界に実在するとさえ、なかば信じていなかった。

「ヘイ、ラは……。ノールリオス教の聖地ですよね……? 実在、するんですか……?」

「ええ。聖者のなかでも特別な修行を終えて、特に徳を高く積み上げた者のみが立ち入ることを許された土地です。ノールリオス教の教会本部が置かれた町でもあります。そこには一般の聖者では知りえない、ノールリオス教の古い文献や秘儀が伝わっているのだと聞きます」

 ウルルはヘイラの正確な位置を知らなかった。スヴィカによると、ヘイラは西の果てにあるのだという。

「ヘイラは十二年に一度、祈念大祭きねんたいさいのために開かれます。今年がちょうど、その十二年目に当たる年。祈念大祭では教会本部の司祭たちが、浄化の祈りを捧げます。その祈りの歌は、あらゆる呪いを治癒するものなのだとか。大祭は二十日後です。世界中から、入地の資格を得たノールリオス教の聖者たちが招聘されています。光栄なことに、私もその一人」

 スヴィカは聖衣の袖をまくってウルルに見せた。赤褐色の紋様が、手首から肘にかけて浮かんでいる。

「ノールリオス教に帰依し、研鑽を積んだ聖者にだけあらわれるという、聖者の刻印です。私の祈りがウルティマフ神に届いたのか、祈念大祭をまえに体に印をいただくことができました。これにより私は、入地の資格を得たのです」

 ウルルは複雑な紋様に魅入られていた。けれど、あまり人目にさらすようなものではないのだろう。スヴィカはすっと袖を下ろしてしまった。

「ヘイラが本当にあるなんて、思わなかった……。人が住んでいるんですか?」

 口にしたあとで、なんて馬鹿なことを言ってしまったのだろうとウルルは恥じらった。世間知らずなのは自覚している。まともな教育を受ける機会もなかったのだ。だが、スヴィカは特に気にしていないようだった。

「ヘイラは政治と宗教の中心地です。宗教をつかさどる教導部と、政治をつかさどる政導部が置かれていて、両者の機能は分離されています。分離されてはいるものの、それぞれの指導者は相手の導部に対して、かなり強い発言力を持つというのが実態のようですが」

 スヴィカの話は難しい。ウルルは眉間に皺を寄せながら必死について行く。

「政治と宗教は分離すべきだ。宗教家は政治に関与できないし、逆に為政者は宗教のあらゆる決め事に口を出すことはできない。そういう原理原則があります。でないと、民からの信望が篤いノールリオス教の聖者たちが政治に進出した場合、政治家としての適性を度外視して、人気を集めやすくなりますから」

「ええと……。はい。なんとなく、わかります」

 日々、人々に説教をしなれているのだろう。スヴィカはウルルがどこで混乱したのかをすばやく見抜いて、過不足なく説明を付け加えてくれる。

「教導部の頂点におられるのが、ノールリオス教の大司祭、スティヤルナ・ミョフクレさまです。そしてその下に十一名の司祭たちが連なり、合わせて十二司祭と呼ばれています。十二司祭は日々、教典の研究や決められた祭祀を執り行い、世界の呪いを浄化するための祈りを捧げるヘイラ教導部を指導する方たちです。ただ、スティヤルナ大司祭は十二年まえの祈念大祭以来、祈祷の奉行ほうぎょうに入られたと聞きますが」

「ほ、ほう、ぎょうって、なんですか?」

 たぶん、神官が用いる宗教用語なのだろう。耳慣れない言葉に、ウルルはおずおずと質問をする。話をさえぎられても面倒臭い顔ひとつすることなく、スヴィカはむしろ嬉々として説明を追加してくれた。

「ああ。奉行というのは、ウルティマフ神に捧げる修行のことです。いくつか決められた型がありますが、そのなかでも十二年奉行は特に強靭な精神力を必要とする厳しいものです。奉行する者は祈念大祭が終わるとヘイラ内にある聖堂にこもり、だれとも会わず、会話せず、ひたすら世界の呪いを浄化するための祈りを捧げる修行に入ります。一日に十時間以上も祈りを捧げる厳しい修行で、次の大祭まで、中断することは許されません」

「次のってことは……。じゅ、十二年間も祈り続けるんですか⁉ たった、一人で……」

 ウルルが一人旅に出てから八年になる。八年でさえも、子どもの獣人がすっかり大人になる、長い長い年月だ。それ以上に長い間、ずっと同じところで祈りを捧げるなんて――。

 この世界には自分以上に、信じられないほどの厳しい環境に身を置いている人がいるのだと思い知らされた。

「そうですね。厳しいからこそ、成し遂げることに意義がある。大司祭不在の代わりに、現在のノールリオス教を率いるのは、マニュルス・ハフ司祭です。マニュルス司祭はスティヤルナ大司祭の右腕をつとめていた方だと聞きます。今回の大祭でスティヤルナさまも奉行が開けることですし、再会を楽しみにしておられるでしょうね」

