映画好きな君
小谷幸久
第1話
平井茜がトラックに吹き飛ばされ、死んだという訃報を聞いた時に僕が思ったことは、これがフィクションの映画ならいいのにという事だった。
僕も葬式に出れるものなら出たかったが、トラックに跳ねられた遺体はもはや人の原型を留めていないらしく、そのためか葬式は親族内でささやかに行われたらしい。
僕は今日も当然、学校に行っていた。学校では平井茜の死について短く担任の先生が伝えて、黙祷を捧げた。
事故が起きたのは数日前。
クラスの一同はどこからか、このニュースを聞いていたようで先生からの訃報で驚いたりはせず静かに聞いていた。
黙祷の時に目を開けて、ちらりと周りを見渡した。ある人は目に涙を溜めていたりもして、みんな程度の差こそあれ、平井茜の死を悼んでいた。
僕も目を閉じて、彼女の事を思い返した。
平井茜との出会いは高校一年生のことだった。
入学してクラスに馴染んでしばらくした七月、学校で昼休みに友人の相川が話しかけてきた。友人というより悪友か。
「来週の日曜日に映画を見に行こう」
僕は相川を見て、思うことが三つあった。一つ目が整髪剤がべったりとついた髪が僕の頬に当たっていて気持ちが悪いこと。二つ目がニヤニヤした相川の顔が気持ち悪いこと。三つ目がこの男が僕を遊びに誘う時は大抵面倒な案件であり、やっぱり気持ち悪いと思ったことだ。
入学して二ヶ月ほどだが、僕はこの男に目をつけられたのか平日に学校をサボって遊びに行こうと誘われた事が二回あった。僕が初めて平日に相川と遊びに出かけた日は、くたびれたシャツにジーパンという冴えない服装を着ていたため、サングラスをかけてチャラチャラとした服装で集合場所に来た相川と見比べた時、いじめられっ子といじめっ子のように見えただろう。
相川はやや内向的な気がある僕と違って、友達が多かった。そのため僕は、なぜ僕を平日に連れ出すのかと聞いてみたことがあるが、
「あんま断らなそうだから」
と相川はぶっきらぼうに言った。相川はよくわからない奴だった。
そんな相川が日曜日に僕を遊びに誘うというのは初めてのことだった。
「どういうこと?」
僕は聞いた。
「どういうことって?」
相川は不思議そうに答えた。
「お前が僕を遊びに誘うのは平日だと思ってた」
僕だって、友人と遊ぶのは基本的に放課後か休日なのは知っている。そんな僕にこんな疑問を持たせる相川に苛立った。
「横のクラスの平井さんっていうめっちゃ可愛い女の子を映画に誘ったんだよ。二人だと嫌だっていうから男二人とあっちの知り合い誘って男女二人ずつで行こうって話になったんだ」
「なるほど」
僕を誘った理由が腑に落ちるとともに、相川がニヤニヤと気持ち悪い顔をしていた理由もわかった。
相川はニヤニヤしたまま喋り続けた。
「その平井さんと映画に行くにあたって、映画鑑賞が趣味なお前を誘ったというわけだ。格好いいやつを連れて行ったら平井さんがそいつに惚れてしまう可能性があることも考慮してお前が適任だ」
何故か小馬鹿にされた僕は相川の胸ぐらに掴みかかろうとしたが、昼休み終了の予鈴が僕を制止した。
翌週の日曜日。
待ち合わせの時間より早く、待ち合わせ場所である駅前の噴水の近くに相川と待ち合わせをした。休日の駅前は人の往来が激しく、逃げるように噴水の近くのベンチに腰掛けた。携帯電話の液晶で時間を確認しようとしたが噴水から水滴が飛んできたため、僕は噴水から少し離れた場所で相川を待つことにした。僕も少しだけ気分が上がっており、服屋の店員に組み合わせを考えてもらったりして清潔感のある服装を選んで待ち合わせ場所に来た。僕は相川が普段のようなヤンキーっぽい服装で来ると思ったが、そこに表れた相川はサングラスなど着けておらず白と黒の落ち着いた服装でやってきた。不思議に思って相川に尋ねると、
「あんなダサいのつけてられるか」
と言われた。僕はじゃあ、何でいつもわざわざサングラスを着けてくるのと質問したかったが、辞めた。どうせしょうもない理由だと思ったからだ。
果たして、二人の女性陣が到着した。僕は平井の事を知らなかったのだが、もう片方の子には失礼だが平井という名の子が可愛いという下馬評があったため、どちらが平井かは一目で分かった。男性陣と女性陣で交互に自己紹介をした。口下手な僕は短く趣味は映画鑑賞であるとだけ話した。相川は「趣味は古寺巡りと坐禅です」と言って、女性陣の笑いを誘っていた。僕はほぼ初対面の人から笑いを取ろうとする根性がすごいなと感心した。ちなみに相川は古寺巡りや坐禅などは一切、嗜んでいない。
次に女性陣が自己紹介をした。やはり、可愛い方が平井茜で、もう片方の子が増田と名乗った。
「平井茜です。趣味は映画鑑賞と小説を読むことです。今日はよろしくお願いします」
平井茜は柔らかい笑顔を浮かべながら馬鹿真面目にそう言った。平井は白いワンピースを着ていて、目鼻立ちがしっかりしていて、目はぱっちりと大きい。前髪は短く切り揃えられていて、後ろ髪は肩まで伸ばしている。彼女は某魔法映画のヒロインの日本版といった感じで、おとなしそうでありながらまだあどけなさを残した可愛らしい顔立ちだった。確かに、相川が騒ぐのも分かるくらいの美少女だ。駅前の広場の一角を間違いなく彼女は照らしていた。それは言い過ぎかもしれない。
僕らはその場でしばし談笑してから、駅に直結しているショッピングモールの映画館へと移動した。僕らは何の映画を見るか特に決めておらず、話し合いが始まった。
最初に相川が流行りのアニメ映画の名前を出した。
「それもう見ちゃった」
平井がそう言った。実は僕ももう見ていた。
「じゃあ、あれはアイドルがやってるやつ」
そう言って、平井じゃない方の女の子が映画館の壁にかけている大きい邦画の恋愛映画の広告を指差した。
「んー、でもなー」
相川が渋った。もしかしたら、ヒーロー役を演じているアイドル兼イケメン俳優を嫌がったのかもしれない。僕は辺りを見回した。
