第5話 パウリの排他率

 進級したものの、だからといってどうということはない。三年になったということは、大学生活も折り返しということか。単位も順調に取れているみたいだし、このままいけば、今年は苦労せずに済みそうだ。必修だけとれれば、卒業もかたそう。

 ぼんやりと受け取った時間割を眺めながら思う。これといった事件は身近には起こらず、彼女もできず、ただたんたんと僕は学生生活を送っていた。別の大学に進んでいった友人は、最後の学生生活を楽しく過ごしていることだろう。彼女と仲良くやっているようだし、就職活動もどうやら終わったようだし、ほんとあいつはいつもうまくやっていると思う。

 それに対し、一浪して地味に過ごす僕は一体何をやっているんだか。

 勉強はまぁ楽しいけれど、このまま院に進むつもりはないし、適当に就職できればなぁと思うくらいか。はっきり言って、夢なんかない。なりたいものもない。だいたい、できることがない。趣味とか特技とか、そういったことが僕には何もない。このまま社会に埋没して生きていくことになりそうだ。

 もう、人生終わったも等しいのかな。オートマティックに生きていくだけ、そんな気がする。何のために今まで生きてきたのだろう。虚しい。腐っていても仕方がないのだがなぁ、という気持ちが特大の溜息に変わる。

「なーに新学期そうそう不景気な顔してるんかなぁ」

 僕の座った席の前に腰を下ろしていた少女が振り向く。

「ほっといてくれよ」

 少し膨れる。彼女はにやりと笑う。何か妙なことを思いついたときの顔。僕はその笑顔に何度騙されたことか。

 彼女、神崎は僕と同じ浪人組。名前順の学籍番号により、実験などのグループ作業で一緒になったことがある。女の子というだけで初めの頃こそ喜んではいたが、だんだん彼女の性格が分かるにつれて避けたい相手の一人となった。

 結構派手で、おしゃれ好き。たまにほのかな香水を漂わせている。化粧はバッチリで、たぶん素顔で会ったら分からないと思う。同じ学科の中ではやたら目立つ女性だ。

(他の女の子が地味だから余計に目立つんだよなぁ)

 声も明るく、良く通る。遠くにいてもすぐに分かる感じ。元気で明るい。結構がさつ。何度実験を邪魔されたことか。兎に角、恨んでいることは幾らでもある。

「よし、景気づけに合コンしよう!」

 一人で満足げに頷く。

「はぁっ?」

 顔を上げて彼女を見る。

「誰を誘うのさ」

「とりあえず、あたしとあんたは決定ね。後は適当……そうだなぁ、せっかくだからサークルから適当に拾ってこようよ。学部学科はできるだけ違うところにしてさ。どう?」

「僕はパス。そういう気になれない」

 合コンはしたい。しかし、彼女の知り合いとなると話は別だ。

「あんたが来ないでどうするのよ。そもそも、あんたが大きな溜息をつくから心配してやってるんじゃない。うーん、んじゃ、カラオケにしよっか。どのくらい集められそう? やっぱ三人くらいが良いかなぁ」

 と、勝手に話を進めていて、僕の意見は受け入れられそうにない。

「だからさぁ……」

「六人でカラオケとなると、ちょっと狭いかな? あ、でもいっか。盛り上がればオッケーかも」

「……? 合コンのセッティング、したことあるの?」

 ふとしたこの疑問に、彼女は思考を止める。

「いや。参加したことはあっても、主催はないよ。ま、楽しくいきましょ」

 小さくウインク。慣れている。

「……うーん。わかった。ところで、神崎は彼氏いないの?」

 この質問に対し、彼女は僕の頬を軽く叩く。叩くというより、手を添えたという感じか。

「どの口がそんなデリカシーのないことを言っているのかな? セクハラで訴えるぞ?」

 口元がひきつっている。その答えはつまり、彼氏ナシを意味している様な気がする。

「す、すみません」

 僕の顔もひきつっていたことだろう。

「よろしい。あんまり気安くそういうことを口にしたらダメだぞー。すんごくしらけるから」

「は、はい!肝に銘じておきます」

 彼女は手を引っ込める。

「そうと決まれば、声をかけてみるか。来週の金曜日あたりでいい?」

「いいんじゃない? 僕は用事ないし。教職の連中も、何とかなるんじゃないかな」

 渋々適当に相槌を打つ。

「よし、となればその方向で。人数は三人ね」

「了解」

 えらいことになった、と思いながらも必死に感情を隠して作った笑顔を顔に貼り付けたのだ。


   * * * * *


 当日。僕はサークルの友人二人に声を掛け、待ち合わせ場所のカフェテラスに向かった。約束の時間の十分前。いつもと同じように到着すると、神崎は一人で窓際のテーブルに腰掛けてぼんやりとしていた。