 十二年もかかるくらいだ。司祭の人たちは、大司祭が聖堂にこもっていることをうっかり忘れてしまわないだろうか、と言いかけてやめた。そういううっかりした人は、ヘイラの司祭にはなれないのだろう。

「祈念大祭に招かれるのは聖者のみです。けれど聖者一人につき、推薦者一名まで一緒に入地して、大祭での浄化の恩寵にあずかることができます。どうでしょう、ウルル。私はあなたを推薦したいのです。大変な重責を背負いながら、だれに恨みをまき散らすことのない正しいをするあなたには、その資格がある」

「そ……れは……」

 想像を超えた、大きな話だ。ウルルは緊張して、喉が張りつく。言葉が引っかかる。

「あの……とても光栄……です。俺の気持ちを、美徳だと言ってくださったのも嬉しかった、です。でも、たった一人だけなんて、そんな……」

「ここで私と巡り合ったのも、ウルティマフ神のお導きです。正しい道を歩んできたあなたこそ、恩寵で祝福されるべきだ」

「で、でも、困り、ます……。お、俺の近くにいて、もし呪いが漏れ出したら、スヴィカさまに迷惑をかけてしまう……」

「問題ないですよ。神官は神の加護を受けています。だから仮にあなたの呪いが私に向いたとて、その呪いに侵されることはないのです」

 それを聞いてすこし安心したが、やはり戸惑いが大きく、すぐに話に乗ろうという気にはなれなかった。

 聖賛地には一人だけしか連れていけない。その貴重な席に、自分なんかが座ってもいいのだろうか。

 迷って、惑って、困ってしまい、ウルルの目に涙が浮かぶ。

「ウルル……」

 自分の話がウルルを戸惑わせてしまったと知り、スヴィカが心苦しそうな顔をする。

「あの、ごめん、なさい……。か、悲しくて泣いているわけじゃないんです。ただ、突然そんなお話をいただいて、自分でもどうしたらいいか、わからなくって……」

 世界中で、呪いに苦しんでいる人たちはたくさんいるのに。自分だけが救われるなんて、気が引ける。

「そうだ。あの子……」

 ウルルは市場ですれ違った少女のことを思い出した。

 あの呪い。かなり大きな呪いだった。

「あの……。聖賛地に一人連れていってくださるのならその……俺じゃなくて、べつの人を連れていってくれませんか?」

「べつの?」

 スヴィカが目を丸くする。

「はい。あの、俺は呪われたままでもいいんです。けど、この町でたまたますれ違った子が、ものすごい呪いに侵されているのを目にして……。スヴィカさまはわからなかったですか? 七歳くらいの女の子で……」

「いえ……。私は昨晩、この町に着いたばかりなので」

 スヴィカは困ったように首を振る。

「そう、ですか。……俺はずっと、その子のことが気になっているんです。この町に来て最初の日に、その子とすれ違って。……その子が転んでしまったんです。でも、俺は手を差し伸べることができなくて……」

 自分の罪を告白する恥ずかしさから、ウルルは足をむずむずとさせた。

「そのことをずっと、後悔しているんです。その子の母親に、呪いがうつるのを怖がって、俺がその子を差別したんじゃないかと、誤解されてしまって。あんな小さい子が呪いを背負う。きっとなにか事情があるはずなんです。俺はなんとか、してあげたくて……」

 ウルルは胸のまえで手を組み、スヴィカに訴えた。

「スヴィカさま、お願いします。どうか俺の代わりに、あの子を連れていってください」

 どうか、どうか――。不幸な人が救われてほしい。そのためには自分が不幸なままでも構わない。自分の子どもが避けられていると知ったときの、あの母親の傷ついた顔を見ているのは、つらかったから――。

 スヴィカはあごに手を当て、ふーむとうなった。

「それほど強い呪いに侵されているのなら……。メーフェに登録されているかもしれませんね」

「メーフェ……」

 メーフェは、解呪師かいじゅしで構成される商会だ。呪いに侵された人が身分登録をして、呪いの浄化を受けることができる。有償であれば早くに対応できる解呪師が見つかるが、無償の場合は、気が遠くなるほどの順番待ちをしなければならない。解呪師のなかには聖者も、聖者ではない人も両方いる。通常、無償対応してくれるのは聖者だけだ。

