第38話 岩野さんの日常

―――ジジジジジジジジ……。

 けたたましく鳴り響く目覚まし時計を止めて、重い体を起こす。床に直接敷いた布団の中でまだ眠い目を擦りながら、スマホのメールなどをチェックしてボサボサの髪の毛のまま立ち上がる。

 

 少し古びたコーポの二階に部屋を借りた。

 様々な国を旅してきたせいか、少々の事は気にならない。部屋には当たり前にお風呂とトイレもキッチンもあって、水道もガスも電気も何不自由なく使える。やっぱり日本は素晴らしい国だと改めて感じる。



 俺の朝は早い。普段はガソリンスタンドで朝からバイトをしている。だいたい平日の朝から夕方まで、時々閉店まで働く日もある。

 土曜日と月曜日は真瑚まことの店の手伝いに夕方から行く。あいつからお給料を貰うのが嫌だと言って、お給料は貰わないことに決めている。

 その分、飲んだり食べたり、ダーツをしたりと自由にさせて貰っている。俺は自由を愛する人間なのだから。


 バックパッカーで旅をしていた時は、それはそれは酷い生活をしたこともあった。お金もないし、治安も悪いし、落ち着いて眠れやしない日々を繰り返しながらいくつもの国を回った。英語は何とか話せるようになったし、いつまでもフラフラとしているわけにもいかないだろうな……なんて考えるようになって、三年ほど続けていた旅を終えて帰国してきた。


 実家に一旦顔を出して、何となく気になっていた真瑚まことに会いに行ったんだ。

「おー、和也! お前ワイルドになったなぁー」

「そーっすか? あんまり変わらないっすけど!」


 お店に行ったら、真瑚まことは居なくて、自分の店をやっていると聞いて会いに来たんだ。

「和也!」

 あの時のあいつの驚いた顔は今でもハッキリと覚えている。俺が旅に出る前に見ていた真瑚まこととは違っていた。


 蒼白かった顔色は随分と良くなり、体も少しがっちりとしたように思う。何よりも驚いたのは、あいつの笑顔が昔に戻っていた事だった。となりできょとんとした瞳で俺の事を見つめている女の子のおかげなんだろうと、何となくすぐにわかった。


「宜しくね、澪ちゃん!」

 握手を交わした彼女の手は小さくて可愛らしかった。こりゃー、真瑚まことは絶対に惚れているってすぐにわかった。なんてゆうか、昔からの付き合いであいつの好みはわかっているつもりだ。

 この時、俺は二人をとことん応援することに決めたんだ。


 開店時間の前に店に行くと、賄いを食べれる。まぁ、いつ行っても賄いは食べれるようだけど、俺は食事は大切な人とゆっくり楽しみたいから一緒に食べるようにしている。

 澪ちゃんの作る料理はシンプルだけど美味しくて、俺の楽しみの一つでもあるのだ。

 

「これ、新しいメニューなの! 食べてみて!」

 澪ちゃんも楽しそうに仕事をしてくれて、真瑚まことが嬉しそうに笑っている。これは何とかしてあげたいなぁー、なんて玄さんとこっそり会話をする事もあるくらいだ。


 


「オーライ! オーライ! はい、OK! こんにちわ、レギュラーでいいですか? 満タンにします?」

「うん、満タンで! それとー、タイヤの空気圧チェックしてもらえる?」

「はい、了解です!」


 最近はセルフサービスのスタンドが増えているが、俺はあえてセルフではないスタンドで働いている。やっぱり人と会話をしたいし、車も好きだし、屋内にいるよりも外にいる方が自分には合っている気がしている。



「岩野くん、ありがとう! また頼むねー」

「もちろんです! ありがとうございました、お気をつけてー」

 今日もお客さんが乗った車を見送る。



 休憩時間はコンビニでパンと珈琲を買い、SNSをチェックしたりメールの返信をする。


『元気? 次はいつ会えるかなぁー』

『元気だよ! 俺はここで頑張っていくつもりなんだ。世莉亜せりあ、一度こっちに来てみないか? 仕事の事もあるだろうけど』


 旅の途中で出会った世莉亜せりあは父親がアメリカで母親は日本のハーフの女性だ。アメリカのナイアガラの滝を見に行った時に出会った女性だ。彼女に最初に出会ったのは、まだバックパッカーを始めて間もない頃だったと思う。クルーズ船に乗りアメリカとカナダの領域の真ん中に浮かび、たっぷりと水しぶきを浴びた後、クリフトンヒルの繁華街に行った。フラりと入ったカフェで食べたパンケーキにかかっていたメープルシロップが気に入って旅のお供に持って行こうと買いに行ったのだ。

 まだ英語も簡単な単語しか話せなくて困っていた時に声をかけてくれたのが世莉亜せりあだった。

「日本の方ですか?」

「はい、ヒッチハイクをしながら旅をしてます! メープルシロップが気に入ったんですけど、どれがいいのかわからなくて」


 それが世莉亜せりあとの始まりだった。俺はそのまま旅を続けて、数ヶ月に一回、彼女とどこかの国で会うようになった。世莉亜せりあも旅が好きで数日間一緒に旅をして、彼女は自分の国へと帰って行く。特に次の約束をするわけでもなく、遠距離恋愛をしている彼女というわけでもなかった。



『今度、日本へ旅行に行くわ! 母親の生まれた国をまだ知らないし』

『おうっ! 俺はいつでも構わないよ』

 俺は少しほっとした気持ちでメールに返信をした。


 

「おーい、岩野! 手洗い洗車入ったんだけど、休憩終わったら一緒に手伝ってくれるか? 車内もなんだよ」

「了解! あと5分で休憩終わるんで待ってて下さい!」

「ありがとな!」



 この事はまだ真瑚まことには内緒にしておこう。今日は早めに仕事終われそうだから、店に遊びに行って賄いを食べさせて貰おうかな。自由を愛していたはずの俺だけど、あの二人を見ているとここでじっと過ごしていくのも悪くはないな……なんて最近思い始めたのだ。



「オーライ! オーライ! ありがとうございました! お気をつけてー」


 俺は帽子を脱いでお辞儀をして、ピカピカになった車で帰るお客さんを見送った。


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