第3話 君の心はタンジェント
今、パソコンの前で必死に入力を行っている。現在の時刻は零時を回ったところ。明日の実験が始まる前には提出しなくてはならない。とはいえ、もうほとんどできてはいるのだ。教科書の本文を打ち終えて印刷を済ませれば終わりである。データのまとめは実験を終えてすぐに行っていて、考察まで終わっている。
問題なのはこの教科書を要約してその過程を書き写さねばならないというところ。これがよりにもよって長すぎるのだ。友人が打ったものをそのまま借りようかとも思ったのだが、運悪く友人のパソコンが壊れてしまったためにデータを取り出せず、今の状況を生んでいる。
そう、あてにしてこの作業をサボっていたツケがこの有様なのだ。メールで送ってもらうはずであったので、かなり油断していた。でも、この単純作業なら徹夜せずとも何とかなりそうだ。
僕は慣れた手つきで文章を入力する。
と、そこで携帯が鳴り響いた。あまりの大音量に思わず変なキーを押す。打っていた文章の途中までが消えたのが見えた。しかし、まずはこの迷惑な電話を切ることが先決だ。
待ち受け画面には『皆月』の名前。僕は痛む頭を抱えて電話をとる。
「おい……皆月。用があるならメールにしてくれって頼んだだろーが」
テンションの低い声。怒りを抑えて静かに言う。
「……ってか、電話をするのは初めてだぞ。元気か?」
皆月は陽気に問い掛ける。いつものお気楽な感じ。僕は感情を抑えるのを止めた。
「それどころじゃねぇ! こっちはレポートで手一杯なんだよ! 何で明日の一限に提出なんだ!? 鬼だろ! あの教授はぁ!」
僕の怒りは音量に比例した。こんな夜中にこんな大声を出したら近所迷惑だ。……その前に家族に怒られることは避けられないかも知れない。冷静な部分がそう分析していると、皆月が小さくうなる声がした。
「おう。それは悪かった。もう邪魔はしないから、頑張るがよいぞ。そういう無茶は今の若いうちにしかできんからな」
皆月はそれだけ言うとぽちっと電源を切った。ツーツーと言う音がしばらくしたかと思うと、それもやがて消える。静けさが戻る。僕はパソコンの画面を見つめ、大きく溜息をつく。消えた部分の復旧は五分も必要ないだろう。全く良い迷惑だ。
作業に戻りながら、ふと皆月のことを考える。そう言えば最近は全く顔を合わせていない。最後に見かけたのは、成人式だったような気がする。懐かしい面々と談笑している間に皆月は帰ってしまったらしく、結局声を掛けそびれていた。それっきり会ってない。僕はサークル活動で帰宅時間が遅く、たぶんどこにも属していないだろう皆月との生活パターンの違いからほとんど同じルートを使っているはずなのに見かけることはなかった。電車の本数も少ないし、もうちょっと遭遇しても良いような気もするのだが。
すでに月は十月。一年近く顔を見ていない。もちろん、電話も、メールもない。年賀状に『ケータイを買いました』とあったので、その時に電話番号とメールアドレスを交換したっきりだった。
一体何の用だったのだろうか?
今思えば、皆月から電話が掛かってくるなんて何か妙ではないか。向こうから絶対に干渉してこない奴なのだ。物心ついた頃からの知り合いである皆月の行動なんてよく知っているわけだし、この例外中の例外のような事例は今までなかったではないか。
何か心変わりでもするようなことでもあったのだろうか?
