第35話 鼓動

 私は珈琲は飲めないけれど、珈琲の香りは大好きだ。黒木さんがテーブルに置いたマグカップから湯気とともに珈琲の香りが漂ってくる。私は思わず顔を近づけてしまう。

「いー、香り!」

 知らないうちに、黒木さんの肩に近づいてしまった。慌てて離れよとした時には遅かった。


 すっと、黒木さんの長い腕が私の肩に回されて私は身動きが出来なくなってしまった。

……いや、そのまま動かなかった……というのが正解だろう。いつものシャツではなく、部屋着のパーカーに着替えた黒木さんからは洗剤のいい香りがフワッと香ってくる。

「澪ちゃん、ごめん。こんなつもりじゃなかったんだけど……」

 黒木さんは申し訳なさそうな声で言って、私の肩に回した腕をそっとおろす。ほんの一瞬の出来事なのに、私の肩が寂しく感じてしまった。

「黒木さん、謝らないで下さい。私、黒木さんと一緒にいたかったから……」


 今度は私から黒木さんの肩にもう一度近づいていった。私よりも大きくて細いのに筋肉質な腕に寄りかかり、パーカーの袖口を少しだけぎゅっと握った。とても恥ずかしくて顔を見ることはできなくて、珈琲の香りと洗剤の香りの間でそっと目を閉じる。とても心地よい瞬間だった。


「澪ちゃん、しばらくこうしてていい?」

「はい、しばらくこうしててください」


 黒木さんの長い腕が再び私の肩に回されて、今度はぎゅっと抱き寄せられる。

 拾われてから随分長い間、黒木さんとは一緒に過ごしてきたけれど二人の距離がこんなに近づいたのは初めてだった。


 そして、黒木さんは私のおでこに優しくキスをしてくれた。


 「澪ちゃん、そろそろ寝ないと……もう朝になっちゃったよ」

「そうですね、色々疲れちゃいましたもんね」

「ベッドひとつしかないけど、横になろう」


 黒木さんから借りたスウェットは大きくて、パンツの裾を折り曲げて履き、袖はそのままにしておいた。

「俺さー、いつも上は裸で寝るんだよねー、澪ちゃん、ちょっとだけ我慢してね」

 私に気を使って、一応パーカーを羽織ってはくれたけれど、胸は丸見え状態だった。


 ベッドに横になった黒木さんが、布団をめくったまま私を待っている。

「澪ちゃん、おいで」

 って言われて、なんだか嬉しくなって黒木さんの胸元にすっぽりと包んで貰った。


「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 黒木さんはもう一度、私のおでこにキスをして私は黒木さんの腕の中で目を閉じる。心臓が飛び出してしまうんじゃないかと思うくらいドキドキとしているけれど、私達はそのまま眠りについた。

 黒木さんが顔を動かして、そっと私の唇にキスをした事には気づかないふりをして眠りについた。


 そして、そのまま二人とも寝ていたようだ。私は黒木さんの腕の中で目を覚ました。

 背中から抱き締められるような形で寝ていたようだ。ゆっくりと黒木さんの方に寝返りをうつと、はだけたパーカーから黒木さんの素肌に触れる。初めて見つけた小さなホクロ……黒木さんの寝息……、もう少しこのまま腕の中にいさせて欲しくて私は小さく丸まってみる。


「ん、澪ちゃん、今何時?」

「ん、えっとー、十二時四十五分……かな」

「んー」

 まだ寝ぼけた黒木さんの声が私のすぐ近くで聞こえる。なんだか少しくすぐったい気持ちになる。黒木さんの白い肌の匂い、予想以上に鍛えられた筋肉、乱れた髪の毛。

 レースのカーテン越しに射し込む眩しい光に私達は包まれる。そして、不意に黒木さんの腕が私の後頭部にまわされる。もう片方の手は私の顎に添えられて引き寄せられた。


「澪ちゃん、俺もう我慢出来ないや」


 私の心も体も動くことは出来なかった。

 きっと、ずっと前から私は黒木さんに惹かれていたんだ。いつ頃からかなんてわからないし、何がきっかけだったかもわからない。

 でも確実に私は黒木さんに夢中になっていったのだ。定休日の買い物もお出かけも、楽しみになっていたし、店を閉めて一緒にのんびり歩いて帰る時間も大好きだった。そうでなければ、私は黒木さんの部屋に入ることもなかっだろう。


「黒木さん? 私……」

 と言いかけて止められた。

「澪ちゃん、俺、澪ちゃんの事が好きなんだ。きっと、ずいぶん前から……。俺と付き合ってくれないかな? こんな形で言うのもなんだけどさ」

「ふふっ、確かに!」

「へへっ、ごめんって。でも真剣だよ? 澪ちゃんと一緒なら楽しいんだ」

「黒木さん、私も黒木さんだからここにいるんですよ? 他の人なら甘えたりしませんから」

「へへっ、それもそうだね」

「そうですよ」


 そして、そのまま私達はキスをした。優しい優しいキスをして、私は黒木さんの体に腕を回した。大きくて温かい黒木さんの手は私の頬に触れ、首に触れ、私の背中に触れていく。黒木さんの唇もそのあとを追って触れていく。触れられるたびに、私の体は熱くなり吐息が漏れる。

 明るい光が射し込む部屋で私達はひとつになった。

 

 心地よい季節で、外では子供たちの笑い声がかすかに聞こえてくる。深夜の地震がまるでなかったかのような幸せの声だ。

 そして、私達はまた少し眠った。黒木さんの胸は大きくて、本当に温かい。今度は胸に頬をあてて眠った。

 とくん、とくん、と黒木さんの鼓動が聞こえた。

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