第4話 そんな僕らの相互作用
皆月の電話から十二時間後。すでに激しい雨と風が街を飲み込んでいる。あいつが滅多にしないことをした所為だと呪ってやりたくなるくらい、天気は最悪である。なんせ台風だ。この十月に。
レポートはなんとか終わり、無事に提出。実験は台風情報により突如休講。すでに僕は自宅で待機している。
皆月は昨日(というか、今日のことだが)の電話の最後に、彼女の家に行くことになったと言っていたがどうしていることだろうか。明日って言っていたが、たぶん今日のことなのだろう。こんな天気じゃそれどころじゃないに違いない。ざまあみろ、と心の中で言ってみる。
僕の周辺では恋人ができそうにない。遠吠えしたところでは何も始まらないわけで、その事実に気が付くと妙に落ち込んでしまう。
少しは勉強するか。気分転換をしようと思う。本当はパソコンをいじりたいが、万が一停電にでもなったらまずいので、渋々電磁気の教科書を取り出し、ベッドに寝そべる。そろそろ中間テストなのだ。教授の出張に合わせてテストをするなんて、ひたすら頭が痛くなるだけだ。
この体勢なら、たぶんそのうちに眠ってしまうだろう。余り眠っていないのは事実であるし。
それからどのくらい経ったのかは分からない。微睡みから抜けたとき、枕元に置いていた携帯電話が点滅していた。
僕はメール着信を確認すると、それを開いた。やたら長いメールは、皆月からのものだった。
「メールにしてくれって言ったの、覚えていたのかな?」
体を起こし、本文に目を通し始める。どうやら結果報告らしい。聞いてやると言った手前、無視するわけにはいかないだろう。少々腹は立つが、興味はある。僕はカーソルを順々に下げていった。
* * * * *
慣れないことをするものではない。翌日の水曜日は朝から雨が降り、さらに台風のおまけ付だった。おかげで午後の授業は実験であったが休講となり、強制下校となった。
「やってられませんね」
静かに峰島が言った。
「普段と違うことをしようとしたからじゃないか?」
激しく流れる雲を恨めしそうに眺めながら俺が答える。風もかなり強くなってきた。早く帰るのが一番良さそうだ。
「電車、止まりそうですね」
「風で止まっているところもそろそろありそうだな」
出入口となっている先で、邪魔にならないように端に立つ俺たち。校舎にはほとんど人は残っていない。遠方から通っている学生はすでに出払った様子だ。
「困りましたね」
「あんまり俺は困らないが」
滅多に止まることのない路線を乗り継いでいる俺としては問題がない。
「困りましたね」
無表情に彼女は繰り返す。
「困ったな」
仕方なく、彼女の言葉を繰り返す。
「天気予報はあてになりません」
「現在の物理学の限界というやつだろう。複雑だからな、この世界を記述するには」
「適当な解を見つけていないだけですよ」
空を見上げながら彼女は言う。
「物理現象を数学で記述できるのは、人間が無理やりこじつけで当てはめているからだと高校時代まで思っていました。それは、世界がそこまで単純ではないと考えていたからです。現に、例外は幾らでもある」
峰島は傘をさす。大きな青いアーチが、曇天の代わりに青空を描く。
「でも、不思議ですよね。近似解でも充分な結果を得られる。人間は、神様が作ったプログラムのすべてを解き明かそうとしている。その解を使って正確なシミュレーションを行おうとする。いずれは全部が数式によって置き換わるのではないかと思う。……私たちでさえも」
僅かに笑んで、彼女はこちらを向いた。
「すべてが0と1で置き代えられるか、か」
俺も傘をさす。深い藍色は夜空のようだ。
「俺は最小単位が、『ない』か『ある』の二通りだけであるとは思わない。それは、なんか悲しすぎるから」
「客観的じゃない答えですね」
「非常に主観的で、感覚的。論理性に欠ける答えだ。でも、その曖昧さが与える影響は大きいと思う。だいたい、海外のものの考え方は白か黒かの二通りで決めつけようとしすぎる。その点、日本はその間の曖昧さを知っている。科学を発展させるには、それは確かに邪魔かも知れない。でも、やっぱり必要なファクターだと思うんだがな。全部の境界線がはっきりしていたら、つまらないと俺は思うんだけど」