「じゃ、あれはどうかな?」
みんなの視線が僕の指差した方向に集まった。
結局、僕らは僕が提案した洋楽の映画を見た。海外の往年の名作推理小説の実写映画の字幕付きのものだ。僕含めて四人とも面白かったのか面白くなかったのかすらよく分からなかったような渋い顔で席を立った。
「これからどうしようか?」
相川が映画館の壁にかかっている恋愛映画の看板にもたれかかりながら言った。
「とりあえずご飯にしない?」
増田が言った言葉にみんな賛同し、僕らは映画館から出た。
しばらく歩いて、ショッピングモールの中のファミレスに入った。
これとこれとこれ、と相川が率先して注文をまとめ、店員にメニューに指差しで伝えていた。
「じゃ、ドリンクバー取ってくる」
相川がそう言って席を立った。日曜日のショッピングモールはひどく混み合っていて、人の間を縫って歩き、店に辿り着き、席を取ってからようやく肩の力を抜くことができた。
「ごめんね、あの映画あんまり興味無かったよね」
僕は四人掛けの席で正面に座っている女子二人に話しかけた。
「別にそんな事ないよ、面白かった」
平井は背もたれから体を離して笑いながら言った。何だか無理をさせているように感じて、いたたまれない気持ちになった僕に気づいたのか、平井は続けた。
「まあ、少し字幕見ながらだから疲れたけど、実際、私もあの映画気になってたんだよ」
僕は平井の言葉を聞いて安心しつつも驚いた。
「え、本当に?あんま話題になってなかったよね?」
「私、海を渡ってくる映画は基本的に面白いと思ってるから」
返答になってない。そのまま平井は続けた。
「私、小さい頃からよく映画を見に行ってたんだけど、いっぱい映画を見ているとどうしてもハズレを引くことがあるわけですよ」
平井の口調に熱が籠り始めた。横に座る増田はやれやれと言った感じで首を振った。僕は平井の変貌に困惑しつつも面白いと思った。
「好きな小説が実写化されるって知ってから楽しみに数ヶ月待って、いざ映画館に行ったら原作には無い恋愛要素を絡めたせいでストーリーがぐちゃぐちゃになってたんだよ。その時の私の気分の落ち方は凄かったよ。今まで楽しみにしてきたのはこれだったのか、ってね。映画を見た後にチケットを切っている係員の人に、今六番シアターで上映されていたのは本当にあの映画でしたかと聞いたくらいだよ。それ以降私は邦画は基本的に評判を確認してから見に行くようにしているの」
「で、さっきの海を越えたから何だっていうのは?」
僕はさっき気になった部分を質問した。
「つまりは、洋画は海を越える段階である程度のフィルタリングがされるってこと。洋画の場合つまらない作品は日本に来る前に細々と消えていくからね。実際、今日見た映画は原作読んだことは無かったけど、なかなか面白いと思ったよ。邦画の場合は前情報無しで行くと体感値二十五%くらいでつまらないから」
「なるほどね」
僕は理解できたような、できていないような不思議な感覚になった。とりあえず口に出た言葉はなるほどね、だった。
「君はどんな映画が好きなの?」
唐突に平井が僕に問いを飛ばしてきた。
「えっと、僕はハリウッドのノンフィクションものとかが好きかな。特に見る映画のジャンルとかは無いけど」
「それはどうして?」
間髪入れず聞き返してきた。ここら辺で僕は平井茜という人間は全然おとなしいタイプの人間では無い事を悟った。相川もすでにジュースを持ってきており、おとなしそうなさっきまでの平井の印象との違いからか困惑しており、僕と平井の顔を交互に見てから席についた。
「ノンフィクションものはモデルになった人がいるわけじゃないか。だから、逆境から這い上がる様や悲しみから立ち上がる様を見る時完全なフィクションのものより感動できる気がするんだ」
「見た後、Wikipedia でモデルの人を調べてみたりしてね」
「そうそう」
僕らは二人して笑った。
平井は僕に対して色々な質問をした。「アクションは好きか?邦画では何が一番好きか?映画館にはどのくらいの頻度で足を運ぶのか?」など彼女は知りたがりなようで、ひたすら質問を投げかけた。質問を受けている僕はさながら探偵にアリバイを細かく聞かれる被疑者のような心持ちになった。彼女があまりに質問するものだから「茜、そのくらいにしときな」と増田が見かねて静止する形でこの尋問は終わった。少し不満げな平井を見ると止められなかったら何時間質問され続けるのだろうかと思い、心の中で増田に感謝した。それから僕らの席に料理が運ばれ、食べてから、ぶらりとショッピングモールを歩いた。相川は解散する時に、何でお前の方が仲良くなるんだよと苦笑していたくらいに僕と平井はあの一日で打ち解けた。
それから僕らは度々、映画を映画館に見に行った。僕が好きだと言ったノンフィクション物が大半だったが、色々なジャンルの作品を見た。平井の映画となると普段と違って熱くなるという特徴は僕にとっては好意的に映った。僕も彼女は結構ディープな映画まで知っていて、話し合える同志ができたから嬉しかったし、彼女もきっとそうだったんだろう。映画通なんて、まず学年に数人いるかいないかだ。そんな調子で二年生でクラスも一緒になってからは、更に頻繁に喋るようになった。そのため、クラスメイトの男子から関係を勘繰られたことも一度や二度では無い。
あの事故の日も僕らは期末考査が終わった記念に映画を見に行ったのだ。そう、僕と平井が駅前で別れてすぐに彼女はトラックに轢かれた。
駅前で別れた後、僕は近くの本屋で本を買ってから帰った。僕は本屋から出た時、確かに救急車のサイレン音を聞いていた。後から分かった事だが、それがまさに平井を運ぶために呼ばれた救急車だった。勿論、それと平井の死を結びつけることなんてなかった。だって、ついさっきまで一緒にいた人がトラックに轢かれて死ぬなんて、誰も思わないだろう。
気づけば黙祷の時間は終わっていて、みんな着席しており僕は慌てて席についた。