「どうでしょう。あなたは私とヘイラに行く。代わりに、その子の呪いをあなたが解くというのは?」

「えっ……。えっ……⁉」

 ウルルはひゅっと息を飲んだ。

「いや、む、無理です……。だって俺はっ、解呪の方法なんて、知らないしっ……」

「簡単です」

 スヴィカはにっこりと笑う。

「私は聖者です。だから呪い――バルブンには、その反対である聖なる力――ヘイラグをぶつけて中和します。でも、解呪師のなかには逆に呪いの力を呪いにぶつけることで、強制的に打ち消す手法を採る人もいます。ウルル、あなたには強力な呪いの力がある。それを呪いにぶつければいいんです」

「で、でも……。無理、です……。そんなことをしたら、おそろしいことになります……!」

 解放されたウルルの呪いは、誰彼構わず生命力を奪い取り、最悪の場合は死に至らしめることもあるかもしれない。

 聖なる力と呪いの力は、空気中に混ざるエイラから発生するものだ。通常エイラは、呼吸とともに体内に取り込まれて、ヘイラグとなって体に一定期間留まったあとで、徐々に消えてしまう。普通の人でもいくらかは聖なる力、ヘイラグを持っているのだ。むろん、鍛錬によりヘイラグを増幅させる術を身につけた聖者とは、比較にならないほど微量だが。

 ところが心が濁っていると、取り込んだエイラが呪いに変わる。心が濁ったままだと、膨れ上がることがある。呪いは侵された人の体を蝕み、体調不良を起こす。大きなものになると、死を招くことさえある。強大な呪いに侵された人は、他人を呪うこともできるようになる。――ウルルの呪いが、人の生命力を奪い取ってしまうように。

 呪われた人を癒してもとの状態に戻してやるのが解呪師たちだ。解呪を必要とする人と解呪師をつなぐために、メーフェがある。

「大丈夫です」

 スヴィカが力強く請け合う。

「私があなたをサポートします。私の言うとおりにすれば、呪いが暴走することはないから安心して」

「でも……」

 なおも戸惑うウルルに、スヴィカはふと口もとを引き締めた。

「怖い……ですよね。でも、何事も挑戦してみないと。ずっと呪いをおそれて、生きていくことになります。ウルルは、それでいいんですか?」

 詰問するような厳しい口調ではなかったけれど、スヴィカの言葉は、いくつもの鋭いガラスの切っ先のように胸に刺さった。

 ずっと呪いをおそれて、生きていく。

 そうするのが普通だと思っていた。自分の運命だとあきらめてもいた。

 だけど、だけど――。

 スヴィカに巡り合えたのは、幸運ではないか。十二年に一度しか開かれない聖地、しかも、開かれたとしても特別な人しか立ち入ることができない場所に入り、世界最強の浄化を受けることができるなんて――。

「よくない、です」

 本当は自分だって、呪いを解きたい。呪いをおそれることなく、好きな場所に居ついて、人とかかわりながら生きていくほうを選びたい。

 これは千載一遇のチャンスだ。自分にとっても、まるで地獄で裁きを待つ人の列のように、自分のあとに連綿と続いていくであろう、次世代の封じ子たちにとっても。

 怖いけれど挑戦しないと、まえに進めない。スヴィカの言葉どおりだ。

「……やって、みます。俺に解呪を教えてください」

 そう返事をするとき、ウルルの声はすこしだけ震えた。スヴィカには伝わらなかったほどに、かすかに。色よい返事に、スヴィカはほっとした表情をした。

「よかった。ではさっそく、メーフェの事務所に行ってみましょう。たしかの役所の近くに事務所があるのを見ました。ここは小さな町ですが、事務所があってよかったですね」

 決断したあとで、とんでもないことを口走ってしまったと後悔する。スヴィカがさっそく席を立ち、笑みを向けながらウルルを優しくうながすので、いまさら発言を引っ込めるわけにはいかなくなってしまった。

 ウルルはこれから、一人の少女の命運を背負うことになる。

 もし解呪が失敗したら、母親は残念がってウルルをなじるかもしれない。けれど、それだけで済むのならいくらなじられてもいい。仮に呪力が暴走して、まわりにいる人の命を奪う結果になってしまったら――。もしも、少女を死に至らしめてしまったら――。

 ぶるっと背中が震えた。悲惨すぎる結末など、考えたくもない。

 スヴィカについてメーフェ事務所へと向かう間、ウルルの心臓は、極度の緊張からくる、いやな収縮を繰り返した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る