雨の音と風の音。互いに自己主張をしている。
「私とあなたの境界線は、一体なんでしょうか?」
不意に彼女は問う。
「さぁ。そんなものは、実際に存在しないんじゃないか?」
「何故ですか? 現にこうして、向かい合っている」
「錯覚だ。境界は、存在しないと思えば存在しないんだ。存在すると思えば、確かに存在する。それは、『自分』の定義によって幾らでも可変であるからだ。その定義は個人によって異なる。さらに、その個人というのも非常に曖昧だ」
言いながら、次第に混乱をしてくる。俺は一体何を言いたいのだろう。
「……俺は、……俺という人間は何によって定義されているのだろう?」
いつの間にか、そう自問せざるを得なくなった。
「そうなりますよね。結局は、そこに話が向かう。あなたも見失ってしまいましたね」
彼女に追い打ちをかけられ、思考が一時的に固まる。珍しいことだ。
「私は、それを知りたいんです。私は世界の一部なのか、それとも完全に独立した存在なのか。私は社会の一部なのか、誰かの一部なのか、従属なのか、依存しているのか、外部機器なのか……。どの答えを得られたとしても、納得できない。それはあなたも同じではないでしょうか?」
激しい風雨の前には傘はもう役目をなさないかに思える。あるだけ邪魔かも知れない。
俺は何も答えられない。
「どれに対しても、もう期待できないと思いません?」
「絶望するには、まだ早い」
「そうでしょうか?」
「答えを得るのが怖い。それは……それは誰だってそうだ。一番怖いのは、自分と思っていたものが、誰からも、何からも、必要とされていないと感じること。自分と思っていたものが、自分を見限ってしまうことだ。自分が、自分に対して絶望してしまうことが、何よりもおそれるべき事だ」
俺は真っ直ぐ彼女の目を見つめる。峰島は僅かに視線を逸らしたが、再びあわせる。戸惑いの色。
「君はすでに俺に多大な影響を与えているのを忘れちゃならない。俺は君に何の効果をももたらすことはできないかも知れない。でも君は、確かに俺を狂わせた。それを棚に上げるのは許さない」
何を言っているんだろう、俺は。
「……」
彼女は、始めはきょとんと、そして困惑し、それから仮面をはずし、にっこりと笑った。
「これで、いいですか?」
初めて見る笑顔。明るい表情。
峰島の台詞が何を意味しているのか、俺には全く分からなかった。
「皆月君も、不器用ですね。安心できる不器用さだと思っています。それが今の私にはちょうど良いのだとも」
管理人さんの手によってドアに鍵が掛けられる。いよいよ二人きりだ。そろそろ帰らないと、家に着くまでにはびしょ濡れだろう。
「誰でも、救われたいときが一生のうちにあると思います。誰かと分かち合いたい、誰かと乗り越えていきたい、……それが恋愛ではないでしょうか? 影響の及ぼすことのできる至近距離にまで近付いて、相互作用を起こす、それが望まれているのではないでしょうか? いえ、そんな一般論にすることはありませんね。そうやって誤魔化すから、いけないんです。……私は、ただ、そうありたいだけです。あなたに影響を受けたいし、あなたに影響を与えたい。だから私はあなたを選んだ。それは紛れもない事実だと、胸を張って言える。だから私……」
夜空が地に伏した。
柔らかい感触。温もり。
「……」
彼女はおろおろしていた。何が起こったのか、峰島はまだ理解できていないらしい。
俺も何でそんなことをしたのか分からない。ただ、掛けるべき言葉が浮かばず実力行使に出ただけ、そう説明するのが一番適当に思えた。
「……」
峰島は唇を押さえると頬を赤くした。視線もどこかを彷徨っている。
「……」
まだ言葉が浮かばない。行動も浮かばない。回路が熱でショートしたらしい。俺も俺の行動が理解できず、恥ずかしさや驚きや、その他諸々でおろおろと挙動不審である。悪いことをしたとは、何故か思わなかった。こうするのが最良だったと、何故か肯定する自分がいる。