平井のいた席を見た。平井がいた机の上には花瓶があり、静かでおとなしそうな白い花は人を弔うのにぴったりだなと思った。窓の外を見ると雨が降り始めている。今日は傘を持ってきていただろうか。
いつのまにか、午前の授業が終わっていた。僕は周りのみんなが弁当箱を開け始めたくらいで、ようやく我に帰った。窓の外を見ていただけで四時間も経っていたことに驚いたが、雨が土砂降りになっていることに気づいていなかったので外の情報すらキャッチできていなかったらしくて面白い。
僕も弁当箱を取り出して食べ始めた。口に入る物の味があまり感じられなかった。まるで梅雨の気候のせいで食べ物全部が雨の味に変えられてしまったかのようだ。
騒がしく校内放送が流れ出した。流行りのアイドルの曲が流れ始め、クラスの何人かが楽しそうに喋っている。
僕は弁当を食べ終わると、また窓の外を眺めた。窓ガラスに雨が叩きつけられて遠くが見えなくなっていた。僕は机に突っ伏して授業が始まるのを待った。
五時間目の授業が始まった。教科は数学で僕は教科書を出して板書だけ取りつつ、授業を受けていた。途中、教師が生徒を指名し問題の答えを答えさせた。運悪く僕が指されたが、授業を上の空で聞いていたため、どこの問題を問われているのかすらわからず、とりあえず「わかりません」とだけ言って座り教室の皆が笑った。
六時間目は体育だったが、外は雨が降っていたので教室で自習になった。
「来年、お前らも受験生なんだから、将来見据えなきゃならんぞ」
と先生が言ってから各々自習となったが何人かが突っ伏して寝ていたため僕も寝ることにした。わざわざ授業の時間を使って与えられた自習の時間を眠りに割くような奴は将来を見据えていない奴だと思った。もちろん僕もだ。そんな事を考えながら僕は浅い眠りについた。
授業が終わった後、横から声をかけられた。相川だ。
「今日、一緒に帰ろうぜ」
断る理由も無かったのでうんとも言わず首を縦に振ることで肯定の意を示した。上から下まで相川の様子を見てみる。相川は何も変わっていない。不健康さもなく今にも死にそうな気配もない。僕は相川が平井を遊びに誘ったこともあったので、ある程度は平井の死にショックを受けているだろうと思って観察するも変わった様子を感じなかった。
ホームルームが終わり相川と共に昇降口へ。
「げ、雨強すぎんだろ」
相川は傘掛けからビニール傘を引き抜きながら言った。僕は置き傘がないことを確認して、バッグから折り畳み傘を取り出した。僕は黒い折り畳み傘を広げるが今日の濁流のように轟々と音を立てて降る雨に対しては、あまりにも心許ない武器だと思った。相川と並んで歩き出す。会話は無い。僕は横にいる相川の顔を伺った。普段だったら相川がほぼ一方的に喋り僕が少し返事をするという感じだから不思議に思ったのだ。ただ校門を過ぎた所で相川が一言、はっきりと言った。
「ちょっと、寄り道してくぞ」
校門から出ると、生徒は一列に並んで帰らないといけない。通学路は狭いから通行人が通る道を確保しないといけないからだ。そのため顔を上げると色とりどりの傘が一直線に続いているように見える。僕はどす黒い空の色も相まって、妖怪が夜に列をなして徘徊するという百鬼夜行の絵を連想した。僕は今日の横殴りの雨を折り畳み傘ではガードしきれず、ズボンがずぶ濡れになってしまう事を懸念しながら相川の背中についていった。
通学路では雨音と雨音に負けないレベルの声量で喋る学生の声しか聞こえなかった。音は無遠慮に僕の耳に侵入し、必要ない情報を与えてくる。しかし、今の僕には何もかも淡白に感じられた。傘によってではなく何か、別の正体が分からない大きな不安が僕の頭を支配し、別の情報が僕の心を揺らすことから守っていた。
傘の流れに従って歩いていると駅に着いていた。だけど、傘の群れから外れて相川は無言でその先へと進んで行った。そして、そこで止まった。
「平井が轢かれた場所か…」
僕は無意識に声を出していた。そこはあの日、僕と映画を見た帰りに平井が轢かれた交差点だった。駅の前とあって人の往来が激しく、全員が今日の雨に嫌気がさしたのか不快そうな顔をしているように見える。周りを見ると交差点の端には花が置かれていて、今日の雨に浸かってしまったからか、花びらがとれかかっている。言わずもがな平井に捧げられたものだろう。僕らは交差点を渡った。僕はどこらへんで平井は轢かれたのだろうと思って周りを見渡しながら歩いた。
あの日、平井に何ら過失はなかったらしい。普通に青信号で渡り、そして轢かれた。
あの一見おとなしそうな雰囲気を纏っているが映画となると止まらなくなる平井の死は僕の心に、ある真理を教えた。人は呆気なく死ぬという誰でも知っているようで、つい忘れてしまいがちな真理。僕と別れて、すぐ彼女は死んだ。彼女の人生は僕と出会う前から始まっていた。十七年間は彼女にとって決して短く無い時間だったはずだ。なのに彼女の体は刹那の十五トンの質量との邂逅でいとも簡単に壊された。死との親しさと命の脆さが今の僕には実感をもって、感じられる。そして、僕は平井より自分の生命力が強いとは思えない。つまり、今この瞬間に僕が死んでも何もおかしい事は無い…
ふと、僕は今この場所で一体何人が平井茜の事を知っているのか気になった。せめて、この道路で数日前に女の子が死んだという事を知っている人は何人いるのだろうか。僕は平井に捧げられて、雨に溺れている花束に目をやった。あの花を見れば、この交差点で以前事故があったと推測するのは容易だ。でも、そう推測して心の中で一瞬でもここで死んだ誰かを思い心を痛める人が何人いるだろうか?
僕らは死が身近すぎて死の身近さに対して感覚が麻痺しているのだろうか?なんだか逆説的な話だ。だって、僕らの周りにはそこかしこに死を感じる要素があるではないか。〇〇家葬儀式場と書かれた看板や生き物の命を味わう時、そして僕とすれ違った、今は生きている人間にさえ!