考え始めると止まらない。思考の活性化と同時に手は急停止する。だんだんと苛立ちが募る。このままでは気になって先に進みやしない。僕は携帯を掴むとリダイアルする。
「はーい。もしもし」
皆月の明るい声。にやけている様子が目に浮かぶ。怒りに火がついた。
「てめぇのせいで、レポが先に進まんじゃねーか! 滅多にしないことするなよなぁっ!」
音量最大の声。近所の皆さん、ごめんなさい。
「はっはっはっ。また掛けてくれるものと思ったよ」
まんまと載せられているのは百も承知。ひとまず息を整える。向こうも体勢を整えたようだ。皆月が小さく息を吸い込んだのが聞こえる。なにやら重大なことを言い出しそうな感じ。しかし僕の頭は怒りが去ったら半覚醒状態でぼうっとしている。さっさと片付けて眠りたい。
「実はさ、俺、友達を通り越してカノジョができたんだわ」
皆月の台詞はことのほかさらりとしていた。余り深く気にとめずに返事をする。
「それはおめでとう」
言った後に、ことの重大性に気付いた。何かが詰まった様子の、言いたいことがどうもまとまらない声が漏れる。
「……はぁっ!?」
再び大音量。それしか言葉が浮かばない。ようやっと状況がのみこめてきた。
「なんでそうなるわけ?! だって、そっちもこっちと同じで女の子いないって言ってたじゃねーか!? お前が合コンなんてやるはずないし、どうしてそういうことになるんだ?!」
混乱、まさにその言葉が相応しい。一体全体、どういうことなんだろうか。
「ま、聞きたいと言っても、聞きたくないと言っても、俺が説明するから電波の入りの良いところに立つことをすすめるな」
「……おう」
指摘されて、僕はそろそろと窓際の電波の入りがよい場所に移動する。
「いいぞ」
僕が返事をすると、皆月は小さくうなって事件の発端を喋りだした。
* * * * *
先週。体育の日がハッピーマンデー法なんていう、俺にはありがた迷惑な法律によって第二月曜になったおかげで、その翌日の火曜日は少々鬱が入っていた。三年にもなれば、俺みたいに普通に学校に来て、普通に提出物出して、普通よりちょこっと要領よく試験に臨めば単位なんざ面白いぐらいにとれるもので、この頃はあまり授業に出なくても良いはずなのだが、如何せん、必修がこの日に中途半端な二限からあるため、出席をとる以上出てこなくてはならない。出席をとらなくてもきちんと出る俺ではあったが。
真面目に授業に顔を出すのは俺だけではない。片手で数えられるくらいしかすべての授業に出席している人間はいないが、その中に気になる奴がいた。名前順でたまたま学籍番号が次になっている女の子、峰島。いかにも理工にいそうなタイプの子で、眼鏡を掛けていて地味。化粧に興味がないらしく、ほとんどすっぴんに近い彼女は、ちゃんと今どきらしい格好をさせればそこそこ可愛いといった感じがする。実のところ、この学科には女の子は一割もいないのだが、どの子も平均以上の容姿は持っていると俺的には思っている。ただ、それぞれ趣味が個性的でちょっと遠慮したくなる雰囲気があるのが問題なのだ。俺はそんな女子達の中で、一番話をしたことがあるのが峰島だった。
一年の時はグループで活動したり、席が学籍番号で決められていたりと彼女の傍にいることが多く、そんな中で会話、と言ってもほとんど事務的なもの、をよくした。レポートのためのデータの都合で互いのケータイの番号やメアドも交換していた。行事関係でも連絡を取ったりしたが、ほとんど事務的。メールにしても、電話にしても、彼女は機械的な、良く言っても事務的な感じにしか反応しなかった。真面目なんだな、と俺は思っていた。俺は二年次あたりから授業がどうでもよくなって、出席しても眠っているなんて事がしばしばだったが、彼女は全くそんな様子はなく、真剣な様子で、時には欠伸をしながら一生懸命に、訳のわからん、要領を得ない黒板をノートに写し取っていた。
