嘘つき聖者に兎の呪いは解けません

森野稀子

第一章 第一話

 冴えた冷気を含んだ風に、銀の髪がなぶられる。

 ウルル・カニーナは、草原を遠くのほうまで見渡した。ほとんど透明に近い水色の瞳に、深い緑が映える。草地はどこまでも続き、やがてその端が地平線と一体となるところがある。草の緑色と空の薄青色の境目から、黄色い太陽が顔をのぞかせた。

 ウルルは白いボア付きのベストと、一体になったフードを目深にかぶりなおす。足もとに置いてあったリュックを背負い、太陽に背を向けて真逆の方角へと歩き出した。

 海岸線沿いに草地を歩く。

 海岸は急峻で、高い谷壁となっている。時おり打ちつける荒波が、長い年月をかけて形成した入り江だ。入り江は、狭い範囲で出っ張っているところと削れているところの差が激しく、まるで鰐目の歯並びのように、複雑な線を描いている。

 ウルルが二時間も歩くと、徐々に町が見えてきた。赤、青など色とりどりの、傾斜のきつい屋根がいくつも目に飛び込んでくる。ウルルは手もとの地図をたしかめる。間違いない。あそこがアラネスの港町だ。アラネスにしばらく滞在しようと決めて、ウルルはさっそく、宿探しにかかることにした。数日間だけの滞在だから、部屋は最低限の大きさで、体を横たえられるところさえあればいい。

 アラネスの人口はさほど多くはない。自然に恵まれ、漁業が盛んな町だ。ウルルがほんのすこしだけのぞき見をしようと立ち寄った魚市場は活況で、行き交う人々の顔にも活力がみなぎる。こぢんまりとしているが、住みやすそうないい場所だという感じがした。

 旅を続ける義務を負ったウルルにとっては、定住するさきなど、夢のまた夢の話だが。

 市場を歩いていて、母子と行き合った。母親は娘を伴い、足早にウルルの隣を行き過ぎようとする。娘は年のころからして、七歳くらいだろうか。母の歩みについていけなかったのだろう。ウルルの隣で、少女はつまづき転んでしまった。

「あ、大丈夫……?」

 ウルルが手を差し伸べようとしたところで、フードにしまってある兎の耳が、ぴくりと反応した。なにかとてつもなく、禍々しい気配を感じる。気配は、少女から発せられている。町の人たちは付近の異変に気づくでもなく、ウルルの横を素通りしていく。

(――呪いだ……。それも、ものすごく大きな……)

 おののいたウルルの、差し出した手の行き場がない。手はふらふらと中空をさまよった。

「もう、気をつけなさいな」

「だ、だってぇ……」

 ウルルが助け起こすよりもさきに、振り返り戻ってきた母親が少女の脇を支えて体を起こした。少女と触れ合う機会を逸して、ウルルはほっとした。

 親子が歩み去ろうとするとき、母親のほうは鋭いまなざしでウルルをきゅっと見据えた。にらまれている、と言っても差支えはない目線で、ウルルの身がすくんだ。

「行きましょう」

 鋭い視線に戸惑い、何事か言わなければとあわてたウルルを残し、親子は歩み去った。

 ――どうして助け起こしてくれないの?

 あの母の目はそう――。たしかにウルルに問いかけていた。

 ――私の子どもが呪われているから?

 ――自分にも呪いがうつったら、ごめんだと思ったから?

「……違うっ……」

 もう親子は、ウルルの声など届かないほど遠くへ行ってしまったのに。たまらず否定の言葉が口から漏れた。

「違うんです。俺は……」

 子どもの呪いがうつるのが怖くて、手を差し伸べられなかったのではない。

 あの子どもに、強大な呪いがかかっていることに気づいてしまったから。それでウルルの心が一瞬、乱れたから。

 自分のなかの呪いが暴れ出して、あの子になにか悪さをしてしまうんじゃないかと怯えて、それで手が出せなくなったのだ。

 ウルルは他人との接触を極端におそれている。それは、ウルルに強大な呪いがかかっているからだ。

 ウルルの呪いは、人の生命力を吸い取る呪いなのだ。ウルルが心を乱すと呪いは、たちまちその狭間から漏れ出し、誰彼構わずおそってしまう。

 呪いはウルルの背負う宿痾だ。いや、ウルルだけではない。この世の創世期より、ウルルの一族すべてが背負ってきた、悪しき負の重罰とでも言うべきもの――。


 途中の売店に、サンドイッチの昼食を買うために立ち寄った。ガラスケースに並べられたひとつを指さして包んでもらう。ウルルの好物である蜂蜜入りのマスタードが塗られた、鶏ハムのサンドイッチだ。故郷の母は、ウルルの好物を心得ていて、よく食卓に出してくれた。それをなつかしんで、好物があるとつい、そればかりを選んでしまう。

