第34話 珈琲の香り

 目を覚ましたのは、黒木さんの腕の中だった。私は黒木さんに腕枕をされて、後ろからバグされている。とっても背中が暖かい。

 白いレースのカーテンの模様がフローリングに影を作っている。サイドテーブルに置かれた目覚まし時計は十二時四十分を過ぎていた。私と黒木さんの携帯電話が並べて充電器に繋がっている。

 私はゆっくりと向きを変えて、黒木さんの方に向いてみる。黒木さんの大きな胸は筋肉で少し盛り上がっていて、左側に小さなホクロを見つけた。小さな寝息が私の前髪を少しだけ揺らした。

 顔は見えないけれど、きっと優しい顔をしているんだろうな。そう思うだけで顔が熱くなって、私は黒木さんの体に腕を回して胸に顔を埋めた。

……もう少しこのままでいたい……。


 

 お店の片付けをして歩いて帰る途中に差し出された黒木さんの手。私はほんの一瞬戸惑ったけど、その手に自分の手を乗せた。

 微笑んでいた黒木さんの目がさらに細くなって、少しずつ明るくなる空の下を手を繋いで歩いて帰る。ちょっと照れ臭かったけれど、黒木さんの大きな手は温かくて嬉しかったのだ。


「澪ちゃんの家の中大丈夫かな? 俺、ここで待ってるから見ておいでよ! なんかあれば手伝うよ!」

「え、でも……」

「家の中にいきなり行くのはちょっとアレだからさ……」


 私の自転車を駐輪場に停めて、カギを外して私にそっと渡してくれる。黒木さんはいつも優しくて、気を使ってくれているのがわかる。

「はい、じゃ、すぐに確認して戻ってきますね!」


 階段を上って玄関の扉を開けると、少しだけ家の中が荒れていた。枕元に置いてあった時計は転がって床に落ちていた。キッチンのストックBOXが落ちて、床に広がっている。

 テーブルに置いていたリモコンケースや鉛筆立てが倒れてしまっていた。物をあまり置いていなかったので大きな被害はなく、食器類も割れてはいなかった。

 黒木さんに貰ったドラセナはカーテンレールに吊るしていたので、揺れてシリコンポリマーが何粒か落ちていたけれど無事だった。

 私は部屋の確認をして、すぐに黒木さんの元に走って戻っていった。なんだか少し不安な気持ちになっていたから。


「澪ちゃん、部屋は大丈夫だった?」

「はい、ちょっと物が落ちてはいましたけど、壊れたり割れたりはしてませんでした」

「そう、良かった!」

「はい、ありがとうございます」


 そう言ったものの、ではお疲れさまでした! と、家に帰る気分にはなれなかった。

 黒木さんは、そんな私の気持ちを察したのだろうか。


「澪ちゃん、心配だからさ、俺の家に付いてきてくれない? 女の子の部屋にいきなり上がり込むのは得意じゃないし、澪ちゃんが嫌じゃなければ俺の家に一瞬に来て欲しいんだけど。ダメ?」

「ダメじゃないです……。私、ちょっと……」

「不安だよね、わかってるつもりだよ? 澪ちゃんの手、ずーっとちょっと震えてるんだもん。だからさ、俺の家に居よう! さっきの地震で散らかってるかもだけど」

「……はい」


 私が視線を落とした先に、また黒木さんが手を伸ばしてくれて私はまた手を重ねた。

 さっきまでよりも、強く握られた手が心地よくて緊張の糸がほどけてしまったのだろうか。私の頬を涙が溢れ落ちていく。


「大丈夫だよ、大丈夫」

 黒木さんの声はいつもよりも何倍も優しく私の心の中に届いてくる。そのまま二人で黙って歩いて黒木さんの家に帰った。少しずつ少しずつ太陽が昇り、明るくなる空と姿を消していく月。

 

 私の家から十分もかからない場所にある、茶色いマンション。オートロックの少し立派な建物だ。

「ここ、俺の家!」

「すごっ!」

 自動扉が開いてエレベーターに乗り込むと、黒木さんは六階のボタンを押した。

 黒い扉の横にはKUROKIと彫られたプレートがつけられている。

 玄関の中に入ると、地震で落ちてしまったであろう物が床に転がっていた。


「どーぞ! 割れてるものがあるかもしれないから気をつけて!」

「はい、お邪魔します」


 黒木さんの部屋はとてもシンプルでセンスが良かった。朝陽が射し込む窓際には白いレースのカーテンがつけられて、ブルーの遮光カーテンが綺麗に留めてある。

 リビングには白いテーブルと椅子のセットが置かれていて、リモコンが散らばっている。CDやDVDが棚から落ちて、壁に飾られた絵は歪んでしまっていた。


「あーぁ、結構散らかってるなー! あっ、食器が!」

「あら」

 昨日出かける前に使ったであろうマグカップやシンクの横で洗ってふせておいてあったであろうグラスが落ちて割れてしまっていた。

「澪ちゃん、こっちは俺が片付けるからソファーで休んでて」

「気をつけて下さいね」


 私はソファーに鞄を置いて、散らばってしまったCDやDVDを重ねていく。白いソファーにはブルーのクッションが二つ置いてある。ベッドは陽当たりの良い窓際に置かれていて、ベッドカバーもきちんとかけられている。白とブルーで統一された部屋は、余計な物はなく、黒木さんらしくて気持ちがいい。


「割れ物だけは片付けたよ! 後はもう明日でいいや! 澪ちゃん、珈琲かお茶かサイダーならあるけど、何飲む?」

「んー、サイダーがいいです!」

「オッケー!」


 黒木さんは、お湯を沸かして自分の為に珈琲を入れている。香ばしい珈琲の香りが広がってくる。

 そして、私の為にキレイなグラスにサイダーを入れてくれた。小さな泡がぱちぱちと弾けて、光に照らされて綺麗だ。


「シャンパンみたいですね!」

「ん? 綺麗だよね! それで飲むの好きなんだよね」

 黒木さんは目を細めて言った。優しい……とても優しい顔をして言った。

 そして、入れたての珈琲が入ったマグカップを持ってきて、私の横に座った。いつもの……小指の先が付くくらいの距離で、黒木さんは珈琲を一口、また一口飲んでマグカップをそっと置いた。

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