今になって考えれば、俺がこんなに他人を観察していることはない。授業担任を観察することはあっても、同じ立場にいる人間を見ていることなどなかった俺なのだ。でもそれが、彼女の異変をすぐに感じ取れた要因だった。
観察も三年目に入るとさすがに彼女のパターンが見えてくる。幼なじみほどではないにしろ、人間の行動パターンなんて割とすぐに見えてくるものだ。それが、意図的に作られたものならなおさら。
峰島には気分のムラがある。それがある周期性を持っているのは一年間見ているだけでも気が付く。それはまぁ、女性特有のものかも知れない。でも、それが結構顕著に現れる。ずっと見ていなければそこまで気付かない範囲での顕著さ。彼女はオートマチックで仮面が切り替わる。外の顔に切り替わる。落ち着いた、少し知的な女の子の顔。彼女はそれに気付いていないのかも知れない。何しろ自然に切り替わるのだから。はじめの頃はその外の顔の彼女を俺は見ていた。二年次に少し距離を置いたときに、本当の顔を見た。その表情がある周期をもって変化を繰り返している。三年の前期まではまだそれでも落ち着いたものだった。
ハイとローの繰り返し。彼女は相当滅入っているみたいだった。そんなんになるくらいなら、大学のカウンセリングルームにでも行ったらいいのに、と思って見ていたが、彼女にも事情があるのだろう。親しそうにしている女子にも決して本当の顔を見せることはなかった。まさか俺がそれを見抜いているとは気付いていまい。峰島はあまり周りに気が向かない性格のようだし。
三年次の後期。九月の末に始まった後半戦。峰島の様子が明らかにおかしかった。やる気のない表情、と言うより、覇気がない。授業中もうとうとしているし、外の仮面まで不調な様子。本当の顔は、見るにはちょっとたえられそうにない酷いもの。まるで死人みたいに見えた。かなりのローの様子。それでも、一日の中でさえ感情は変化する。朝はローでも午後にはハイ。朝はハイでも、次にはロー。切り替わり、どんどん切り替わる。それが彼女にも分かるらしく、疲れ切っていた。十中八九、その躁鬱症状の所為だ。
俺はあまりにもその症状が酷に見えたので、何かしてやりたくなった。このままでは、せっかく一生懸命授業に出てこようとしているのに、それができなくなってしまう。峰島が、大学を何とも思わず登校していない他の学生と同じに扱われてしまう未来を、俺は許せなかった。
何か良い案はないか。
こういうときに手を差しのべることができてこそ、世界征服への道は縮まるはず、と俺は真剣に勉強以外のことを一晩考えた。あり得ないことだ。おかげで十月だというのに台風まで直撃してきたわけだが。
そして迎えた火曜日の二限目。峰島はちゃんと教室にいた。俺よりも教室に着くのは早い。他、数人の学生がいる。それぞれ少人数のグループになって、他愛ない会話をしている。峰島は一人、いつも決まって座っている席で突っ伏していた。後期になってからよく見かける光景だ。
俺はケータイを開いて、峰島の名前を探す。メール画面を開いて、慣れた親指さばきで考えてきた文章を入力していく。予め作ってきていても良かったのだが、本人を見ながらの方がいいような気がしてそうしなかったのだ。
あっという間に出来上がった数行のメッセージ。これを見て、少しでも笑ってくれればいいのだが、まぁ気持ちがちょっとでも回復できればいいと思う。心配している人間がいることを、少し遠くから見ている人間がいることを、俺の存在を、ただ知って欲しい。このメールが、事態を悪化させないことだけを祈って送信する。
数秒後。峰島が怠そうに起き上がり、ケータイを掴む。眼鏡の位置を直し、画面を見る。俺は入口に近い後ろの座席に座って、教壇から二列分ほど左にずれた席にいる峰島をさりげなく見つめる。どんな反応をするだろう。
珍しく、俺は不安な気持ちになった。この気持ちは何だろうか。俺自身もテンションは低めになっていたが、果たして彼女は。