 ケース越しにお店の人が、ウルルにじいっと視線を注ぐ。何事か言いたそうな気配を感じてウルルは、目線を落としてひたすら、話しかけにくい人を装った。

「お兄さん、美人だねえ。ひょっとして巡業の俳優さんだったりする?」

 会話を避けたつもりだったのに。商品の入った紙袋を手渡すとき、にこにこと満面の笑みを浮かべたお店の人に、とうとう話しかけられてしまった。

 肩まで届くたっぷりとした銀色の髪。前髪は作らず、無精で伸ばしたままだ。透きとおった空の色がそのまま転写されたような瞳に、つん、とつまみ上げて形成したような尖った鼻。小さな唇は桃色に色づいてぷくりと膨らんでいる。

 質素なチュニックに、ボア付きのベスト。下には細身のズボンを穿いて、ロングブーツに裾を押し込めている。体に沿う旅装が、信じられないほど伸びやかな四肢を引き立てる。

 ウルルはもとの姿形が抜きんでているのだ。華美な服装でなくとも、顔つき、体つきのよさが自然と知れる。それと、ウルルは兎の獣人にしては背が高い。フードで耳を覆い、尻尾をズボンにしまっていれば、人間であると疑われることはないだろう。

 行く先々でウルルの美貌は目を引くようで、立ち寄った店の人や通りすがりの人によく、うつくしいとほめられる。そのたびにどう反応していいのかわからず、ウルルはいたたまれない気分になるのだ。

「あ……いえ……」

 ウルルはすばやく紙袋を受け取り、もごもごと口中で礼を述べてからそそくさと、逃げるようにして立ち去った。

 手早くチェックインを済ませて、ウルルは宿の一室にその身を落ち着けた。ずっとかぶっていたフードを下ろす。分厚い布地に押し込められていた青い兎の耳がぴょんと飛び出した。解放されて喜んでいるみたいに左右にゆれる。

 寝台に腰かけてようやくひと心地つく。

 最低料金なので、狭いシャワーと洗面台と、ベッドのほかには特になにもない、粗末な部屋だ。それでも、雨風を防げるところであるならありがたい。

 ウルルはひそやかに手を合わせて、昼餉にありつける短い感謝の祈りをウルティマフ神に捧げると、三角形の端にかじりついた。

「……⁉」

 瞬間、涙が出た。パンに塗られていたマスタードが辛すぎて、びりっとウルルの鼻腔を刺激したのだ。

「辛い……!」

 慌てると、普段は人間の理性で制御している獣の本能がひょこっと飛び出てきてしまう。とっさに嗅覚が兎に切り替わってしまい、つーんとするマスタードのにおいが何倍にも強烈な刺激臭となって、ウルルの鼻腔を刺した。

 ひーん、と涙目になりながら、同じく売店で購入したカフェオレの瓶を開けて、ひりつく鼻と喉を鎮める。急いで飲み下したので、盛大にむせてしまった。

 ようやく喉が落ち着いたところで、目にじわっと涙が浮かぶ。

 ウルルは長い長い旅の途中にある。いつ終わるとも知れない――おそらくはウルルがだいぶ年を取って、一人で歩いてまわるのが困難になったときにようやく、終わりを迎える長い旅だ。

 同伴者はおらず、旅先ではだれとも交流することはなく。食事も、眠るのも一人の孤独な旅だ。だからせめて、せっかくの昼食くらいはおいしく味わって食べたかったのに。昼餉にありつけた感謝を、きちんとウルティマフ神に捧げたのに。マスタードで鼻を刺された。