「……か……、帰りましょうか?」
先に提案したのは峰島。
すでに車の気配も、人間の気配もない。動物たちもどこかに身を隠しているのだろう。動けない草木、人工物は、それが過ぎ去るのをただ耐えながら待たねばならないのだ。
「もう少し、一緒にいないか?」
そう提案したのは俺。
「でも、電車が止まるといけないから……」
顔を赤くしたまま、警戒気味に彼女は答える。
「どの路線?」
彼女は正直に答える。俺はすぐに判断した。
「ならば心配ない。必ず帰れる」
「いや、でも、やっぱり」
「……」
何を熱くなっているんだろう。冷静な自分が分析する。
「……だな。帰るか」
「じゃあ、始めの予定通りに家に来ます?」
意外な提案に面食らう。
「帰れる自身があるなら、どうぞ」
にっこりと笑う。
「否、それは遠慮する」
「……無責任ですね」
「何故そうなる?」
峰島は少しむっとして、歩き始める。
「でしたら、また駅まで送って下さい」
「そうさせていただきます」
傘を直して歩き出す。
さらに強くなる雨と風。俺は彼女をこないだ送り届けた駅まで連れていくと、そこで別れて家路についた。
* * * * *
僕は返信をしなかった。悔しかったというのもある。
でも、返信しなかった最も大きな理由は、皆月が僕を必要としていないと感じたからだ。ただ聞いて欲しかっただけ。ただその事実があったと記録しておきたかっただけ。その証人に、僕を選んだというだけのような気がしたのだ。それはそれで名誉なことではないか。名誉だなんてちょっと言い過ぎのような気がするけど、僕はそれで満足だ。悔しいけれど、それでいい。羨んでもしょうがないじゃないか。
いつの間にか、台風は去っていた。
* * * * *
今年は異常気象だと思う。十二月だというのに夏日を記録するなんて絶対におかしい。またあいつが何かしでかしたんじゃないかと僕は思う。
それからしばらくして皆月からメールが来た。
『会って話がしたいけど、空いている日はないか?』
それに対し僕は、『じゃあ、明日の夕方あたりでどう?』と返した。結果報告のメールから音信不通だったので、その後のことも気になっている。明日は四限が休講で、サークルも休みであったからちょうど良い。
そんなに時間が経たないうちに返信が来た。
『わかった。十六時過ぎに駅前でどうだ?』
皆月はメールを打つのが得意になったようだ。今まで機械音痴だと思っていたが、それを訂正しておく必要がありそうだ。
『了解。ちょっと遅れるかもしれないけど、その時はまたメールする。』
そのメールを返すと、携帯電話は沈黙した。問題なしということらしい。一体何の用事だろうか。会って話さずとも、電話でよいのではないか? と疑問に思うが、そこが彼らしい様な気がするので余計なツッコミはしないことにする。
僕はレポート課題をまとめてバッグに詰め込むと、携帯電話を充電にかけた。もう少し遅れるのではないかと思ったが、電車がスムーズに来て乗り換えることができたので思ったより時間はかからなかった。十六時を過ぎている。もはやオレンジ色の空ではなく、暗くなり始めの夕闇が空を覆っている。
電車を降りると、冷たい風が僕の身体に吹き付ける。息が白くなることはなさそうだが、この薄手のジャケットではもう季節遅れということだけは分かった。
階段を上って改札口に向かう。そのすぐ外に見慣れた男が立っている。皆月だ。
「よっ、皆月」
僕は改札口を出るとすぐに声を掛けた。
「あぁ悪いな、神谷。そっちも忙しいだろうに、呼び出したりして」
珍しく申し訳ないという雰囲気を帯びている。
「なんて事はないよ。呼び出すとは珍しいからね。それにたまたま空いていたし。で、話って? 彼女のこと?」
「否、進路のこと」
「そんなの僕に話してどうすんの?」
期待していた話とは違ったので、幾分かオーバーに言う。
「ま、参考までに」
のんびりと歩き出す。この時季になると決まって登場する駅前のクリスマスツリー。その明るさに僕はいつもうんざりする。せっかくの美しい星空が陰ってしまうのを悔しく思うからだ。この感覚は皆月にもあるのではないかと、ふとそんなことが脳裏を過ぎる。しばらく無言だったが、皆月は口を開く。
