第15話 そういえば・・
休日に衣替えをした。
失恋、退職が重なり絶望していたところを拾われて。なんだかバタバタとした時間はあっという間に過ぎていた。黒木さんのお店で働いているお陰だなぁ。
休日はさすがに少し落ち込んで、泣いて過ごすこともあったけど。
今のところ、夫婦の揉め事に巻き込まれずに過ごせている。慰謝料の請求書や弁護士などからの文章も届いていない。きっと彼が何とかしてくれているのだろう。
衣替えはあっという間に終わった。彼を連想させる服は殆ど処分したから。その代わりに新しい服を買いに出掛けた。バーでのキッチンの仕事には清潔感のある新しいシャツを買い、少し可愛いいブラウスや綺麗な色のパンツを買った。
久しぶりの電車や人混みで少し疲れたので休憩する事にした。あの彼と時々訪れていた街、見慣れたカフェやお店が並んでいる。
ふと、一件のバーが視線に入った。
何となく見覚えのあるような、ないような……。
バーの扉は開いていて、明るい時間はランチやカフェのメニューをやっているようだ。
(何かヒントになるかも!)
私はそっとお店の中を覗いてみた。
「いらっしゃいませー!」
お客さんもチラホラといて、優しそうな男性が声をかけてくれた。
「お一人様ですか? どーぞ!」
「あ、はい」
メニューはシンプルでランチとケーキがいくつかのっている。私は美味しそうなパンケーキと爽やかで綺麗なソーダを注文した。
「パンケーキは自家製なんですよ、注文を頂いてから焼くのでお時間かかりますけど」
「はい、待ちます!」
ほんのりと甘い香りがお店にゆらゆらと広がっていく。私が注文したパンケーキは、バターや蜂蜜をかけるのではなく、付け合わせに半熟玉子やサラダ、厚切りの焼いたハムが添えられている。
うちのお店でも工夫をすれば出せそうなメニューだ。
「お待たせしましたー」
テーブルに運ばれてきた焼きたてのパンケーキはふわっと揺れて、半熟玉子がぷるりと動いた。
「ぅわぁー、美味しそう!」
頂きます、と手を合わせてナイフでパンケーキをカットする。
焼きたてのパンケーキって初めてかも、なんて思いながら少しずつ口に運んでいく。
「いかがですか?」
さっき案内してくれた優しそうな男性が声をかけてくれる。
「美味しいです! ふわっふわで」
そして爽やかで綺麗な色のソーダをひとくち飲んだ。
「酸っぱっ!」
多分、パイナップルやレモンが入っている。
「酸っぱいの苦手ですか?」
グラスを片付けながら男性が笑っていた。
「す、すみません。ハハハ……」
笑って誤魔化すしかなかった。
「……っと、前にも来られてません?」
「えっ?!」
初めて入ったお店だと思ったけど、やっぱり違う?そういえば、入る時に何となく……。
「あー、思い出した! 篠原さんと一緒に何回か来られてましたね? 最近、見てないな」
「えっ?!」
篠原……私が、騙されていた男の名前。
もう二度と聞く事もないと思っていた名前。
「あ、何かまずい事言っちゃいました?」
「あ、えーと」
「その、酸っぱっ! っていう声と、表情で思い出したんですけど」
思い出した。確かに何度かこんな雰囲気のBarに確かに連れてきて貰っていた。よく見るとダーツもあった。あの頃は篠原さんに夢中で何も見えていなかったんだ。
「ほら、あそこのテーブルの席に座ってましたよ。」
「ハハハ、よく覚えていらっしゃる」
「お客さんの顔はしっかりと覚えるようにって、ここのスタッフには言ってましたからね、あー、懐かしい」
「懐かしい?」
「篠原さん、と、は?」
「あ、もう……今は……」
思い出させないで欲しい。せっかく忘れかけているのだから。
「良かった」
「良かった?」
「あの人、他にも……ね」
「あー、やっぱり。いたんですね」
「すごくお酒が好きな女性、奥様かな」
何で私はこんなお店に来てしまったのだろうか。最低最悪な記憶が戻ってくる。奥さんを連れて来た店に私を連れて来ていたなんて……。
「あ、何かすみません……」
「いえ、別に」
そう答えて、パンケーキの残りを食べながらソーダを飲んだ。
「酸っぱっ!」
「ハハハ! その顔、可愛いくって覚えていたんですよ、昔いたスタッフが見つけてね!」
「えっ? 見られてたんですね」
恥ずかしくてたまらなくなる。
「初めて来られた時に、ココア下さい! って言われたらしくて。うちにはココア置いてなくて、今日と同じように注文されたんですよ」
確かに私はパンケーキと、これ、下さい! って指で写真を示した。
「で、酸っぱっ! て声が聞こえて。その表情が可愛いんですよ、ほらって!」
「いやいやいやいや……」
最悪だ、本当に恥ずかしすぎる。
急いで食べきって帰ろう! って、そう思った時に思わぬ名前が飛び出した。
「あ、そういえば、そのスタッフが今は自分で店やってるらしいんですよ。良かったら顔出してやってください!」
「お店ですか?」
「なん駅か先だったかな、古いダーツが置いてある、んと、店の名前は……」
「ん?」
まぁ、恥ずかしくて私は行けやしないし、仕事もあるから多分行かないけれど、何となく気になった。
「ちょっとまってね、なー、さっちゃん!」
キッチンにいるスタッフに声をかけている。
「黒木くんの店の名前なんだったっけ?」
く、黒木?!
「え、え―――!!」
「びっくりしたー」
「く、黒木?! Bar 180ですか?」
「おーっ、そうそう! それっ!」
「えっ?!」
私の頭が混乱している。
「えっ?!」
「えっ?! どした? 黒木くん知ってるの?」
知ってるも何も、私は捨てられた日に拾って貰ったんです!なんて、言えるはずもないし。そもそも、篠原という名前も忘れたかった名前だし。
えっ? 黒木さんは、篠原さんと私の事を見ていた事になる―――。
えっ? えー?! え―――???
「大丈夫ですか?」
「は、はぁ」
何だか急に頭が回らなくなってきた。
私は残っていたパンケーキや半熟玉子を味わう事を忘れて食べた。
綺麗な色のソーダは少し残ってしまった。
「すみません、お会計お願いいたします」
「ありがとうございました!」
と心配そうに見送られてお店を後にした。
歩いていると、謎がほどけていった。
「大丈夫じゃないよね?」
と言った黒木さんの初めての言葉は、本当は初めてではなかった。
ココアを出してくれたのも、私がココア下さい! って注文したのを覚えていたのだろう。
お酒が飲めない事を知っていたのも、きっと覚えていたからなんだ。
(シンデレラ)を飲んで酸っぱい顔をする事を知っていたんだ。
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