峰島はケータイを握ったままきょろきょろとした。そしてこっちの視線と一致する。彼女の目は睨んでいた。えらく怖い。背筋が凍った。峰島は一瞥しただけで前に向き直り、ケータイの画面にもう一度視線を向けた後、それをしまった。教官が黒板の前に立つ。そろそろ授業が開始される。
俺はまだ凍りついていた。あの顔は、怒っているというか、何というか、明らかに好意的ではない方向の顔だ。寝起きだったから、と言うことを引いても、あれはさすがに恐ろしい。こんなに他人に怯えたのは初めてだ。世界征服の前に、この障害をどうにかして乗り越える必要がありそうだ。
俺はこの授業の担当教官には悪いが、真剣に彼女をどうにかすることをずっと考えていた。如何に解決するか、これは難問だ。現代のエネルギー問題に匹敵すると俺は思ってしまったが、今となっては笑い話にしかならない。
悪い方向に進んでいるかに見えた事態は、意外にも解決に向かって大きく前進していたのである。
今日の授業は三限で終わりだ。四限の授業は再履修の連中が外せないものであり、コンスタントに単位を取っている俺には無縁だ。さっさと荷物を片付け終えると、新たなる作戦の準備に取りかかるために教室を出る。と、そこには峰島が立っていた。別に俺を待っていたわけではない。出入口そばに陣取っている俺の席から廊下に出れば、そこがエレベーター前であるというそれだけのことだ。
彼女は冷たい視線でちらりと俺を見た後、開いたエレベーターの中を見る。休み時間に入ったばかりで混んでいそうなところだが、運良く誰もいない。彼女は静かに乗り込む。他に乗りそうな人間はいない。半数以上がこの教室で行われる再履修授業に引っ掛かっているかららしい。
「乗らないんですか?」
静かに、トーンを落とした声で峰島が問う。俺を待っていたらしい。あまり気乗りがしなかったが、彼女がせっかく開けて待っていてくれたので乗り込むことにする。
ドアが閉まる。力が普段とは反対に働く。
不意に彼女が口を開いた。
「さきほどは、どうも」
ぼそぼそと、独り言のように呟く台詞。それはどうもお礼らしい。何のことかさっぱり分からない。
俺は返答に困って黙る。
「『君の心はタンジェント』…なかなか面白かったです」
たんたんと峰島は言う。運がいいのか悪いのか、二人きりの空間はまだ継続している。
「……怒ったのかと思った」
俺は短く、それだけを言う。
峰島は階の書かれたボタンの方を向いたままで、こちらをちっとも見ない。俺も気まずくて、ずっと現在の階を示す表示板ばかりを見ている。もうすぐ一階だ。
「いえ。そんなことは」
ドアが開く。外にはたくさんの男どもが立っている。俺は峰島より先に下りる。入りきれるかどうか分からない人数をあの狭い空間に押し込めると、ドアは閉まって目的の階へと上下運動を再開させる。背の低い峰島の存在を認めたのは乗り込み終えて人がいなくなった後だ。さすがに女子はちまっこい。
「これから帰りですか?」
峰島は無表情に、事務的な言い方で問う。仮面をつけている状態。自動化された変化は見事だ。
「あぁ、そうだけど」
具体的には、目の前の彼女にいかに革命をもたらすか、策を練る予定だが。彼女はつゆにも思うまい。
「バイトですか?」
俺は首を横に振る。
「私もこれで帰りなんですが、ちょっと付き合ってくれません? 用事があるなら、別ですが」
おや、と思った。俺は自分から誘うことはないが、誘われれば別段用事がなければついていくタイプだ。彼女の誘いなら、断る理由はない。
「暇だからいいよ」
と、答えたのは致命的だった。
都内にある大学密集地域には、ゲームセンターやらカラオケやら、そういった娯楽に関する施設は見えるところならどこにでもある。商売だから、目に付かなくては意味がない。
横に並ぶのではなく、峰島は俺の少し前を歩いて誘導する。このまま人混みに紛れたら、俺は彼女を見つけられるだろうか。その前に、ストーカーになってないか? 急激に寒くなり始めた十月の街を、俺は薄い上着のポケットに両手を突っ込んで歩いた。秋を通り越して冬が来たみたいで、服装もみんな暖かそうだ。峰島も暖かそうな格好をしている。