僕らは生まれてから、ずっと死とは切り離すことはできない。死は亡霊のように僕らについてまわる。そして、いつか僕らは不意に生を刈り取られ、死と同化する。そして、死と同化した体は骨になり悠久の時を過ごす。そう考えると、生き物にとって、生より寧ろ死の方が相応しいのではないか。
とっくに交差点を渡り終えた僕らは交差点の前で立ち尽くしていた。信号は赤になっており、信号が変わるのを待つ人が無秩序に立っている。通行人が邪魔そうに相川を見ているのに気づいて、ようやく僕らが通行を阻害しているのに気づいた。
「なあ、相川…」
僕は相川に声をかけようとして、気づいた。相川は傘を下ろし空を仰ぎながら、泣いていた。相川が口をぱくぱくと動かしていた。
「俺、平井さんのこと本当に好きだった」
その瞬間に相川の感情が決壊した。
相川は肩を揺らしながら、小さく消え入りそうな声で呻くように泣いた。
僕は相川が普段と様子が変わらないように見えたが、それは間違いだったことに気づいた。相川は二度と平井に会えないという悲しい現実に心が潰されるのを必死に耐えていた状態だった。だけど平井が死んだ事故現場を確認することで悲しみが溢れ出したのだ。相川は膝から崩れ落ちてひたすら泣いた。声にならないような声で平井の名を呼んでいた。僕は何も言えなかった。僕は口下手だから、気の利いたことなんか言える訳がない。僕らの周りの時間が静止した。一秒が長い。信号が変わって、信号が変わるのを待っていた人達が一斉に歩き出す。相川が地面に座って泣いているのを見た人達はギョッと驚いてから視線を逸らした。みんな気を遣っているのか、僕と相川の周りだけ人がいなかった。僕と相川はしばらくそこにいた。
僕らはしばらくしてそこを離れ、何も喋らずに駅で別れた。相川は全身濡れていて、もはや涙を流していたのは見間違いでただの雨だったのではないかとも思えてくる。僕は折り畳み傘をしまいながら、改札を通った。結局、傘は全く使い物にならなかった。シャツもずぶ濡れになって肌に張り付いており、雨が靴を貫通して靴下を濡らしたことで足が冷たくなっている。
ホームで電車を待っていると突風が吹き、冷たい雨が僕の体に当たった。僕の体にぶわりと鳥肌が立つ。もし、僕が暖を取らずこの冷たい雨にずっと当たっていたら、僕はいつか低体温症とかで死んでしまうのだろう。また僕は死の身近さを感じた。
電車に乗って空いている席が無いか確認する。席はどこも埋まっており、僕は仕方なく吊り革に手をかけた。電車内は今日の気温に合わせて暖かくなっていた。
『君はどんな映画が好きなの?』
頭の中で平井と仲良くなったあの日、平井が僕に問いかけた言葉が何度も反芻された。
あの日、僕はノンフィクションものを好きな理由として、実在する、もしくは、実在した人物が逆境や悲しみの淵から甦る様に惹かれるという事を話した。
『俺、平井さんのこと本当に好きだった。』
そう言った相川の顔はとても傷ついているように見えた。好意を持っていた相手が唐突に死んだのだから当然だ。でも、相川はこれからも生きていく、平井にもう会えないという悲しい事実に潰されてしまいそうなこの辛い時期もきっといつか過去になる。平井への気持ちにいつか折り合いをつけ、前を向いて生きていくのだろう。相川はきっと映画のように、地獄のような悲しみから這い上がれる。
僕はどうだろう…?
僕は平井が死んでから、何か心がふわふわとしている。感情を表に出すこともなく、ただ困惑していて未だ夢の中のような気持ちだ。辛いとか悲しいとかではなく、分からないというどっちつかずな感情で固定されている。僕の感情はずっと不安定な椅子の上に置かれた花瓶が倒れず水を溢れさせずに、不吉に水面が揺れているような状態だった。こんな状態では、どう平井への感情に名前をつけて折り合いをつければいいのか分からない。
あの事故の後、僕は平井の友達で相川と平井と一緒に映画を見に行った増田から平井の事故について連絡が来た。要約すると、平井がトラックに轢かれて病院に運ばれたが、もう体は大きく欠損していて助からないという内容だった。実際の原文はもっと支離滅裂で、長かったのだが。
僕は平井との映画からの帰りの電車に揺られながらこの知らせを受けたが、とても信じられなかった。今さっきまで僕は平井と一緒にいたんだぞ、そんなことあるわけないだろとそう叫びたかった。けれど、本屋を出た時に聞いた救急車の音を思い出し、呼吸が苦しくなった。目眩がしてきて、とても平静を保つことができなかった。横に座っていた五十代くらいの親切そうな女の人が僕の異変に気づいて、背中をゆすってくれた。
「苦しいですか、大丈夫ですか、次の駅で降りましょう」
僕は叫びそうになるのを必死に堪えながら、「大丈夫です、大丈夫です」と言い続けた。
目から熱いものが溢れそうになる。
僕は頭が砕けそうな目眩の中、発狂しないように心の中で念じ続けた。
「平井が死んだ事は何も驚く事じゃない。平井が死んだ事は何も悲しい事じゃない。平井が死んだ事は何も不思議な事じゃない。平井が死んだ事は何も理不尽な事じゃない。…」
心臓が高鳴る。血液が暴れて肌が紅潮する。シャツの胸の部分を掴み、深呼吸しながら感情を殺すように努めた。まともに食らったら立ち直れなそうな悲しみを受け止めるのが怖かった。
そして、しばらくすると唐突に頭が冷静になっていくのを感じた。さっきまでの目眩はどこへやら、平井が死んだという事実を受け入れることができていた。否、受け入れていない。考えないようにしただけ。
結局、僕は最寄りの駅で電車から降りて普通の足取りで家に帰った。
けれど、あの日から僕は自分の感情を表出できていない。
無理矢理押し潰した感情は僕の体の外へ発散されなくなってしまった。僕は心に大きなストレスがかかるのを恐れて、平井が死んだという事実から心を遠ざけた。相川が平井の事故現場を見て感情を溢れさせたように僕も平井の死を受け入れて嘆くべきなのに、現実逃避をする事によって悲しみに対して臆病な僕の心を守ったのだ。僕はノンフィクションものの主人公のように、悲しみの淵から悲しみをバネに生きる事を選べなかった。僕は悲しみの波を浴びるのを拒んだ。結果として、僕の心は喜びも悲しみもない曖昧な領域を揺蕩っている。悲しみを感じない代償、それは無感情だった。以降、僕の心は不安定ながらも落ち着いている。
