片道切符-3

───結局、宗一郎先生は来なかった。

 先生も忙しいのだろう。噂では大変な職業だと聞く。例の事件で危ないというのに、この時間まで残って仕事をしているのは本当に頑張っているのだろう。

 なんなら、もう六時になる頃には俺以外の生徒はみんな帰っていた。夕焼けの中、廊下を歩いてても自分の足音以外になんの音も聞こえないのは中々に怖かった。

「……ん、もう結構暗くなってきたな」

 ふと太陽を見るともう大地に沈み始めており、反対側の空は若干藍色に染まり始めていた。

 これ以上太陽が沈めば、街は本格的に夜へ移り、地球を照らす灯りも到底太陽には敵わない人工の街灯に代わっていく。


 カゲの話では、どうやら犯人は本物の吸血鬼らしい。

 吸血鬼といっても様々な伝承があるため実際にどんな姿なのかは知らないが、少なくとも活動時間は夜で間違いないだろう。今からその時間帯へ移っていくことを考えると、少し急いだ方が良さそうだ。

 それに、そもそも犯人が誰であろうが夜は危ない。

 厳密には夜が危ないのではなく、『夜がもたらす闇』が危ないのだ。

 灯りのない闇は、どんな出来事でも隠してしまう。

───たとえそれが、どんなに凄惨でどんなに醜い出来事でも。




「なんか肌寒いな……あんま風が吹いてる感じはしないけど……」

 少し怖いことを想像したからだろうか。なんだか肌寒く感じた。

 制服の上から両腕を摩り、摩擦で体を温める。

 鳥肌が立つというのは正にその通りで、肌寒く感じた時は比喩ではなく実際に鳥肌が立っている。そのため、摩って体を温めれば実際に体が冷えているわけじゃないにもかかわらず落ち着くものだ。こういうのが人体の不思議ってやつなのだろう。


 しかし、中々肌寒さが消えないな……そう思った時、ふと

 どうやら、肌寒さは気のせいではなかったらしい。もうそろそろ夏だというのに、この気温はおかしいだろう。

「……マジか」

 嫌な予感がして顔を上げると、景色が若干白くなっていることに気付いた。


 だ。


 まるで薄いモザイクのように視界を邪魔するソレは段々と濃くなってきており、最終的に視認可能な景色は10m先までが限界となった。

 背後から冷気と視線を感じる。冷気は物理的なもので、視線は概念的なものだ。




───嫌な気配がする




 その視線はひどく無機質なものだ。

 俺を殺さんとする殺意は感じるが、生気は感じない。

 酷く不気味な感覚に、思わず息が詰まってしまう。


 すぐに呼吸を整え、背後を振り返る。

───そこには、


「■◾︎───」


───全身が氷に包まれた、ニンゲン達がいた。




「───ッ」

 本能が告げる。「あれはだ」

 理性が告げる。「あれはだ」

 本能と理性が、矛盾した事実を突きつける。

 おそらく、どちらも正しい。あれはニンゲンだが、同時にバケモノでもあるのだ。

 今すぐに叫んで逃げ出したくなるような、醜く悍ましい姿をしているそいつは、確実に俺のことを狙っている。

「■■◾︎■───」

 そいつはゆっくりと、一歩ずつ確実に近づいてくる。

 霧のせいで見えづらいその姿を、目を凝らして確認する。

 全身を氷に包まれたそいつは、ぎこちない動きでこちらへ向かっている。

 その目は虚で、何も視ていない。生気も感じられず、そいつが死者であることを悟る。

 氷の中に見える肉体は腐敗しており、一歩進む度に“がじゃり”と腐肉が削れる音が聞こえる。

 彼らが一歩進むたび、足先の地面が凍る。明らかに物理法則を無視した現象に、脳が理解を拒んだ。


───マズい。

 やつらをこのまま放っておけば、間違いなく誰かが死ぬだろう。

 それはダメだ。この街の日常が壊れるなんてのは

 間違いなく逃げるべきだが、放っておくわけにもいかない。


……だが、どうやって奴らをコロす?