「皆月君」
峰島が不意に足を止めた。俺もそのそばに合わせて停止する。
「なに?」
「私って、おかしいですか?」
人の波は止まることを知らない。みんな思い思いの方向に動いているのに、それでもどこかに規則性を見出せる。それはマクロな視点によるものだからだろうか。ミクロで見れば、振る舞いは違うのか。突然消えてなくなったりするのか。
「何が基準?」
俺は問いを問いで返す。峰島はこちらを見ない。自分の足下をじっと見つめている。
「社会です」
彼女はきっぱりと言う。
「社会なんて常に変化する。そんなものを基準にしたところで、どうにもならない」
俺もきっぱり言って、さらに否定する。
「でも、世の中見ているものは社会で、それを基準にして物差しを作っている。違いますか?」
少し感情的な言い方で峰島は問う。
「基準にすべきは、自分自身だ。他人とか、そう言うものじゃない。自分が見て、聞いて、考え出した基準だ。それを元にして物事を決めなきゃいけない」
「間違った基準を持っていたら? それは取り返しのつかないことになる」
「そうかな? 結局は、自分自身で決めなきゃいけない。他人にとやかく言われようと、自分は自分の視点であるべきだ。他人の気持ちを分かるためには他人の視点に立たねばならない、って言っても、本当にそいつの視点になれるか? そいつの人生すべてをかけてその基準、その視点ができたんだ。それらをすべてトレースするのは不可能なことだ。例外として、マスコミはどんな型にでもはまるような基準や視点を提示するがな、あんなのに惑わされるのは恥ずかしいことだと俺は思うね」
峰島が反論できぬよう、捲し立てるように言い放つ。俺が日頃考えていることだ。幼なじみのあいつの前以外には語らない持論。彼女が求めるなら、隠しているわけじゃないので話しても良い。
峰島はこちらを向いた。泣き出しそうな顔でこちらを睨んでいる。結構迫力がある。
俺はたじろいだ。泣かれたらそれなりに困るし、逆切れされてもそれは厄介だ。
「あなたは、ご自分の基準をお持ちのようですね。羨ましいです」
きつい口調で言う。
「……本題からそれるけどさ、もうちょっと自然にいかない? それが原因の一つになっているのは明らかだろう? その仮面」
困った顔を意図的に作って、俺は指摘する。ここで仮面を剥がしたら、彼女はきっと泣くのだろう。そんな気がする。
「……!」
峰島は一瞬顔をこわばらせた。視線を一度外し、思わずそうしてしまった自分に気付いたのか、再びこちらに目を向ける。
「もっと、自分に素直であるべきだと、俺は思うけど」
「私の何が分かるって言うんですか? 言うのは簡単ですよね。私が知らないと思っていたんですか?」
興奮するような激しい口調。それでも端から見れば口論とはとらえられまい。
「確かに。言うのは簡単だ、知らなければなおさら。でも、俺が知らないのは、俺が聞かなかったからだけじゃない。君が語ろうとしなかったところにもある。自分のことを棚に上げるつもりかい?」
敢えて優しい口調で、諭すように言う。俺に対し、こういう説教をし出す人間がいたら、きっと問答無用で殴りかかるだろう。俺は理論派を気取ってはいるが、実のところ実力行使派だ。たいていのものは、力でねじ伏せてきた。そんな不名誉な実績がある。最近はおとなしくしているが。
峰島は唇を噛んだ。反論できないらしい。
「聞いて欲しいなら、何でも聞くよ。コメントが欲しければ相談してくれて構わない。それで君に笑顔が戻るなら」
言いながら、なんて気障な台詞だ、と自分に毒づき、峰島の態度を窺う。
彼女は少し晴れやかな表情になった。でも、決して微笑んだりはしない。睨むのを止めて、むすっとした感じ。もうちょっと笑ってくれれば可愛いんだろうがなぁ、と思ったのは、こっちの勝手なイメージを押し付けることになるのですぐに忘れる。
