第46話 頑張れ! 岩野さん

 三月とはいえ、まだまだ寒い日が続いている。きーんと冷えた空の下で木蓮の花が膨らみ始めていた。私は久しぶりに自分の部屋で目を覚まし、寝返りをうつ。隣に黒木さんは居ない。


 少し前から黒木さんは軽い咳をしていた。

「コホン……んんっ、コホン」

「黒木さん、大丈夫ですか?」

「ん、なんか喉がイガイガするー。気を付けないとなぁー」


 黒木さんの為に、生姜湯を作って一緒に飲む。ピリッとした生姜の香りが私の喉にも染み渡り、体がポカポカとしてくる。

 その日の黒木さんは、いつもと変わらずに仕事をしていた。シェイカーを振り、ビールを注いだり、ライムやレモンをカットしたりと忙しい。


 ただ、お酒をあまり口にしなかった。これまでも、こんな日があったけれど今日は何となくいつもとは違うように見える。……顔色もあまり良くないようだ。

 

「黒木さん、大丈夫ですか?」

 お客さんに気づかれないように聞いて見ると、首を小さく動かして頷いて見せるのだけれど、やっぱりいつもとは少し違うようだ。肩で大きく息をしているように見え、額にはじわりと汗をかき深く息をしている。


 その日の営業はなんとか無事に終了したのだが、やはり黒木さんの様子がおかしい。


「なぁ、真瑚まこと、お前調子悪いだろ? 無理しないで帰った方がいい!」

「んぁー、けど……」

「黒木さん、私が後はやっておきますよ! 鍵もちゃんとありますし、気にしないで先に帰って休んでください!」

「ほら、澪ちゃんも言ってくれてるんだし、長引いてしまうと大変だぞ!」

「ぁー、悪いけど先に帰るわー! あと宜しく頼むわ」


 少しふわふわとした足取りで黒木さんが帰る支度をしている。よほど辛いのだろう、いつもの優しい表情はなく、声に力もない。


「あ、澪ちゃん、申し訳ないけど今夜は自分の家に帰って欲しい。万が一、風邪をうつしてしまったら大変だし……」

「え、食事とか色々……」

「大丈夫! 薬とか食べ物とか買って帰るから。安心して!」


 とても心配だったけれど、素直に受け入れる事にした。黒木さんには余計な事を考えずにゆっくりと体を休めて欲しいと思ったから。そして黒木さんは閉店作業を私と岩野さんに任せて、肩を窄めながら帰宅した。


「物凄く体調悪そうでしたね、私あんな黒木さんを初めて見たかもしれません」

「あいつは昔からそうゆう所あるんだよ、あまり見せないというか……強がりというか……頑張りすぎる所あるからなぁ」

「私、もっと黒木さんの事をちゃんと見てないとダメですね……」


 お店が忙しくても休みの日もちゃんと私との事を考えてくれている。ゆっくりと疲れを取る時間が減ってしまったのかもしれない。もしかしたら私のせい? なんて考えがよぎる。


「あ、澪ちゃんのせいじゃないからね! 真

まことは昔から変わらないんだよ。仕事も澪ちゃんにも全力なんだよ、だから今頃気にしてると思うよー、澪ちゃんが心配してるだろうなぁって」


 私の考えている事が顔に出ていたのだろうか……。岩野さんの言葉に少しだけ救われた気がした。本当に黒木さんも岩野さんも優しくて、私はとても恵まれている。


「……私、心配です」

「大丈夫だよ! 俺、帰りに様子見に行くし明日も無理すんなって言っておくから!」

「はい、お願いします!」


 そうお願いしてお店の戸締まりをして帰宅した。もともとは一人で住んでいたのに、黒木さんが居ない部屋は何となく冷たく感じる。電気をつけて小さなテーブルの前に座りスマホをチェックして、お風呂に入る。今までと同じリズムで特別何も変わらない。なのにベッドに入っても、黒木さんが居ないと何だか広く感じてすぐには眠れなかった。



 ゆっくりと起き上がりスマホをチェックすると黒木さんからメールが届いていた。画面を見て、私は慌ててすぐに電話をかけた。


「もしもし? 澪、ごめんね」


 辛そうな黒木さんの声だ。

「もしもし? 大丈夫ですか? 病院行きましょ! 私、付いていきますから!」

「澪、落ち着いて。タクシー呼ぶから俺一人で大丈夫だよ! それより、今夜はお店頼むね!」


 黒木さんは薬を飲んで寝たけれど、熱が三十八度五分あるらしい。身体中が痛くてあまり睡眠もとれなかったようだ。


「お店……私、お酒作れない! どうしよう!」

「大丈夫! 和也がある程度は作れるから! シェイカー使うカクテルとかだけ今日はストップさせといて!」

「わかりました、何とかします! 黒木さん、本当に一人で大丈夫ですか?」

「澪、ありがとう! 早く復活するように休むから、今日は和也と二人で乗り切って!」

「はいっ! 気をつけて病院行って来てくださいね」

「了解!」


 

―――カランコロンカラン。

「いらっしゃいませ!」

「いらっしゃいませ!」


 今日のお客さんは、みんな口を揃えて同じ事を言う。

「あれ? 黒木さんは?」


「今日は体調不良でお休みなんです。ごめんなさい」

「まぁ、澪ちゃんいてくれるから大丈夫だけど! 黒木さんが休むなんて珍しいね」


 そして、いつもとは少しだけ違う人物が一人だけ存在していた。いつもは店内を自由に動き回っている岩野さんだ。もちろんカウンターにも入ったりもするけれど、ダーツをしたりお客さんと話したりと好きな事をしている岩野さん。

 今日はカウンターの中でお客さんと会話をしてお酒を作る。


「しんさん、これでしたっけ? ロック?」

「あ、その隣のボトル! それ! ロックでね」


 ロックグラスに氷を入れてバースプーンでくるくると回しグラスを冷やす。溶けた水分を捨て、お酒を注ぎ軽く混ぜる。岩野さんは少し緊張したような表情で、グラスをそっとしんさんの前に置いた。しんさんは、そっと手を伸ばしグラスに口をつけて一口飲むと微笑んだ。


「岩野さん、うまいわ!」

「ありがとうございます、って、注ぐたけだからー」

「緊張してて、面白いわ!」


 いつものメンバーにもからかわれながら、岩野さんは頑張ってお酒を作っている。

「岩野さーん、コーラくださーい!」

「了解です!」


 そして、みんなが一口飲んで笑顔で言うのだ。

「岩野さーん、うまいわー!」

「だからー、注ぐだけだっつーの!」

「頑張れ! 岩野さん!」

「おうっ、応援ありがとよー!」


 黒木さんの体調不良も心配だけれど、いつものお店の明るい雰囲気を保とうと頑張ってくれた岩野さんに感謝をしながら、その日は仕事を終えた。いつもの食事にいつものお酒、いつものみんなの笑い声が今夜もお店には揃っていた。

 

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