「俺、就活始めたんだ」
「へぇ、てっきり院に行くんだと思っていたが」
さして興味もなさげに僕は相槌を打つ。
「俺も始めはそのつもりだったけど、勉強に興味がなくなったし、まぁいっかなって。親に負担掛けてられないし」
「それは僕にも言えることだけどな」
苦笑して答える。
「なに、結婚前提で付き合うことにでもしたの?」
ひやかしの意味をしっかりと込めて僕は付け足す。
「まさか。その気がないって訳じゃないけど、先のことは分からないだろう?」
少し焦ったように皆月は返す。動揺してくれたようで、僕はちょっと嬉しい。
「まあそうだ。で?」
話を促す。
「院に行かずとも、俺が知りたいと思っていることは分かるんじゃないかと考えたわけだ」
再び冷静な口調に戻る。
「お前が知りたいと思っていること? 世界征服の効率的なやり方じゃなくて?」
冗談っぽく僕が返すと、彼は僅かに眉を寄せた。
「あぁ。俺がこの学科を選んだ理由、お前分かってないだろ?」
あまりにも真面目に言うから、僕は改めて自分がどう思っていたのかを思い起こす。
「たまたま勉強ができたからじゃないの?何に対しても同じくらいの興味しか示してなかったじゃないか」
僕はその程度にしか思っていなかった。高校でもそれなりに勉強ができた皆月。どの科目も得意不得意がこれといってあるわけでもなく、その調子であっさりと推薦を勝ち取って、ストレートで大学進学。単位も順調にとっているのではなかろうか。
それに対し僕は無駄にあれこれ迷ってしまう。高校でも文系に進むか理系に進むかかなり迷って、そのおかげで一浪した。特に理系科目ができたわけでもないし、文系科目が苦手だったわけではない。その長所を生かして国立を志望したという理由もある。僕が今の学科を選んだのは、適度に難しいと思ったからだ。物の理(ことわり)を学ぶなんて、結構面白いのではないか、と。
皆月は人差し指を立てて横に振る。
「俺はこの世界が一体何なのかが知りたいと思った。だから、客観的に知ることができそうなこの学科を選んだ。でも、答えはもっと近くにあったのだと、今になって気付いた。ただ、それだけの理由」
自信に満ちあふれた様子で断言する。
「近い答えを得られたのか?」
どこからその自信が湧いてくるのだろうか。
「さあ。まだ吟味中」
とても幸せそうに答える。
「吟味中と言うことは、それらしいものが見つかったってわけか」
「どうだろうね」
彼ははぐらかした。
「お前、楽しそうだな。羨ましいよ」
大きな溜息を混ぜて僕は言う。心からそう思った。そうやって、自分で突き進んで行く彼が羨ましい。
「たぶん、気の持ちようだろうよ。俺はポジティブ思考だから」
「言い切れるあたりが憎らしい」
「恨んどけ恨んどけ」
ケケケと明るく笑う。
「そうさせて貰うよ。腹立つなぁ」
「おおいに腹を立ててくれたまえ。わざとつついてんだから」
胸を張って言うことか、その台詞。僕は心の中で毒づくが、そこまで嫌というわけではない。
「むかつくなぁ、お前」
自然と漏れた台詞にはやはり棘はない。昔っからそういうやりとりをしてきたのだ。別に変えようとも思わないし、変える必要もない。こういう付き合い方が僕たちのやり方なのだ。これがちょうど良いバランスなのだろう。いつまで経っても、原子核に堕ちない電子みたいなそんな感じに。他の要素から僅かに影響を受けながらもその形を維持していく、そんな気がする。この微妙な位置が、互いに影響を与えすぎない適当な位置。
「……ありがとな」
不意の皆月の台詞。小さくて、何と言っていたのか聞き取れなかった。
「ん?」
僕は皆月に視線を移す。
「なんとかうまくやれそうだ、神谷」
皆月はすっきりしたように笑んだ。
「そっか。……取り敢えず、明日は雨に決定だな」
「かもな」
笑い合って、俺たちは真っ直ぐ家に帰った。
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