「よくそんな台詞を素で言えますね」
「これでも演技派だから、俺」
苦笑して答える。峰島のツッコミは、自分で反省していただけに追い打ちを掛ける形となって大きなダメージを精神に直接叩き込んだ。
「……変わっているって言われません?」
峰島が苦笑する。どうやら俺が勝ったらしい。ダメージを受けただけはある。
「まともだと言われたことが一度もない」
「でしょうね」
間髪入れずに峰島が肯定する。じわじわと精神を攻撃されているような気がする。終いにはとどめを刺されるのではないか。俺が勝ったゲームのはずなのに。こんなに胸がちくちく刺されるような痛みを感じたのは初めてだ。
「……少しはすっきりしました。もう結構です。このまま電車に乗りますから」
気付かなかったが、ここは駅の入口。店と店の間に作られた、地下鉄のホームに続く場所なのだ。誘導されながら、帰り道を送らされていたというわけ。なかなか彼女も芸がこんでいる。頭の回転数は俺と同じくらいか。
「わかった。くれぐれも気を付けて帰ってくれよ」
「ええ。また明日」
峰島は軽く手を振ると、そのまま地下に下りていく。
残された俺はしばらくそこで見送り、くるりと向きを変えて歩き出す。自宅に向けて。
その道の途中で、彼女からメールが届いた。文面はこうだ。
『君の心はタンジェント
ハイの無限大にあったと思えば
次はローの無限大
何度も何度も繰り返す
そこに何かが掛け合わされれば
少しは変化があるかも知れない』
そこまでは俺が送った文面のままだ。
さらにコメントは続く。
『私の心はタンジェント
ハイの無限から
急にローの無限へジャンプする
あなたは私の漸近線
近くまで来ても触れることはできない』
そこでメールは終わる。
俺はメールの返信フォームを開く。
『俺は君の漸近線
何度も何度も君は近付く
いつかその手が届くまで』
高速打ちがこれほど役に立ったことはない。すぐに送信、そして受信。
『あなたは私の漸近線
もう こんなに近くにいるわ』
電話が鳴る。俺はすぐに出た。
「皆月君?」
「なに? 峰島さん」
かなり吃驚したが、冷静を装う。ひょっとしたら、俺の方が彼女よりも手強い仮面遣いかも知れない。
「ありがとう。それだけを伝えたくて。皆月君の前だけなら、ちょっとは自然に振る舞えるかも知れない。練習に、私たち、付き合ってみませんか?」
電話越しの突然の告白。実に彼女らしい。駅のホームでの電車待ちの一コマ。向こうもそんな感じだ。
「俺で良いの?」
わざとらしく言う。この返事は了解を示すものだ。
「あなたじゃなければダメです。もう、断れませんからね。断ったら、飛び降ります」
最後の台詞は声を低め、ぼそりと呟く。人はそれを脅迫と呼ぶ。
「コラ待て、付き合うから脅迫は止めろ!」
電車の到着する音。向こうも、こちらもほとんど同じタイミング。
「冗談ですよー。誤って皆月君、落っこちていませんよね?」
「…………落ちた。確実に精神は落ちたぞ」
心拍数が上がっている。今までこんなに動揺したことはない。今まで、本当に一度も。
「肉体が落ちてなければ、物理ダメージは入らないので大丈夫です。じゃ、健闘を祈ります」
ツーと電話は切れる。電車に乗り込むに伴い、通話を切ったらしい。俺もケータイをポケットにしまう。
もう一回くらい電話があるんじゃないかと警戒したが、実際はなくて、それきり電話は静かだった。
さて、俺はまともな人付き合いをしたことがない。一匹狼を気取っていると言えば何となく格好が付くが、ただ協調性がないだけ。他人と喋っていても全く面白いとも思えなかったし、共通の話題を探す作業が億劫で、だいたい他人に興味がないわけだから、無理にする会話は意味がない。事務的な会話は的確にこなすことができたが、それがどうした。原因は分かっている。俺が喋ると、つい持論が出てきて他人の興味を失わせるのだ。原因が分かっていても、それの解決案が全くない以上、直しようがない。対処法は、他人の会話の中では何も喋らない、もしくは人との関係を絶ってしまうことだ。それが今の俺の環境。俺の話に耳を傾けてくれる奇特な人間のみが周りに残った。例えば、幼なじみの神谷、とか。そんな俺が、女の子と付き合う……、一体やっていけるのだろうか? しばらくは聴き手となって、彼女のカウンセリングらしきことをすればよいのだろうが……。難しく考えるからいけないのか。