 やっぱり神さまはウルルたち一族のことを嫌いなのだろうか。いまでも怒っているのだろうか。だからウルルは、こんなひどい目に遭うのだろうか。

 目に盛り上がった涙をそっとちり紙で拭いて、ウルルは過剰に塗られたマスタードをパンの腹から指でぬぐい落とした。

 ウルティマフ神はこの世界――ウルブスヨルズゥルの創世神にして、世界教であるノールリオス教の唯一神だ。ウルティマフは太古の昔、この世に人間、獣人、獣の三族を産み落としたと言われている。

 獣人は人でありながら、その体に獣の特徴を宿す者だ。原種となった獣と同じ耳と尻尾を持ち、獣の身体能力を発揮できる。どういう能力があらわれるかは、その人次第だ。獣の五感を使いこなせる者もいれば、俊足や怪力など、人間とはかけ離れた身体能力を発揮できる者もいる。

 ウルルは兎の獣人だ。青い毛並みの耳と尻尾を持つ。

 兎の獣人のなかでも、青い毛並みはブローフ族に特有のものだ。ブローフはこの世の黎明期、ウルティマフ神の怒りを買ってしまった。それで罰として、強大な呪いを背負わされることになったのだ。その呪いは世界に滞留していた、行き場のない呪いだったと伝わっている。

 なにしろ、世界全土に広がっていた呪いをかき集めたのだ。その力は強大すぎて、とても浄化できない。ウルティマフ神も呪いを消すのに力は貸してくれず、代わりに兎の獣人の身に、呪いを封じ込めた。以来、初代から二代目へ、二代目からからまたその次の人へ、呪いは継承されてきた。ウルルたちの一族は千年もの長きに渡り、この呪いを受け継いできたのだ。

 呪いの受け継ぎ手は、封じ子と呼ばれる。

 まえの封じ子が高齢で引退することになり、ウルルたち若い世代から次の封じ子が選出されることになった。それはいまから八年前――ウルルが十四歳のときだ。

 封じ子に選ばれたのは、ウルルの幼なじみのルクシュだった。

 伝統的に、くじ引きというきわめて公平でありながらなんとも理不尽な方法で選ばれる。名前が呼ばれたときのあのルクシュの顔――。いまでも思い出すだけで、ウルルの背筋が震える。

 青ざめ、絶望し、意識が真っ白に遠のいて行きそうになる、あの顔――。

 自分でもどうしてそんなことをしたのか。考えても考えても、ウルルにはわからない。けれどルクシュの表情を見ていたらもう矢も楯もたまらず、ウルルは手を挙げて、封じ子へと立候補していた。代理での引き受けはくじの結果よりも優先される。

 呪いを引き受けたことを、後悔はしている。一人の旅がこれほどつらく苦しいものだとは思わなかったのだ。

 旅先で立ち寄る店や宿泊施設での、人との会話は最小限。だれともかかわりを持たず、ひとつのところには長くは留まれず、ひたすら移動を続ける。その間も、心おだやかに過ごすことが求められる。それが封じ子の掟だからだ。

 呪いは心に封じられている。ウルルが怒ったり、悲しんだり。なにかしら感情を乱されることがあると、心の鍵がはずれてたちまち、呪いが漏れ出してくると言われている。だからウルティマフ神の加護に感謝をしながら。いつか怒りを解いて、呪いを消してくださることを祈りながら。封じ子は果てしない旅路を歩くのだ。呪いを抱えていることを知られたくなくて、ブローフ族であることを周囲には隠しながら。

 青い毛並みの兎の獣人に封じ子がいることは、この世界の者ならばだれもが知っている。知っていて、人々は呪いの担い手を極度におそれる。一族でさえ、悪しきものを背負った封じ子を、集団から切り離すのだ。封じ子に同情して、こころよく受け入れてくれる人など、いようはずもない。

 故郷ブロトルフの外で封じ子が、どういうふうにとらえられているのか。ウルルは厳密には知らなかった。だからはじめは人まえでも平気で、耳や尻尾をさらしてしまうことがあった。

 呪われた兎だ――!