「神崎」

 声をかけると、寝起きのようなのんびりとした様子でこちらに視線を向ける。

「あ、時間ちょうどね」

「は?」

「十分前には来ると思った」

 大きく伸びをして立ち上がる。その頃には授業で見かける神崎と同じだ。

「他は?」

 彼女一人しかいないのを不思議に思って訊ねる。

「女の子は、何かと準備に時間が掛かるの」

 むっとした表情を作って、僕の鼻に人差し指を向ける。

「なるほどね」

 うだうだ言っても仕方がないので、適当に合わせる。と、彼女は僕が連れてきた二人の顔や服装を眺める。

「もうちょっと待ってね、そろそろ来るから」

 にこっと営業スマイルを作って声をかける。合格ラインってことだろうか?

 予定の時間を五分ほど過ぎたところで、待っていた二人がやってきた。神崎よりもずっと控えめな様子に僕は少し驚いたが、どちらもそこそこ可愛かった。そのまま学生の間では有名なカラオケ店に行き、互いに簡単に自己紹介。

 僕が連れてきた二人は、教育学部三年の間宮と理工学部数学科二年の呉。歳で言うと、一つ下と二つ下である。同じサークルの中では結構よく喋っている友人だ。学校外で出掛けたこともある。二人とも服のセンスがよい。今日は派手にならないように抑えている感じがした。

 神崎が連れてきた二人は、教育学部二年の飯島と文学部英文科四年の浅木。お姉さんタイプの飯島と子どもっぽい雰囲気の浅木の組み合わせは、何だかちぐはぐしていて面白い。互いに年齢不詳の感じがする。

 自己紹介が終わると適当に食べ物を注文して、それぞれ歌ったり食べたりする。間宮と飯島は同じ学部である所為か、授業の話で会話が弾んでいる様子。呉に関しては、浅木にからまれているようにしか見えないが話し掛けられて嬉しそうだ。神崎は余り喋らない。笑顔を絶やすことはないが、余り楽しそうに見えない。どこか緊張しているように見える。主催者だから、羽目を外さないようにしているのだろうか。

 僕は僕なりに誘った二人を見ながら、振られた話に相槌を返す。神崎にも話を振るが、彼女は軽く流すだけで反応が薄かった。カラオケをしながら会話をするのはなかなか難しいのではないかと思われたが、それでもコミュニケーションはとれていたらしく仲良くはなった。

 店を出るときにはカップルとまではいかないがいい雰囲気になっていた。全体としては。と言うのも、神崎がおかしい。部屋の外に出て、僕は浅木に引っ張られた。

「えっと……なんでしょうか?」

 トイレに行っていて、他の四人は席を外している。

「あのコさ、不器用だから許してやってね」

 あのコとは神崎のことのようだ。話を聞いたところでは、浅木と神崎は高校で同じクラスだったらしい。

「?」

 僕がきょとんとしていると、呉がやってきた。浅木はさっと自然を振る舞って離れる。

「神谷さん、これからどこか行くんですか?」

「あぁ、そうだなぁ、俺はあんまり考えてないけど」

 腕時計を見ると、二十時を少し過ぎたぐらいである。一般的には、食事に行った後に二次会でカラオケだと思うのだが、今回はカラオケで夕食も済ませてしまっている。他に行き先は思いつかない。