そんなことを考えていたら頭の中がいっぱいになってオーバーヒートし、最近の寒さと相まって熱が出てうなされる羽目となった。翌日は見事大雨だった。
* * * * *
話を聞いて、皆月の身に何が起こったのは理解できた。だがしかし……。僕は小さくうなる。
「……なんか怖くないか? その子」
「はっきり言って、俺もそう思う」
あっさりと皆月は肯定する。三十分かけて事の馴初めを話し終えたところだ。
「でもまあ、お前もいろいろ思いつくものだな。感心するよ」
僕の時もそうであったが、実にいろいろな台詞が出てくるものだ。
「もう少し気の利いた言葉を言えるようになりたいと初めて思ったが」
納得できない様子で皆月が言う。
「つっか、気の利いた台詞が言えるようになったら、それはもうお前じゃないだろ」
笑いながら僕はツッコミを入れる。
「……本当に珍しいな。お前が関心を持っている人間がいるとは」
そう続けて、笑うのを止めた。
「それなりの心境の変化があったらしい」
さばさばと皆月が答える。だろうな、と僕は思う。
「電話をかけてくるとは思わなかったからなぁ、登録したときは。そんなに話を聞いて欲しかったわけ? 僕の邪魔をしてでも」
「かもしれないな」
「お? 正直だな」
意外そうな返事をする。
「最近俺も変かもしれない。なんか、さ。俺が俺じゃないみたいだ」
歯切れの悪い様子で皆月は答える。その台詞自体が彼らしくない。
「恋をしているから、じゃないのか?」
からかいではなく、真面目に僕は言った。
「恋をしたことがないから、見当もつかないな。でも、世界の見方が変わったのは事実だな」
「それが恋ってもんだ」
優しく、諭すように言う。
「恋、ねぇ……」
「しみじみと繰り返すなよ。腹立つから」
むっとする。僕は一体何を言っているんだろうか。
「で、付き合うことになって、なんかあったわけ?」
現実に戻ってきた僕は話を促す。そろそろレポートに戻りたい。
「特に進展は無し」
「それって、付き合っているって言うのか?」
はぁやれやれと思っていると、「否、明日彼女の家に行くことになった」と言うカウンター攻撃。
「……はぁっ!?」
大音量が受話器に向けられる。
「で、いろいろと困ったことが……」
小声でややもじもじとした感じが向こうから伝わる。
「勝手にすれば? 結果報告は聞くから」
呆れた口調で僕は言う。何でそんな腹の立つことを聞いてくるのだ。
「峰島の意図がわからん。な、神谷もちょっと一緒に考えてくれよ」
「その前に、僕のレポートを手伝え」
僕の頭はすっかり現実に切り替わった。皆月は溜息をつく。
「何のレポ?」
「相転移。金属が相転移する様子を計測する実験」
「何に手間どってんだ?」
「データの打ち込み」
咄嗟に嘘をついた。話が長くなるのだけは避けたかったからだ。
「そんなの自分でどうにかしろ」
突き放すような台詞。
「じゃ、僕もそのまま返すよ。そろそろレポに戻るわ。健闘を祈る」
僕は電話を切った。そしてすぐに電源も切る。これで静かだ。頭の中も少しはすっきりしたし。再びレポートに向かう。とても順調。
それにしても、『相転移』か。あいつにもそういう変化があってもいいのかも知れないな。
僕は皆月の恋の行方よりも、皆月自身の内面の変化に興味が湧いた。僕自身にも、いつかそういう大きな変化がやってくるのだろうか。そんなことを考えながら、ひたすら期限に向けてキーボードを叩き続けた。
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