第22話 朝焼け
お店をしている夢ママは察しが早かった。
「あらっ、何かタイミング良かったんじゃない?」
雨に濡れた服をハンカチで拭きながら、カウンターに腰掛けた。
「ちっちゃい虫をね、外に追い出したところですよ」
すっかりいつもの黒木さんに戻っていて私はほっとしたのだが、なぜか小さく手が震えていた。
「今日は早いですね、」
「エアコンが壊れちゃったのよー、古かったから仕方ないんだけど」
「えーっ、」
「調子悪かったから買い換えて、明日工事の予定だったのよぉー。なのに今日壊れちゃってぇ、ぬるーい風しか出なくって暑くて仕方ないのよ。お客さんも少なかったから、今日は臨時休業よ。もぉー、汗だくっ」
「のんびりしていって下さい」
夢ママのおかげですっかりいつものお店に戻った。
ラピスラズリ達も楽しそうにダーツを始めている。
「またメニュー増えてるじゃないのぉ! ちんどん騒ぎのメンマ?」
「それ、うめぇーど、ビールにもご飯にも合うから」
夢ママの隣にいる玄さんもお気に入りでよく頼んでくれる。
「じゃぁ、ちんどん騒ぎとジャーマンポテトもどきとおつまみの森。黒木ちゃん、とりあえず生ビールね」
「はい!」
「ちょっとー、やだぁー」
「アハハ!!」
顔馴染みのお客さんだけになった店内はとても明るくなり、笑い声が絶えなかった。
ラピスラズリ達も一緒になって、夢ママと腕相撲大会をして盛り上がっている。
「ぅおー!」
と夢ママの低い声が響き渡り、玄さんは一瞬で倒されて私はお腹が捩れるほど笑った。最後は黒木さんと夢ママの対決だ。
「黒木ちゃんに勝って全勝よっ!」
「夢ママ、俺左利きですよ」
「えっ、左手でやる? 待ちなさいよー、本気でいっちゃうんだからぁー」
と、夢ママはウィッグを外してテーブルに置き皆がまた笑った。
「にゃははは!!! 夢ママ坊主なのー?!」
「なによぉー、後で触らせてあげるわよ」
黒木さんも笑いながらシャツの袖を捲った。
グラスを洗う時に少し腕捲りをするのだけれど、今日はシャツの袖を肘よりも上に捲っている。
私は少しどきっとしてしまった。
シャツの袖から伸びた黒木さんの白くて長い腕には程よく筋肉がついていて男らしい。浮き上がった血管が妙に色っぽく見えてしまう。テーブルに肘をついて夢ママとガッツリと手を組むと、上腕二頭筋が盛り上がりシャツが窮屈そうになっている。
黒木さん、意外と筋肉があるんだ……。
私の心の中で、また何かが少し動いたような気がした。そしてキレイな手が夢ママにしっかりと握りしめられ、ちょっぴり羨ましく感じていた。
「黒木ちゃんの手、すっごく触り心地がいいじゃない!」
「黒木さん、危ない危ない、狙われてる!」
「逃がさないわよぉー」
「夢ママ、怖い怖い!」
黒木さんと夢ママの腕相撲は何とか黒木さんの勝利で終了した。
「んもー、全勝したかったのにぃー」
「左手ですからね」
黒木さんは力を入れた後で少し頬が赤くなった顔で笑い、ビールを飲み干した。
「俺も黒木さんと腕相撲やりたい!」
って、ラピスラズリ達も張り切って黒木さんはそのまま腕相撲をしている。
力を込める度に筋が浮き上がる腕、笑いながらも真剣に腕相撲をする男性達の笑い声が店内に広がって楽しい夜だった。
「澪ちゃん、お料理おいしいわねぇ。今度お客さんと一緒に来るわねっ」
夢ママはちんどん騒ぎのメンマをおかわりし、〆にとりあえずオムライスを食べて満足そうに帰って行った。少しウィッグがずれていたけれど、楽しそうに夢ママが笑っていたので何も言わなかった。
……言った方が良かったのかなぁ、なんてちょっぴり思ったのだけれど勇気がなかった。
「ごちそうさまー」
「澪ちゃん、またねー!」
「ラピスさん、気をつけて帰って下さいね!おやすみなさーい、」
「ありがとー」
「おやすみー」
玄さんも、ラピスラズリ達もいつもの時間になると帰って行った。
朝から降り続いていた雨はやんで、折り畳まれた傘を持って帰って行く後ろ姿を見送る。
「澪ちゃん、今日は疲れたでしょ」
黒木さんが洗い物をしながら声をかけてくれる。
「いろいろ大変でしたね、でも夢ママが来てくれて良かったです!」
「助かったね」
私はキッチンの片付けをして、時間が残っていたので簡単な仕込みを済ませる。
ホールのテーブルをキレイに拭いて、椅子を揃えた。黒木さんはダーツボードに刺さって折れてしまったチップを丁寧に抜いてメンテナンスをしている。ダーツがとっても好きなんだなぁと後ろ姿を見ていて感じられた。
「やばっ、腕相撲必死になりすぎたかも、」
「結局みんなとやりましたからねー」
「麦わらはめちゃくちゃ強かったしなぁ、負けるとこだったわ」
「うふふ、」
黒木さんが腕相撲をしている姿を思い出して思わず笑ってしまった。ちょっぴりやんちゃな黒木さんの姿が何だか可愛く感じていたから。
「ん? なんかおかしかった?」
「いいえ、楽しそうだったから」
「負けたくないんだよ、やっぱり」
洗ったダスターをカウンターに広げて干して閉店作業も終わった。
「よし、閉店の時間だし今日は早く帰ろうか」
「はいっ!」
看板を『close』に変えて鍵を閉める。雨が上がり濡れた道を新聞配達のバイクが水しぶきを飛ばしながら走って行った。
始発電車を待つ若者がたまって大きな声を出してしゃべっている。
「澪ちゃん、今日は送って行くよ、」
「へっ? あー、大丈夫ですよ! 黒木さんもお疲れでしょうし」
「いや、今日は送っていくわ。四人組のせいで怖かっただろうし。たまーにあるんだよね、今日みたいな事」
「そうですよね、いろんなお客さんいますからね」
「でも、俺はちゃんと守るから。大切なお客さんも、澪ちゃんの事も。怖ければキッチンに逃げてもいいし、玄さんがいれば近くにいればいい。今日みたいに震えてしまったら我慢しないで言って、」
私の手が小さく震えていた事を黒木さんは気づいていたのだ。誰にも気づかれていないと思っていたのに、と少し恥ずかしくなってうつ向いてしまった。
「ん? 違った?」
と黒木さんの優しい笑顔が私の顔を覗き込んできて、私はまた恥ずかしくなってしまう。
「いぇ、普通にできてると思ってたから」
「ふふっ、素直でよろしい!」
群青色の空に太陽が昇り始め、キレイなオレンジ色に染まり始めた。
私と黒木さんは清んだ空気の中をゆっくりと歩く。時折吹き抜ける風が髪の毛を乱して、私たちは笑った。
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