「呉君、家、どっちの方だっけ?」

 唐突に浅木が呉に声をかける。

「僕ですか? 僕は……」

 そこに間宮と飯島が戻ってくる。

「あ、じゃあ方向同じだね」

「本当ですか? あんまりこっちに住んでいる人っていませんよね」

 呉と浅木は僕抜きで話を進めている。

「え? どこに住んでるの?」

 飯島が話に参加する。間宮もそれに加わった。僕も輪の中にいるが、神崎が気になって話半分だ。

「……先に外に出るね、神谷君」

 浅木が僕に声をかける。確かに、店の出入口付近で喋っていては迷惑だ。

「あぁ、うん。わかりました」

 返事をすると、浅木に引っ張られるようにして外へ。僕は神崎を待つことにする。そんなに待たないうちに彼女はやってきた。どういう訳か眼鏡を掛けている。

「あれ? みんなは?」

「あまりにも遅いからって外に出た。でも、どうしたのさ?」

「いやぁ。コンタクトが痛くって。はずしたらラクになった。無理するもんじゃないね」

 言って、会計を済ませる。彼女がお金を回収してまとめていた。

「それで調子が悪かったの?」

 なぁんだ、と自分の中で納得しかけると、彼女は首を横に振った。そのまま外に出る。

「……鈍感」

 僕の横をすれ違うときに、彼女がそう言ったような気がした。

「あれ? 眼鏡掛けていたっけ?」

 意外そうに間宮が問う。

「コンタクトが合わなくってね。眼鏡が似合わないから掛けたくないんだけどさ」

 大袈裟に肩を竦めて神崎が答える。

「そう? 結構いいと思うけど。できるオンナって感じで、格好良いじゃん」

 間宮が調子に乗って答える。

「アリガト。でも、あたしをおだてたところでなんにも出てこないわよ」

 冗談っぽく彼女は返す。

「えー、残念」

 オーバーに間宮が答えると、みんなが笑う。僕も釣られて笑った。

「で、このまま解散にする?」

 浅木が神崎に話を振る。

「うーん……、二次会かぁ、考えてなかったな」

 腕を組んで、空に視線を向ける。そこで飯島が小さく手を挙げる。

「カンちゃん、悪いけど、明日バイトあるからそろそろ帰らなきゃいけないんだけど」

 申し訳なさそうに両手を合わせて詫びる。

「あ、いーよいーよ。バイト頑張って」

 神崎は飯島の方を見てにっこりと微笑む。

「バイトか、サボっちゃえばいいのに」

 間宮が冗談めかして呟く。

「ほんと、ごめんなさい。でも、今日は参加できてとっても楽しかったわ。また誘って下さいね」

 飯島が上品に振る舞って言う。

「では、電車が来るので」

 軽く一礼すると少し早足で駅の方に向かって行く。その後ろ姿をみんなで見送ると、今度は呉が携帯電話を眺めておろおろし始めた。

「どうかしたか?」

 僕が話を振ると、呉は申し訳ないという表情をした。

「急にバイトの代打を頼まれてしまいまして。帰らないと」

「無理に引き留めないよ。な、神崎」

「えぇ。気にしないで。お金は稼げるときに稼いでおきましょ」

 神崎も賛成のようだ。

「あ、呉君帰っちゃうの? じゃ、私も帰るわ。一緒に帰ろうよ」

「みんな帰るのか? だったら俺も帰ろうかな。明日授業あるし」

「なら、ここで解散にしましょうか。また何かイベントを思いついたらメールすればいいもんね」

 神崎が提案する。互いの携帯電話の番号とアドレスはすでに登録している。連絡は容易だ。

「何だか勿体ないような気がするけど、いっか」

 神崎の一言で、それぞれ解散となる。呉と浅木は飯島の向かった駅とは別の駅なので反対へと向かい、間宮は学校のそばで独り暮らしをしているのでその方向に歩いていった。

 僕と神崎はそれぞれを見送って残された。

「お疲れさま」

 言ったのは彼女。

「おつかれー」

「どう? 楽しめた?」

「まぁまぁ。これはこれで良いんじゃない?」

「ならよかった」

「でもまぁ、学部学科は違うのをなんて言ったけど、学年まで様々とはね」

「そーねー。何の約束もしなかったし。これはこれでおーけーでしょ」

「だね」

「で、二人で打ち上げしない?」

「え?」

 あからさまに嫌という感情が出ている声。

「嫌ならいーです、嫌なら」

 むっとした声で彼女が言う。良く通る声の所為で、道を通る人がこっちをちらりと見ている。

「……ま、悪くないんじゃない? どこに行く?」

 視線を逸らして僕は答える。

「お酒を飲もう。せっかくだ」

 言って神崎は僕の腕を引っ張ってすたすた歩き始める。彼女の決めたことに僕は従わざるを得ない。いつもこんな感じ。

「はいはい」

 まったく、どうなることやら。


   * * * * *


 彼女は、居酒屋にしては少々洒落た店に僕を引っ張り込むと、ぐいぐいお酒を飲みだした。とりわけ強いということはないようで、三杯目を飲み始めてペースがおちた。僕はまだ一杯目である。

