第32話 玄さんの日セット

 昨日の夜は玄さんが来なかった。

 岩野さんが心配していたけど、黒木さんと私は目を合わせて軽く頷いた。


 年に一度だけの特別メニュー。

⭐玄さんの日セット・和風


 岩野さんはうちの店の手伝いがない日は、ガソリンスタンドでアルバイトを始めた。

 たまにバイトが終わってからお客さんとして遊びに来るのだが、今日は来れないと言っていた。


 私は大きめのお鍋に具たくさんの豚汁を作り、玉子を多めに用意した。

 炊き込みご飯ももう少しで出来上がる。


 テーブルには手作りのポップを飾る。

『玄さんの日セット 限定十食』


 少し多めに作って、いつもより早い時間にくる玄さんを待つのだ。



──カランコロンカラン。

「いらっしゃいませ!」

「いらっしゃいませ!」

「ふぃー、今年もありがとねぇー」


 小さな紙袋を持って、玄さんがカウンターに座る。あまり眠れなかったのか、少しだけ目が赤くなっている。


「お待ちしてましたよ!」

「また一緒に食べましょう」

「お、お腹ペコペコなんだよ」


 出来立ての炊き込みご飯のおにぎりと、少し甘めの玉子焼き、具がたくさん入った豚汁からはいい香りがする。


「いただきます」

「いただきますっ」

「いただきまーす」


 私たちはカウンターに並んで食事を取る。

「んー、うまいねぇー」

「豚汁、最高だねー」

「良かったぁー、ちょっと炊き込みのお肉大きかったかな?」

「ぅんにゃー、うちのかぁーちゃんもこんくらい大きかったどー」

「うん、美味しいよー」


 玄さんはお箸で鶏肉を挟み、懐かしそうに見つめて口に入れた。

 黒木さんは豚汁の大根をふぅふぅしながら口に入れ、はふはふと食べた。


 玉子焼きもあっという間に平らげてしまった。


 食事を終える頃、玄さんは小さな紙袋を開けて小さな箱を出した。


「これ、かぁーちゃんが大好きだった豆大福なんだ。毎年ひとつだけ買って仏壇に備えてたんだけど。一緒に食べてくれるかい?」

「わぁー、美味しそう!」

「玄さん……一緒に食べましょ!」


 高級なお店の高級な豆大福。

 上品で小さめの豆大福。真っ黒な豆がぽこぽこと薄いお餅でくるんである。


「ちょうど良かった! 今日はほうじ茶買ってきたんです!」


 温かいほうじ茶を入れて、コーヒーカップに注ぐ。香ばしいお茶の香りが広がる。


「んー、玄さん、この豆大福最高!」

「だろー? かぁーちゃんのイチオシだからよぉ、」


 私もぱくっと豆大福を食べると、柔らかくて優しい甘さが口の中に広がった。

 玄さんと奥さんの想い出の味は、私の心をほわんと温かくしてくれる。


「黒木さんも澪ちゃんも、ありがとうね、ずいぶん長い間豆大福見ると辛くて食べれなかったんだけど。やっぱりうまいねぇー」


 今年もやっぱり玄さんは鼻を啜りながら、食事をして、懐かしそうに豆大福を食べた。

 そして、温かいほうじ茶を飲んで嬉しそうに笑った。


「また来年も一緒に食べてくれるかい?」

「もちろんですよ! ね、澪ちゃん」

「はいっ、毎年豚汁も玉子焼きも炊き込みご飯のおにぎりも作りますから、豆大福買ってきて下さいねっ」

「嬉しいねぇー」


 私たちは一緒に笑った。

(玄さんのこの笑顔を大切にしなくちゃ)

 私はそう思いながら、後片付けを始めた。



──カランコロンカラン。

「いらっしゃいませ!」

「いらっしゃいませ!」

「こんばんわー」

「こんばんわっ」


 TEAM180のメンバーがやってくると、すっかりいつものお店の空気になった。


「何? 今日の特別メニュー? 俺、これにする!」

「玄さんの日セット? 俺も!」


 早速注文が入った。

「はい! お待ち下さいね!」


 私はすぐにキッチンへと向かって準備を始める。炊き込みご飯をおにぎりと温かい豚汁、少し甘めの卵焼きを焼いて用意をする。


「うわっ! うまっ!」

「はぁー、これ母ちゃんのより旨い!」


 そんな声が届いてくると私は嬉しくて微笑みを浮かべていた。私が作った料理でみんなが嬉しそうにしてくれている……。

 新しいメニューを出せばドキドキするし、気に入っていつも注文して貰えると心が踊るこの感覚が、私を温かくさせてくれる。


 お腹がいっぱいになったTEAM180のメンバーの楽しそうなダーツの音や声が広がる店内。時折聞こえてくる黒木さんの笑い声や、グラスに当たる氷の音がとても心地がいい。

 今夜もとても素敵な夜になった。


 そして、この日の限定メニューはあっという間に終了した。



「ありがとうございましたー」

「気をつけて帰ってねー」

 黒木さんとふたりでみんなを見送って手を振る。外はまだ真っ暗で、割り増し料金のタクシーが走って行った。



「さて、閉店作業しよっか!」

「はいっ!」

 黒木さんはお店の看板のコンセントを抜き、店の中に片付ける。私は小さなプレートを『close』にひっくり返して外の灯りを消して、扉を閉める。

 いつもの閉店作業。いつも通りの夜。



 ただひとつだけ、いつもとは違った。

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