 間違いなく素手で壊すのは不可能だ。

 ただの氷でさえ、普通の学生程度の腕力では破壊できない。ましてやバケモノの、触れるだけで周りを凍らせる氷だなんて、とてもじゃないが壊せる気がしない。

 だからといって、武器なんてものは当然持っていない。

 俺は傭兵でもなければスパイでもなく、殺人鬼でも武器マニアでもない。いや、武器マニアでも武器を持ち歩くことは流石にないだろうが……。

 とにかく、俺は武器を持っていないのだ。もっと言えば、対抗策を持っていない。

 そんな状態で一体どうやってコロせばいいのか。


 そんなことを考えていると、目の前のバケモノが飛びかかってきた。

「■■◾︎───」

「しまっ⁉︎」

 やらかした。必死に思案する俺を気にも止めず、バケモノは迫ってくる。

 バケモノにとって、俺が何を考えているかなんてのはどうでもいい。目の前で餌が突っ立ってるなら、最初から待つわけがなかった。

 避けられない。間合いの問題じゃない。距離を取るだとか、動きを視るだとか、そんな場面はとっくのとうに過ぎている。


 この“死”は避けられない。佐季という男は今、ここで終わる。

 実にあっけなく、実にくだらなく、実に無責任に終わる。


 ただし───




───




「『』」


 頭上から声が聞こえた。次の瞬間、砕けるような音と共にバケモノは活動を止める。

「……え?」

「こんばんは、少年! 早速で悪いけど、見たことは忘れる勢いでお願い!」

 声の主は俺の一切を無視して一方的に命令する。

 納得はできないが、反論する暇もない。そのまま、緋色の髪をした女が降りてくる。


「よっ───と」

「■■◾︎‼︎」

「残念、そこは見えてるの。『アンフォルメル』」

 彼女が何か言葉を発すると、緋色の液体のようなモノが出現し、そのまま爆発した。

「うわっ!」

 突然の爆発に驚く。しかし、おかげで霧はある程度晴れたようだ。

「これでやっと見やすくなったわ。

 やーほんと。吸血鬼らしい陰気な技よね、これ」

 一瞬で霧を晴らした彼女は、すぐに次のバケモノへ狙いを移す。

 壊されたバケモノはそのまま、春先の雪のようにボロボロに崩れていった。


……俺はそれを見ているだけだ。こんな見ず知らずの、それも恐らくはバケモノと同類の女に任せっぱなしだなんて……そんなのは認められない。

 これはあくまでも。俺の仕事である以上、任せっきりにするなど許されることではない。




「───あ」

 ふと足元を見る。さっきあの女に壊されたバケモノがちょうど崩れて消えたところだ。

 よく見ると、そこには銀色に光るナイフのようなものが刺さっている。


───ちょうどよかった。これで武器の問題はクリアだ。


 おそらくだが、彼女はこれを使ってこのバケモノを壊したのだろう。

 何にせよ、これで武器は手に入った。さて、次の問題だ。

 バケモノの攻撃を躱しながら、バケモノをコロす。その方法が必要だ。

 だがこれに関してはすぐに答えが出た。

 そうだ。俺にはそれに最適な道具がある。


───結果さえ想像すれば道を示してくれる、あのが。


「───ふぅ」

 全ての問題はクリアした。あとは実行に移すのみ。

 熱く鼓動する心臓を落ち着かせる。集中して沸るのは成功の兆しだが、集中する前から沸るのはただの焦りだ。それは間違えてはならない。

 想像する。バケモノが綺麗にくずれる、その未来を。

 標的はアレだ。あの女から一番離れている、アレが最適だ。


 思考に景色が浮かび上がる。どう動けば良いのか、驚くほど明確に視えてくる。

「……っ!」

 を決め、走り出す。

 無駄な動きは必要ない。確実にコロすことだけを考えて、ただ重ねればいい。

「■■◾︎───!」

 バケモノがその動きに対応しようと、腕を伸ばす。だがその腕に意味はない。

「───」

「■◾︎⁉︎」

 ナイフが腕に入っていく。抵抗もなく、するりと綺麗に入り込んでいく。その感触には俺も驚いたが、冷静さは崩さずに、景色通りに腕を切り落とした。

 腕を切り落とし、そのまま刃先は心臓へ向かっていく。最適化された行動が、バケモノに反撃の隙すら与えない。


 結果、ナイフは綺麗にその心臓を貫いた。


「は───ぁ」

 不思議と、バケモノを壊した実感が湧かない。手応えは軽かったし、今はそれよりも大事なことが残っている。

 ふと見れば、他のバケモノはすでに消えていた。

 あたりに広がる鮮血と、白氷と、緋色。鮮血と白氷はバケモノの死骸だろう。ならば緋色は、あの女のモノだ。

───あぁ、結局仕事のほとんどは奪われてしまったようだ。


「ねぇ貴方、今の動き凄いわね! 一切の無駄がない完璧な動きだったけど。

 もしかして同業者だったりする?」

 この女は馴れ馴れしく話しかけてくる。

 正体がわからない以上、警戒は解かない。しかし言葉が通じるのなら話す価値はありそうだ。

「同業者も何も、俺はただの学生だよ。バイトもしてないし、給料だって人生で一度も貰ったことはない。

 というか、何者なんだお前は。なんのためにこの街に来た」

「えー違うの? 私は仕事で来たんだけど……。

 というか、ただの学生なわけないでしょ。あの動きに説明がつかないんだけど?」

 どうやら、彼女は仕事で来ているらしい。

 どんな仕事かは大体想像できるが、その一言だけで納得できるほど俺は単純じゃなかった。

「残念ながら本当に学生だよ。というか、まず俺の質問に答えろ。

 お前、何者なんだ。人間……じゃないよな?」

 再度正体を問い詰める。

 確かにこの女はバケモノだろうが、その詳しい内容まではわからない。

 少なくとも先程のバケモノ共との違いさえわかればそれで───




「私? “彩化物”……まぁつまるところ?」




───は?