電車が最寄り駅に着いた。電車を降りると外は冷えきっていたことを思い出させられ、電車との温度差に身震いする。学校の最寄駅に比べて利用者が少ない改札を通り駅を出た。空を見ると雨は止むどころか勢いを増していた。折り畳み傘をバッグから出し、広げる。
夕方の駅前は今日の強い雨の中を歩くのを諦めてタクシーを利用する人が多かった。僕は傘をさし、夕方の雨の中を歩き出した。歩道を歩く人は帰りの時間の学生くらいでまばらだった。横には車道があり車が走っている。ふとした時に車道の水溜りの上をトラックが通って、土を含んだ汚い水が跳ねて右足にかかったが、僕は構わず歩き続けた。どうせ元から濡れていたものだ。
大通りを抜けて住宅街へ。大通りを抜けると途端に車の往来と通行人が少なくなり、僕の耳には雨粒がコンクリートの道路に衝突する音しか聞こえなくなった。雨は相変わらず強く、横殴りだった。僕は精々雨が目に入らないように顔を伏せていた。顔を伏せると視覚から入ってくる情報が少なくなる。すると、僕は、また自然と平井と平井のことを考えていた。
平井とは去年から映画を見にいく中で仲良くなった。普段のおとなしさと打って変わって映画に対して、熱い情熱を持っていた平井は口下手な僕には付き合いやすい相手だった。彼女は僕によく質問した。平井は僕のことに興味を持ってくれた。昔から口下手な僕はいつのまにか人の話を聞く側に回ることが多くなっていたが、彼女の存在は僕が誰にもいうことがなかった映画への情熱を同じ目線で吐き出せる相手だった。
目を伏せて歩いていると、突然大きなクラクションの音が鳴った。僕はびっくりして咄嗟に顔を上げた。急ブレーキで車道を走っていた軽自動車が止まった後、僕の足元を猫が駆けて行った。どうやら猫が轢かれそうになったらしい。車の運転手の男性は走りさる猫を見送り安心したように頬を緩めた。じっと車を見ていた僕と運転手の目が合った。運転手は優しそうな顔で会釈して、車を走らせた。
僕がこの情景を見て平井が車に轢かれたことを連想したのは無理のない話だろう。今、何事もないように走り去っていった猫は運転手の咄嗟の急ブレーキという努力により延命された。いかにも優しそうな男性運転手を思い出す。彼は良識がある大人だろう。生き物を無駄に殺さないように努力していたから。平井は青信号で歩いていて無慈悲に轢かれたのに。平井がひらりと車を躱している様子を妄想した。でも平井は運動ができなかったなと思い出し、そんな事はありえないと思った。胸が苦しい。これ以上、平井のことを考えない方が良い。もう平井が死んだんだ。僕は傘を手放し、シャツの胸の部分を掴んでいた。電車で平井の訃報を聞いた時に感じた大きな悲しみが再燃した。僕は心を握りつぶすようにシャツを強く掴んだ。感情の決壊を起こさないように。
呼吸が浅くなる。涙が出そうだ。
傘を落とした無防備な僕を横殴りの雨が打った。雨の住宅街で蹲っている奴は側から見たら滑稽だろう。
『君はどんな映画が好きなの?』
またこの台詞か。もういいよ。
平井と仲良くなるきっかけになった問いかけ。平井との別れを意識すると、始まりの台詞が僕にリフレインされる。僕と平井の始まりが何回も頭の中で再生される度に、今の僕は吐きそうになる。
僕はせっかく得た悲しみに襲われるチャンスを棒に振ろうとしている。だって、僕にとって平井は大切な存在だったから。きっと平井の死を受け入れられない。
指先が冷えている。体の体温が雨に流されるように下がっている気がする。
けど、血液は沸騰しているかのように熱い。僕の心臓がはち切れそうなほど高鳴っている。不思議な感覚だ。僕の体温は下がっているのに、血は熱くなっている気がする。
僕の首筋に冷たい物が当たったような気がした。きっと、それは雨ではなく僕の生を刈り取りにやってきた死神の鎌だ。僕は死を感じていた。
「大丈夫?」
蹲っていた僕の頭上から声がかかった。
「増田…」
顔を上げると、そこにいたのは平井の友人の増田だった。
「体、具合悪いの?」
増田は傘も刺さずに蹲っていた僕を心配して話しかけてくれたのだろう。僕は過呼吸になっていた事を誤魔化して、早くこの場を離れることにした。
「ありがとう。もう大丈夫」
僕は息を整えながら立ち上がった。一刻も早く立ち去ろうと思い、傘を取ろうと少し屈んだ時に増田が言った。
「私の家ここなんだ。顔色悪いし、服もびしょ濡れだから乾かしてから帰りなよ」
そう言った増田の指は確かに僕が蹲っていた場所のすぐ横を指していた。家は茶色の屋根にクリーム色の壁で、とても温かみのある色彩をしていた。
「いや、でも悪いよ」
「別に大丈夫だよ。それに、そんなびしょ濡れの服で帰ったら風邪引いちゃうから寄って行って」
僕は早くこの場を去ろうと思い、色々な言い訳を言った。しかし、増田の「良いから来な」という言葉と有無を言わせぬ雰囲気に負けて増田の家にお邪魔することになった。
増田の家に入ると、僕はシャツから靴下まで隈なく濡れていることに気づいて床を濡らす事を申し訳なく思った。
「そっちが脱衣所でお風呂。シャツとかは置いといてくれたら乾燥機入れとくから、風呂場に入ったら教えて」
「ありがとう。迷惑かけてごめん」
増田は別に迷惑じゃないと言って僕を脱衣所に案内した。
脱衣所でシャツを脱いで胸に手を置くと、まだ心臓の拍動は早かった。増田との会話で呼吸は落ち着いたが、まだ治りきっていないようだった。
僕が風呂場に入ったと伝えると、増田は僕の服を回収してくれた。
暖かいシャワーを浴びると、改めて僕の体が芯から冷えていたことがわかった。僕は風呂場から出る前に、よく考えたらシャツとかを洗濯してしまったから着替えがないのではないかと懸念したが杞憂だった。増田は着替えとタオルを用意してくれていた。コンセントにはドライヤーが刺さっている。ありがたく使わせてもらおう。
「何から何までありがとう」
僕は増田に言った。
「本当に大丈夫だから」
しつこく感謝の言葉を言いすぎたせいで、やや不機嫌そうな顔で言われてしまった。そんなことを言いながら増田は僕にコーヒーを持って来てくれた。
「本当にありがとう」
「もういいってば」
「でもコーヒーを貰って感謝しないのも変だろ」
「黙って飲めばいいんだよ」
増田はフンと鼻を鳴らしてカフェオレを飲んだ。増田の家族は夜まで帰ってこないらしく、リビングは増田と僕だけだった。僕はリビングを見渡した。風呂場でも思ったけど増田の家はきっと裕福なんだろう。風呂場の浴槽は大きかったし、液晶が大きいテレビやどことなく高そうなスピーカーがある。視線を窓の外に向けると立派な蜜柑の木も生えている。