 ある日立ち寄った町で、ウルルを見かけただれかが叫んだ。とたんに人々は恐怖にかられ、散っていく。通りから人の姿が消えた。昼の時間帯なのに店は戸締りをして、店主たちは居留守を決め込んでいる。ウルルがいくら扉をノックしても、何軒まわっても、応答はなかった。

 呪いを怒らせたら一大事だ。だから恐怖にかられた人は正面切って、町から出ていけとは言えない。その代わりウルルのことを避けて、どうにか過ぎ去ってくれないかと怯えながらやり過ごす。廃墟と化したような町じゅうをウルルは途方に暮れて歩いた。どれほど呼びかけても、だれもウルルの声に応えてくれない。

 備蓄の食糧が尽き、一日以上歩き続けて、ようやくたどり着いた町だった。喉が渇いていて、お腹が空いていた。それでもウルルに、水や食事を提供してくれる人はいなかった。

 もうここにいても、どうしようもない。

 きゅうきゅうと鳴る腹と、張りつきそうな喉の渇きを抱えながら、ウルルは命がけで、次の町を目指した。ブローフ族であることが知れたら、ウルルは突然、透明人間になったかのように扱われるのだと思い知った。

 もう二度と、兎の獣人だとは気づかれないように。一度、餓死寸前の危険を味わって以来ウルルは、外にいるときには徹底してフードで耳を隠し、尻尾はズボンのなかに隠すようになった。

 だれとも会話しない旅路はつらい。だが、それよりももっとつらいのは、封じ子になったとたんに同族ですら、ウルルのことを遠巻きにするようになったことだった。

 いや、同族だからこそかもしれない。呪いのおそろしさを知っているだけに、力をおそれてだれもウルルに近づこうとしない。

 まえの封じ子から呪いを継承する儀式を終えていよいよ、一族とともに暮らしたブロトルフ村を離れて一人旅へと出発するその日。村の人たちは一応、見送りはしてくれた。けれど、それは封じ子選出の儀式の一環だからだ。心のどこかでは、封じ子がいなくなってくれてほっとしていたのだろう。

 息子との別れがあまりにもつらく、両親は二人そろって起き上がれないほどの状態で、見送りにさえ来られなかった。封じ子は一族に解任の申し出をして、それが認められるまで、もう二度と、故郷に戻ることが許されない。通常は、高齢である以外の理由は通らない。ウルルも両親も、その掟は心得ている。お互いにこれが、永劫の別れであることを悟っている。

 見送りに来た町の人たちも、友だちも、身代わりになってもらったルクシュでさえも。一族の背負った使命のために、これから一人旅立つウルルのことを、だれも抱きしめてはくれなかった。

 でも、これでいいのだとも思う。

 だれかが傷つくところを見るくらいなら、自分が傷ついたほうがいい。それがウルルの信条だからだ。

 封じ子に選ばれたルクシュの傷ついた顔を見ているのは、胸が張り裂けそうにつらかった。自分が身代わりになることで、ルクシュは救われる。自分が封じ子でいる間は、ほかに封じ子が選ばれることはない。一族のみんなもそのほうが幸せだろう。自分が犠牲になることで、救われる人たちがいる。守れる人たちがいる。それが孤独な旅を続けるウルルを支える、ささやかな矜持だった。

 でも時おり、正しいことをしているのか、わからなくなる。

 どうして神さまは、ブローフ族にだけこんな呪いを背負わせたんだろう。永遠に背負い続ける呪いを負わせるなど、神はどうしてそこまでお怒りになったのだろう。

(もう、許してくれたっていいでしょう。だって千年も苦しんだんだから)

 ウルルはそう、ウルティマフ神に問いかけたくなる。千年もの間ずっと、呪いを請け負うだれかがいた。その人は一族から引き離され、孤独な一生を終えてきた。どうしてブローフ族だけ。どうして自分だけ。

 答えのない疑問について考え続けていると、暗い気持ちになる。マスタードで刺激されて、浮かんだ涙はさきほどぬぐったはずなのに。また目に涙が浮かび、大きなアーモンド型の目が、湖面のように潤む。

 悩むと、心が乱れる。心が乱れると、呪いが漏れ出してくる。

 だから泣いちゃだめだ。嘆いちゃだめだ。だって、自分で背負うって決めたんだから。

 ウルルはまた涙を拭いて、サンドイッチにかじりついた。

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