第3話

 俺は彼のリアルの友人として、新婚の家にも遊びに行った。彼はずっと実家暮らしだったけど、奥さんのために賃貸の1LDKに越していた。

 住所は渋谷区で家賃が月16万円ということだった。


「えー。家賃もったいないなぁ。買っちゃえばいいのに」

 俺は本心では、彼が実家から離れて大丈夫なのかと思っていた。

「でも、子どもが出来たら手狭になるだろ?」

 俺は呆れて何も言えなかった。普通の夫婦なら当たり前なのだが、彼の話はどこまでが本気なのかわからなかった。奥さんが幻覚なら、子どもだって同じだろう。


「え、だって、子どもも君の脳内にいるんじゃないの?」

 俺はついつい口を滑らせてしまった。失礼だったかもしれないと後悔した。

「いやぁ…そうなのかもしれないけど、実は奥さんも今部屋にいるんだよ。君には見えないから物理的には存在してないけど。やっぱり僕の視野の中では見えてるからね。実家の六畳の部屋に一緒だと窮屈なんだよ。今も、そのクッションら辺に座ってる」

「えぇ!?」

 俺の視線はそのクッションにくぎ付けになった。


「頭の中にいるんじゃなくて、僕にとっては目の前にいるんだよ」

 俺はその話を聞いてぞっとした。俺たちが並んでソファーに座ってるから、奥さんは彼の足元にあるピンクのクッションに座っているのだ。そのクッションはベロア素材で大きな黄色いハートの模様があった。完全に女性の趣味だろう。そんなのに座って、旦那の膝に手を置いているなんて、ちょっとべたべたしすぎだろう。俺は気まずかった。


「何だか悪いな…床に座らせちゃって」

「いいの。いいの」

 やっぱり奥さんは幽霊なのかもしれない。俺は思った。

「奥さんって幽霊?」

 俺は思った瞬間口に出してしまう。

「違うよ…」

「一回亡くなってる人とかじゃないの?」

「いや。芽瑠ちゃんは今も生きてる」

「へえ」

「触ると人間だってわかる。やわらかいし、あったかいし。いい匂いがするんだよ」

「そうなんだ。生きてるんだね」

「うん」

「会話とかするの?」

「もちろん。芽瑠ちゃんはおしゃべりだから、ずっと喋ってる」

「今も?」

「人がいる時は喋らないよ。僕が混乱するから。芽瑠はすごく気配りのできる子なんだ」


「いつから知り合ったんだよ?その子と」

「二年くらい前かなぁ。僕が仕事でシンガポールに行った時、飛行機に乗ってたら急に現れたんだよね。ずっと僕の席の目の前に立っててさ…」

 そうやって、すぐ目の前にいたことを手を使って表現してみせた。

「この辺に」

「えっ…飛行機の座席って狭くない?」

 俺は海外出張したことがないから、エコノミークラスの狭い座席を想像していた。目の前に女の子に立たれていたら足も当たるし、かなり際どいシチュエーションだ。

「ビジネス(クラス)だからちょっとは広いけど。目の前にかわいい子が立ってるとやっぱり緊張したよ」

 A君は赤面していた。彼の好みからして絶対、ショート丈の上着にミニスカートだろう。鉄板の巨乳にミニスカートだ。


「童貞の君にそんなことするなんて。奥さんも大胆だなぁ、わはは」

「うん…でも、仕方ないんだよ。妻は僕から1メートル以上は離れられないんだ」

「え、そうなの?」

「いつも体のどこかが接してるんだ」

「じゃあトイレは!?」

 同人アニメかよと思った。そういうジャンルに詳しくはないけど。

「あ、ああ。いつも一緒なんだ…」

 1メートルしか離れられないなら、別に広い部屋を借りる必要はないと思うのだが。

「離れるとお互いが苦しくなるんだ」


 え…。それって、付き合ったばかりのカップルが言う比喩なんじゃないだろうか。


「でも、さっき視野の中にいるって言ってたじゃん?だから広い部屋がいるって…」

「人がいる時は大丈夫なんだよ。僕と2人きりの時は1メートルくらいしか離れられない。離れようとすると、ひどい頭痛がするんだよ」

「へえ。まるで二重胎児だね」

「うん。本当にそんな感じかなぁ。僕の一部だから」

 妄想っていっても体に不調が出るなんて。大丈夫かな…病気なんじゃないか。俺は心配になった。


「じゃあ、結婚前から風呂もトイレも一緒だったわけ?」

「うん」

「なんだか…エロいね」俺も目には見えない幽霊を想像して照れてしまった。

「いやぁ…なんて言うか、メイドさんと主人みたいな感じかなぁ…」

 A君はさらに真っ赤になった。昔は、主人の着替えを下働きの女性が手伝っていたのかもしれない。しかし、二人は対等な関係ではなく、主人と使用人なのか。

 それでも、風呂やトイレには付き添わないと思う。彼は変態なんだろうか。


 メイドさんは主人が用を足している時は恥ずかしがって目をそらしているんだろうか。「ご主人様。芽瑠は恥ずかしゅうございます…」

 風呂の時は裸になって一緒に入るのかなぁ…。お互い体を洗い合ったりして。

 やばい…ちょっと羨ましくなる。


 俺も彼みたいに想像逞しかったら、一人暮らしでももっと充実していたかもしれない。A君はまさにリア充なのだ。俺と同じお一人様なのにも関わらず、立派に自給自足している。普通はできないと思う。俺は目の前に女性がいないと無理だ。


「こんなこと聞いちゃわるいけど、二人の初体験っていつだったの?」

 俺はいきなり尋ねた。やはり、前から気になっていたことだ。

「うん…。出会って一月くらいかな。芽瑠ちゃんから誘ってくれてね」

 A君はにやにやした。

「なるほど…」

 それからA君は二人がそういう関係になるまでを事細かに話始めた。三十分くらい話していた気がする。やっぱり、女の子からグイグイ来るという、エッチな漫画にありそうな展開だった。俺はこんな風に内容のない話に付き合いながら、一抹の不安を感じないでもなかった。つまりA君は完全に頭がおかしくなっているということだ。


 長年、親の支援の下で暮らしていたのにも関わらず、子ども部屋を出て1LDKを借りてしまったことで、妄想がさらに膨張しているようだった。彼にとって芽瑠ちゃんは現実そのもので、俺に見えていないだけだ。こういう精神病もあると聞くが、楽しい妄想なら害はないのだろうか。少なくとも彼は芽瑠ちゃんが俺に見えていないことを理解している。それなら、多分、何の問題も起きないだろう。本当に?

 

 ***


 

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