「あ…」
その中に中学校の卒業式らしい写真があった。そこに写っていたのは増田と平井が卒業式と書かれた看板の前で卒業証書を持っている姿だった。
「茜と私は中学から一緒だから」
僕が写真に目を止めていた事はバレていて増田はそう補足した。僕は平井と増田が中学以来の親友である事は平井から聞いたことがあった。孤児が努力でサッカー選手に成り上がる映画を見た帰りにスポーツの話になったのだ。増田はスポーツが得意でかっこいいけど、平井は自分がスポーツは全くできないと自虐していた。そもそも平井も僕もかなりのインドア派だったから運動はからっきしだった。
僕らは何も喋らなかった。平井は僕と増田の共通の友人だから、僕は平井の話をすれば良いのかもしれないと思ったが、何を発言しても場の空気が悪くなりそうな気がして躊躇った。それに、今の僕は平井の事を考えてはいけない気がする。僕の心を守るために。
リビングは静寂に包まれた。庭に生えている蜜柑の木の葉を雨が打つ音のみが聞こえる。
「茜が死んだなんて今でも信じられないよ」
増田はリビングが静かじゃなかったら聞き逃しそうなほど小さい声でそう言った。僕は何も言えなかった。増田は僕と平井の話をすることにしたらしい。
増田が続けた。
「君はあの日、茜と一緒にいたんだよね?」
「うん…」
「また茜と映画、観にいってたんでしょ」
僕はどう答えればいいのか分からず、首を縦に振って増田の様子を窺った。すると、
「なら仕方ないか」
そう言って、増田は寂しげに小さく笑った。僕は増田の気持ちがよく分からなかった。
「どういう事?」僕は思わず聞いた。
「どういう事って?」増田は聞き返した。
僕は少し聞くのを迷ってから、聞いた
「僕と平井があの日映画に行ってて良かったっていうのはどういう意味?」
増田は少し黙ってから答えた。
「きっと、茜にとって映画の話を共有できるのは君だけだったから、死ぬ直前まで楽しかったんじゃないかなって思って」
それから平井は「別に仕方なくはないか」とまた小さく笑いながら言った。僕は駅前で別れる直前の平井を思い返した。
あの時の平井は、笑っていた。『じゃ、夏休みも予定がちょうどいい日にまた映画、観に行こう』なんか言って、あの可愛らしい顔から笑顔を振りまきながら手を振って別れた。
「でも、親友の君と遊びに行った方が僕と遊びに行くより良かったかもしれない」
僕はほぼ無意識にそう言っていた。けど本心だった。そして、僕は少し罪悪感を覚えていることに気づいた。あの日、無理矢理押し潰した感情はあまりに大きくて多様だったから、罪悪感を覚えていることに気づかなかった。それは、僕が平井とそもそも遊びに行かなかったら平井は死ななかったという事と僕が平井の最後に会った人間であるという事に対する罪悪感だった。平井はあの日、駅前に居なかったら死ななかった。それに死ぬにしても、最後に会うべきは家族とか親友だったのではないか。僕なんて、たまたま趣味が一緒で数回映画に行っただけの人間だ。
体の皮膚がピリピリする感覚があった。血液の循環が激しくなっている。
「私はそうは思わないよ」
増田のコーヒーカップを持つ手は震えていた。目元は赤らんでいて、泣くのを我慢しているのかもしれないと思った。
「私、茜が死んだって知った時、悲しくて堪らなかったんだ。私も後追いで自殺してやろうか、て思うくらいに。でも、怖くて出来なくて、ずっと家で泣いてた。で、泣き疲れて、ある程度頭の中を整理できるようになってから、死ぬ直前に茜がどんな気持ちだったのかとか何を考えていたのか気になったの」
僕はコーヒの水面を見ながら増田の話を聞いていたが、中途半端な所で話が切れたため視線を上げた。
増田は口元を抑えて、泣いていた。口元を抑える手から嗚咽が漏れている。増田が生前の平井を思い返して、悲しくて泣いているのは僕にも分かった。僕は立ち上ったりもせず、じっと増田が喋れるようになるまで待った。雨の勢いは弱くなり始めており服の乾燥が終わる頃には雨が止んでいるかもしれない。
しばらくして、また増田が喋り始めた。泣き止んではいなかったけど少し落ち着いたようだった。
「私、茜が君と映画の話をする時、とても楽しそうに見えたから最後まで笑顔でいてくれたならいいなと思って」
増田は喋るのを止めて、少し躊躇ってから言った。
「茜は君の事好きだったと思うから」
増田は僕に『好き』が友達としてか恋愛としてなのかは言わなかったし、僕も聞かなかった。増田は僕の持つ平井の死に対する罪悪感を見破っているのかもしれないと思った。増田は僕が欲しかった言葉を適切に処方しているようだったから。僕は拒んでいた平井の死を、ゆっくりと受け入れ始めていた。
僕の頭の中でまた相川の声がリフレインした。
『俺、平井さんのこと本当に好きだった』
相川は平井のことを思って泣いた。増田も平井の事を思って泣いた。二人とも平井を愛していた。でも、それはベクトルの違う『好き』だ。同じ『好き』であっても目的地が違う。恋人であるか、友達であるか。
僕は平井をどう思っていた?恋愛的に好きだったのか、同じ情熱を共有する同士だと思っていたのか。僕が平井に求めていたものはなんだったのだろうか?恋仲になって愛を囁きあう事をしたかったのか、ずっと映画について語らいあうことがしたかったのか。僕はあのおとなしそうでとびっきり顔が可愛い平井に何を期待していたんだろうか?僕の心臓は壊れそうなほど高鳴っていた。
僕は平井が好きだった。もっと、映画を一緒に観たかったし語り合いたかった。僕にとって唯一無二の友人だった。今はそれだけだった。けど、もう平井には会えない。もう映画を一緒に観に行けない。もう彼女のことを恋愛的に思うキッカケとかも新しくは起こらない。これからがあったなら、恋愛対象として見ることがあったかもしれないが、あの日彼女が死んでから僕らの時間は止まっってしまった。僕らの関係はもう進展しないのだ。
それが、受け入れられないほど悲しかった。