「神崎、大丈夫か?」

「なぁに言ってんのよ。まだ序の口でしょ」

「顔が真っ赤だけど」

「これは体質。そっちもどんどん飲みなさいよね」

 膨れながら、からむような口調で答える。充分に酔っていると思う。

「それ飲んだら帰るぞ。それ以上飲んだら、置いて帰る」

 僕は残りを飲み干す。二杯目の注文はしなかった。代わりにソフトドリンクを注文する。

「えー。馬鹿言ってんじゃないわよ。置いて帰るですってぇ?」

 ぐいっと彼女も飲み干す。そこにソフトドリンクが出てきた。僕は彼女に勧める。

「俺じゃ、今の君を運べないし。少し酔いをさませって」

 神崎はとろんとした目をこちらに向け、じっと見つめる。眼鏡が店内の照明を反射してしまって、いまいち視線を追うことはできないのだが。

「? 神崎?」

 すると、突然彼女は僕にキスをした。軽く触れると何事もなかったようにソフトドリンクを口にする。

「ふふふ、油断したな」

 顔が一気に紅潮したのが分かる。お酒の所為ではない。

「女の子に唇を奪われるなんて、情けない男だね」

 神崎は笑いながら言う。どこか満足げだ。

「な、なにすんだよ」

 何と答えたらいいのか分からずに呟く。

「口紅、ついちゃったかも」

 言われて慌ててハンカチで唇を拭う。

「可愛いなぁ、もう」

 彼女はこっちを見て、やんわりと笑んだ。今まで見たこともないような優しい笑顔だった。

「馬鹿にしてないか?」

 僕はむっとする。このアクシデントをどう処理したらいいのか分からない。

「どうかな。この気持ちは」

「酔ってるだけだろ、神崎は。さっさと素面に戻れよ」

 僕が視線をはずして答えると、神崎は台詞を続けた。

「この気持ちは、酔ってるからじゃないよ」

「酔っぱらいの言うことなんか信じません。まだ、待っていてやるから少しは酔いをさましなさい」

 言って、自分用のソフトドリンクを注文する。

「ちぇっ……、この鈍感が」

 彼女は膨れたまま、ソフトドリンクを少しずつ飲む。

「なんか言った?」

 聞こえていたにもかかわらず、聞き返す。

「酔いをさませば良いんでしょう、さませば」

 ぶつぶつ言いながら彼女はこちらを見ずにソフトドリンクを飲む。僕は注文していたソフトドリンク受け取ると口に含む。その後は会話らしい会話はなく、神崎は膨れたままだった。

 帰り道、店を出てしばらくしたところで彼女はいきなり抱きついてきた。もう、酔いはさめているはずだったが、どうしたというのだろうか。

「どうした?」

 彼女の眼鏡が僕の肩に当たっている。

「酔ってる勢いってやつ」

 彼女は僕の耳元で囁く。

「あぁ、そう。じゃ、落ち着くまでそうしていれば?」

 街頭から僅かに離れた死角。そこまで僕たちの姿は目立たないと思う。だからと言うわけではないが、僕は無理やり彼女を引き剥がすのを止めて、ただ立っていることにした。

 そんなわけで、僕は彼女に触れることはしなかった。

「全く、馬鹿な奴」

 彼女は呟くと離れた。

「……こうして触れることができるのは、結構凄いことなんだぞー。場面的なこともそうだし、感情的なことだってそうだし、物理学的にだってそうなんだぞ」

「一気に酒がさめるような話だな」

 僕は茶化すように答える。

「人間なんて本当はスカスカで、いろいろな力が相互作用して一つの塊を作っているだけなんだって知ってる? パウリの排他律がなかったら、触れているなんて感触はないんだぞ。あるから、こうして触れあえるんだぞ」

「……そうだな」

 僕は優しく頷く。神崎は膨れる。

「少しは異性としてみてくれたって良いでしょう? 他に好きなコがいるの? あたしは何であんたのために頑張らなきゃいけないわけ? どうしてこんなにいろいろしてあげようって思っちゃうわけ?」

「俺の知ったことじゃない」

 小さく肩を竦める。

「あたしのことが嫌いなら嫌いって言いなさいよ。だったらもうあんたのまわりをうろうろしないように気を付けるから」

 僕は首を横に振る。彼女は泣き出しそうな様子で顔を真っ赤にしている。

「ほんと、不器用」

 浅木の言っていたことが脳裏を過ぎる。神崎はいつも一生懸命だ。でもどこか空回りしてしまったり、失敗してしまったりする。でも、それは神崎の神崎らしいところだ。

「何?」

「家まで送る。どこだっけ?」

 僕は歩き出す。

「ちょっと! 話は終わってないでしょうが!」

 神崎が後を追ってくる。

「うん、終わってない。だからこそ、かな」

「逃げるんでしょ! 卑怯者!」

 膨れて彼女は怒鳴る。

「……あ、そう言えばお礼がまだだった」

 ふと思い出して立ち止まる。その後ろに神崎はぴったりと止まった。僕は振り向くと、彼女に口づけをした。

「はぅっ!?」

「ちょっとは景気が良くなったかも」

 にこっと微笑み掛けると、彼女の手を引いて歩き出す。

「……全く、安っぽい演出ね」

 皮肉ではない、嬉しそうな台詞。

「もう少し勉強しておくよ」

 強く握られた手を握り返す。彼女の手は小さくて、温かかった。

 なんとなく、僕は僕らしくあればそれで良いような気がした。他人と比べてみたところで僕が僕であることには変わりがないし、これで良いと思う。だからきっと、ありのままの彼女を受け入れられるかなと期待できる。しばらくは振り回されっぱなしだろうけど。

 僕たちを乗せた電車は、明かりの美しい街の中に消えていった。

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