 こいつは今、なんて言った?

 吸血鬼……吸血鬼か?

 その単語は、よく知っている。ここ数週間はその話題で持ちきりだ。

 なんなら今日の昼に聞いたばかりだ。それも、本物の吸血鬼の話を。


───だが、それはダメだ。

 その単語は、非常に好ましくない。むしろ最悪といえる。


 あの事件と関わりがある単語は、今の俺にはあまりにも耳障りすぎる。


「ねぇ、貴方聞いてるの? 急に静かになって一体どうし───」


「……」

 無言でナイフを握りしめる。

 即座に景色を視て、行動に移す。

 抱きしめるように彼女を押し倒し、心臓へナイフを突き立てた。


 あまりの急な動きに理解が追いつかなかったのか、彼女は抵抗も悲鳴も驚愕も恐怖も一切見せず、なす術なく俺に組み伏せられる。

 彼女が反応するよりも早く、そのまま俺はその手に握りしめたナイフを心臓に突き刺そうとして───────













──────やめた。


 よくよく考えれば、事件の犯人は『氷霧の吸血鬼』だ。

 氷と霧を扱っていたのは先程のバケモノ達の方で、彼女はむしろそのバケモノを殺して俺を救い出してくれたのだ。

 それに、影狼が言っていた犯人は“蒼白の吸血鬼”だ。この女は蒼白とは真逆の緋色であり、流石に情報と特徴が違いすぎる。

 少し気が立っていた上にさっきの出来事もあって少し興奮してしまったようだ。少し頭を冷やして冷静になろうと立ち上がろうとして……

「『』」

「ガ───ッ!?」

 彼女の影から飛び出てきた赤い鉄骨が、俺を横の石垣にはりつけにした。




「驚いた……貴方、感情の動きが突然すぎるでしょ……」

 俺の行動に怒っているのだろうか。彼女は据わった目で見つめてくる。

 若干だが冷や汗をかいていることから、おそらく殺されかけて驚いたが故の行動だ。俺が殺そうとしてきたと思っているのだろう。それで身を守ろうと俺に反撃をしたってところだ。

 そして彼女の考えていることは非常に不味いことに“事実”であり、先程までとは一転して今度は俺が命を握られる側だ。

 俺を磔にしている鉄骨はあと少し動かすだけで俺の首を潰すところまで来ており、彼女は俺をいつでも殺せるのだと理解する。その事実が、逆に俺の思考を冷やし冷静にさせた。


「貴方、もしかして二重人格?」

「んなわけっ……あるか……! 今のはつい勘違いしたんだ……悪かった……!」

「勘違い? 一体何を何と勘違いしたのよ。それに勘違いで人を殺しかけるなんて貴方はサイコパスか何かなの?」

……! そう言っただろ……!

 それでてっきり……犯人かと……ッ!」

「あー? あー……」

 緋色の彼女は腕を組んで、空を見上げては地上へ目線を落とした。

 彼女が機嫌を直してくれない限り俺に待っているのは絶命だけであり、その原因を作った俺にできることはただただ祈ることのみだ。




「……まぁいいわ。色々文句は言いたけど、知りたいこともあるし。

 そもそも本当に殺すつもりなら殺せたでしょうし、謝罪に免じて解放してあげる」

 彼女がそう言うと鉄骨は粉々の赤い破片になって消え、俺の身体は再び自由を取り戻す。

 磔になっていた反動か少しバランスを崩しかけたが、なんとか持ち直した。

「あ、ありがとう……」

「……武器とか隠し持ってないわよね?」

「ないよ。銃刀法違反になるからな、さっきはお前のナイフを借りたんだ」

 地面に落ちたナイフの方を指差し、あくまでも俺は素手だと主張する。

 よくよく考えたらナイフなんて危ない武器でよく戦えたものだ。我ながら危機意識の低さに若干呆れる。

「使い慣れない武器であの動きだったの? ……ますます気になってきたわね。

 立ち話もなんだし、どこか移動しましょう。貴方の家ってここから近い?」

「まぁ、歩いて1、2分程度かな。……おい待て。もしかして、俺の家で話す気か?」

「だって私の家はここから20分ぐらい歩くし。近い方がいいでしょう?

 それに、貴方に文句を言える権利があると思っていて?」

「うっ……仰る通りです……」

 それを言われては仕方がない。彼女の気まぐれで生かされている以上、俺は断れるような立場じゃないだろう。

「はぁ……それじゃついて来い。悪いけど、何も出せるものはないからな。それだけは言っておくぞ」

「えー? お茶とかないの? 特に緑茶」

「……まぁ、それならあるけど」

「お、やったー。それじゃ、緑茶だけお願いね」

「はいはい……」

 まるで友達の家に遊びに行くかのようなテンションで、彼女は俺の後ろをついてくる。

 しかしだからといって特に話しかけてくるわけでもなく、気まずい沈黙が支配する中、俺たちは家へ向かった。

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