呼吸が浅くなって、苦しかった。全身が沸騰したみたいに熱くて、汗が止まらなかった。腕が震えて、気づけば貧乏ゆすりをしていた。顔に皺が集まって、雑巾を絞っているみたいに僕は涙を流していた。涙が流れると感情がとめどなく溢れてきた。それは、僕の心を悲しみの淵に追い詰めるには十分すぎるほどだった。視界が真っ白になって、世界から音が消失した。目の前のコーヒーグラスも、そこから香っていたコーヒーの匂いも何も感じなかった。あれほど静寂の中で目立っていた雨の音も、今は遥か遠くに行ってしまったように聞こえない。視神経が断絶され、鼻はもげて、耳孔は一ミリも揺れていないのではないかと思うほど、なんの情報も頭に入って来ない。
僕は耐え難い絶望感に打ちひしがれた。あの時、もう少し一緒にいようと言って強引に本屋まで連れて行けば良かった。もっと頻繁に映画に誘えば良かった。もっと教室で話しかければ良かった。僕はそんな事を考えながら、平井を思ってしばらく泣いた。
しばらく泣いてから、僕は泣き止んだ。時計を見ると家に来てから二時間近く経っており、結構な時間泣いていたと気づいて恥ずかしくなった。キッチンから増田がコーヒカップを持ってきた。
「ありがとう」
僕は目の前に置かれた新しく入れてもらったコーヒーを見てから、反射的にそう言った。
「ありがとうはもう…ま、いっか」
増田は笑いながら言った。
「乾燥機もう終わったから着替えられるよ。雨も止んだし帰るにはちょうどいいんじゃない?」
「本当にありがとう」
増田はまた笑った。増田は僕がなぜ泣いたのかとかは聞かなかった。僕はコーヒーカップに口をつけて窓の外を見た。雨は止んでいて、窓に映った僕の目元は膨れていて目は充血していた。明らかに泣いた後みたいな感じになっていて面白い。
コーヒーを飲み終えてから脱衣所で着替えた。胸に手を置くと心臓はゆっくりと鼓動をしていた。心臓が張り裂けそうなほどの鼓動ではなくなっていた。
「今日は本当にありがとう」
僕が玄関で靴を履いてから、そう言うと増田は苦笑していた。それから増田は思い出したように「ちょっと待ってて」と言ってから、リビングではない部屋へ小走りで何かを取りにいって帰って来た。
「これ貸してあげる」増田は僕に何か厚い本を渡してきた。
「何これ」
「中学の卒アル」
「いや、なんで」
「なんとなく。別に読まなくてもいいよ」
訳がわからなかった。とりあえず受け取ってバッグに入れようと思ったがバッグが濡れていたため、手で持って帰ることにした。そこで初めて僕はバッグまで濡れていることに気づいた。教科書やノートの心配は怖いからしない事にする。
僕は「また明日」と言いながら卒アルを持つ手と逆の手を上げて増田家から出た。増田も手をひらりと上げて「また明日」と言った。
僕が外へ出ると、空は晴れていた。雨を出し尽くしてしまったのか雲は消滅していて、子供達は雨が止んだ反動か、小さな公園で楽しそうに走り回っていた。大気中の湿度は高く、じっとりとしていて不快だったが、相変わらず吹いていた強い風は体をふわりと撫でるようで、心地良かった。
僕はまっすぐに家に帰った。ドアを開けると、僕の帰宅に母親が気付いた。母親は僕が普段より遅い帰宅だったため心配そうな顔で迎えたが僕の様子を見て安心したようだった。
夕食の時に母と色々と話した。今日は友達の家に雨宿りをさせてもらった事もその話題の一つとして出した。平井のことは言わなかったし、そもそも、家に雨宿りをさせてもらった友達が女の子であることも言わなかったが。話しているうちに母は最近の僕の様子を心配していたことが分かった。僕を見ては覇気がないというか、今にも死にそうな気配すらあったと言っていた。僕はなんだか申し訳ない気持ちになった。
風呂に入ってから部屋で増田に渡された卒アルを開いた。学年の生徒全員が写っている写真の中でも平井は目を引くほどの容姿で改めてびっくりした。パラパラとページをめくっても平井と増田以外知らない人だったから全く面白くなかった。クラスのページには『A』『B』『C』『D』の四クラスの三年生の時のイベントが写真を交えて紹介されていた。知らない人たちが体育祭に文化祭、球技大会、修学旅行などで学園生活を謳歌している様子を見ても、やはりつまらなかった。僕は実に退屈な気持ちでページをめくっていると、卒業文集が載っているのを発見した。僕は迷うことなく、平井以外は読み飛ばした。
平井の文章は至って普通だった。特別、文章能力が高いとか低いとかはなく、映画に対しての情熱を暑苦しく書き綴っていて読む者を唸らせるようなものでもなかった。そこで初めて知った平井の情報として、将来の夢が獣医であるということがあった。僕は今まで平井がそんな事を言ったことがなかったから、かなり驚いた。読み進めると幼少期に飼っていた犬の病気を獣医が治してくれた事で獣医を志したという事だった。いかにもありがちな夢の抱き方だったから僕は少し面白いと思ったし、「それと、獣医が主人公の映画で動物の命を救っている獣医がかっこいいと思ったからだ。」と申し訳程度に付け加えられた一文を見たときは声を出して笑っていた。それから僕は生前の平井にとある獣医のコメディ映画を勧められたことがあるのを思い出し、一人で納得した。だけど、あの映画の主人公はかっこよかっただろうか。
卒業文集を読み終えて、布団に入った。卒業文集は僕に平井の知らない一面を明らかにさせた。それから、平井の事をあまり僕が知らない事も分かった。そして、もう平井について何かを新しく知る機会もないだろう。平井は僕に質問を大量に投げかける癖に自分の情報をなかなか開示しようとしなかったから、ついに僕は彼女のほとんどを知ることができなかった。もっと僕からも質問をするべきだったと反省しても、もう遅いという事実が虚しさと悲しさを僕に鋭く痛感させた。僕は少し泣いてから、寝た。
次の日、朝起きて時計を見るともう二限が始まっている時間だった。昨日は泣きすぎて疲れたから起床が遅れたみたいだった。階段を下りてリビングに行き、水をコップに入れて喉を湿らせた。母はもう仕事に行ったようで家には僕一人だった。外は心地よく晴れていて、昨日降った雨粒が庭の芝生に乗っておりそれを太陽が照らしている。ソファに座り、携帯電話で学校の電話番号を調べて家の電話から学校に電話をかける。学校には腹痛のため午後から登校すると電話で伝えた。もちろん腹痛なんてない。これは僕が相川と学校をサボって映画を観に行く時に使う常套句だった。制服に着替えながら、今やっている映画を確認する。僕は少し家にあった菓子パンを食べてから午後からの授業に必要な教科書と増田に借りた卒アルをバッグに入れて家を出た。
すぐ始まる映画の入場券を適当に買った。平日の映画館は空席が多かったため、なんの罪悪感もなく映画館の中央の席を取ることができた。入場の時に五十代くらいの親切そうな女の係員に年齢確認をされたので学生証を提示したのだが、僕が普通に平日の昼間に制服だったので、係員は僕に「学校には自分のペースで行けばいいのよ」と優しそうな笑顔を浮かべて言ったので、ただ映画を観たくなっただけでサボりを決行している僕は申し訳なくなった。
僕が映画を観に来ている理由は単純明快で平井の事を考えていたら無性に映画を観たくなったからだ。僕にとって平井は映画のイメージが大きいのだなと自分のことながら、呆れる。僕が見ることにした映画はシリーズもののハリウッド映画だ。僕は平井の言っていた海を越えてきた映画はだいたい面白いという仮説を試すためにハリウッド映画を選んだ。まばらにしか埋まっていない映画館の席に腰掛け、騒々しい宣伝を見ながら上映を待った。
結果から言うと、映画はあまり面白くなかった。僕の好みと外れているからかもしれないが。秘密組織がとある会社から情報を抜き取り、それを奪還しようとするスパイというありきたりにもほどがある設定にいまいち僕は没入できなかった。ネットで映画の評価を見ながらショッピングモールのフードコートに移動する。映画は思いのほか評価が高かったようで驚いた。平井の仮説は世間の評価では間違っていないのかもしれない。平日の昼間のショッピングモールは人がまばらにしかいなかった。周りを見渡すと、大抵子供連れの母親か会社の昼休みと思われるスーツ姿の人だった。学校の制服を着ている人はもちろんいない。
なんだか場違い感が凄い。この場にいる全員が学校をサボりショッピングモールを徘徊している学生を咎める視線を送っている気がする。うどん屋の店員ですら、僕に対して冷ややかな目線を向けているような気がして肩身が狭かった。居心地の悪さを感じながらうどんを流し込み、駅前の花屋に移動した。
僕は献花をしたことがなかったため、花屋の前で調べてから百合やカーネーションの白色の花束を買った。そういえば、教室で平井に捧げられていた花も白かったな。
昼間の駅前は人の往来が激しかった。あの日、平井が轢かれた交差点を僕は眺めた。歩行者の青信号が点滅し、赤くなる。僕は元からあった献花の前にしゃがんで、横に白い花束を置き黙祷をした。視線を上げ、車が横切るのを見る。それから目を閉じて、僕は目の内側に平井の像を描いた。そして、目を開けると、白いワンピースと肩まで伸びる髪を揺らしながら交差点に陽炎のような平井が出現した。周りの誰にも見えていない平井が僕の前に立っている。
分かってる。これは僕が作り出した虚像だ。でも、僕は幻覚の産物でも、平井に言いたいことがあった。とてもたくさん。
「僕も君と映画を見るの、楽しかったよ」
僕はその平井の顔を見ながら一言だけ、そう言った。平井が僕をどう思っていたのかとか、どういう人生を送って来たかとか、今になって質問したいことや言いたいことはいっぱいあった。でも、一番伝えたい事は感謝の気持ちだった。少なくとも、平井は僕と映画を観に行くのを楽しんでいただろうし、僕も楽しかったから。
車道の信号も赤くなり、一瞬、交差点は歩行者も車も無い空間になった。幻覚の平井を写すためのシアターみたいな交差点にいる平井が、ゆっくりと笑ったように見えた。僕はその場を去って学校に向かった。
そうして僕は昼休みに遅めの登校をした。教室の後ろのドアを開けた時、弁当を食べている数人が僕を見て驚いた。
「お前は今日相川とサボってんのかと思った」
一人がそう言った。僕はもう相川とサボるやつ認定されているのかと苦笑した。
その日、相川は学校を休んでいた。昨日雨に打たれながら泣いていた相川を思い出す。相川はきっと動く気になれなかったんだろう。正直、僕も昼間からではなく朝早くから学校に来るのは精神的に厳しかったと思うから、相川の気持ちも理解できる。そんな事を思っていたら携帯電話に
『放課後、駅に迎えに行くから映画見に行こうぜ』
と相川からメールが来た。
『もう今日行った』
と返信し、『は?どういう事?』という相川のメールには答えず、僕は携帯電話の電源を切った。あいつもきっと、平井といえば映画というイメージを持ってるんだろうなと思った。
放課後、僕は増田を廊下に呼び出した。
僕と増田は放課後になっても元気な運動部の連中が大群をなして廊下を闊歩していた為、廊下の隅に追いやられて窮屈な思いをしながら話をしていた。
「昨日はありがとうございました」
僕は深々と頭を下げながら、今日ショッピングモールで買っておいた焼き菓子を手渡した。
「ありがとう。別にいいのに」
そう言いながら増田は紙袋の中身をチラリと見ていた。迷惑をかけたお礼の品を何にするか悩んだが、好感触だ。
「そういえば、午前中いなかったでしょ。何してたの?」
増田はそう聞いた。
「授業サボって映画館に行ってた」
僕は素直にそう言った。増田はそれを聞いて、呆れたように肩を下ろし、「映画オタクめ」と僕をなじった。もしかしたら、増田は僕の様子を気にかけてくれていたのかもしれない。それなら申し訳ない。
「あ、あと卒アル返すよ。ありがとう」
僕は背負っていたバッグから卒アルを取り出して返そうとした。
「あ、少し待ってて」
僕は増田の文章を読んでいない事に気づいて、少し待ってもらうことにした。卒業文集のページを探し、読む。増田の文章は中三の時の体育祭の事についてだった。リレーで選手として出た事について主に書いてあった。「中学ではこのリレーでの経験などを通して、友人達と一緒になって一つのことをやり遂げることの大切さを身をもって学ぶことができた。高校でも周りの支えてくれる人達への感謝の念を忘れず、精進していきたい」と締めくくられた文章を読み終えてから、体育祭のリレーの写真を探した。
「どうしたの?」
増田は不思議そうに僕に聞いた。
「いや、背景を知ってから見てみると、なかなか面白いなと思って」
平井がリレーで走っているこの写真に写っている全員に、それぞれのストーリーがあると思うと、なんだか他人事ではないような気になってくる。そして、僕は納得した。
「この世界はノンフィクションだもんな」
「何言ってんの?」
僕の独り言に増田は小さく笑った。
映画好きな君 小谷幸久 @kotanikouki
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