自らをののしり尽きずあふむけに寝る

「おう、楽人。久しぶりやな」

 追憶に投げ出された意識を引き戻すように、太い声が僕の名前を呼んだ。振り向くと、そこには兄の姿があった。赤色のメッシュが入った髪をワックスでしっかりと固め、耳たぶには鉄製の大きなピアスがぶらさがっている。柄の入ったシャツからは、その奥にある鍛えられた身体がうっすらと浮かび上がっていた。なんというか、いかにもな……。いや、やめておこう。ともかく、白シャツに黒のスキニー、起きてから手をつけていないままの髪の僕とはえらい違いだ。

「久しぶり。……秀人兄さん」

 僕が控えめにそう応えると、兄は「固いなあ」と快活に笑った。そして一瞬腕時計に視線を下ろし、一歩進んで僕の前に出た。

「ほな行こうか。もう店は取ってあるから」

 そう言って兄は、飲み屋街へとさくさく足を進めていく。僕も急いでその背中を負った。つかず離れずの距離で僕たちは歩く。こんな風に兄と連れだって歩くのは、たぶん小学生以来だ。

 僕たちは居酒屋へと入った。兄が名前を告げると、僕たちは半個室へと通された。向かい合って座るまますぐに、店員さんがオーダーを取りにやってくる。初めての居酒屋に混乱する僕を見て、兄は慣れた手つきで飲み物といくつかの料理を注文した。間もなくして、僕たちの机にはビールのジョッキが二つ並んでいた。

「じゃ、乾杯」

 兄がそう言って、ジョッキを掲げる。僕も見よう見まねでジョッキを持ち上げると、ふたつのジョッキがぶつかって軽妙な音が鳴った。それを合図にして兄がビールを勢いよく呷る。僕もそっと口をつけた。ホップの独特な苦みが、じんわりと口に広がる。あまり好みの味ではなかった。ただ、勢いよく喉を流れるその感触は、何だか癖になるようなものがあった。

「いやあ、就職おめでとうな。確か商社やったっけ?」

 兄がそう訊いて、勢いよくジョッキを机に置いた。もう七割ほど中身が消えていた。

「ありがとう。まあ、そうだね。実家から通えるところだけど」

「東京やないんやな。けどええなあ。結構年収高いんやろ? うちのライブハウスももうちょい給料あげてほしいわ」

 僕は曖昧に笑って返事を濁す。一応今日は、僕の就職祝いとなっていた。というかそれほどの理由がないと、とっくの昔に家を出ていた兄と会う機会がない。前回会ったのだって、四年前の大学合格の時だった。

「それにしても楽人がもう大学卒業か。早いな。大学生活はどうやった? 楽しかったか?」

「どうだろう。勉強が難しかったっていう印象はあるよ」

「まあ京大やもんな。やけど少しくらいは思い出あるやろ。俺が出てくまで――中学か? まあきっと高校もやろうけど、ずっと塾ばっかやったんやからさ。大学くらいはっちゃけてもええやん」

「でも僕は、良い会社に入らないといけなかったから。やってることは何も変わらなかった」

 僕がそう返すと、兄は少し俯いてジョッキに手を添えた。しかしそれを持ち上げることはなく、指先でその表面についた水滴をゆっくりと拭っていた。影が落ちた兄の表情は、少し厳めしくもあった。

「まあ、俺は塾なんてごめんやけどな。あんなん人が行くとこちゃうわ。反抗して辞めさせられて、逆に良かったわ」

 兄はジョッキに残ったビールを飲み干す。兄が塾を辞めたときのことは僕もよく覚えていた。確か兄が中学生の頃だ。その頃から母は、兄にほとんど干渉することはなくなった。その代わり、兄の分を僕が背負うことになった。

「そういやさ、今日はよく母さんが許可出したな。てっきり俺と関わるなとでも言われてんのかと思ってたわ」

「今まではしょっちゅう言われてたけどね。でも」

 僕はそこで言葉を句切る。少し迷った。たぶん、こういうのは本人に直接言うべきじゃないけど。

「言うてみ」

 兄は優しく、そう呟いた。いや、優しいというより、諦めているというか、何も期待していないかのような口ぶりで。

「あの落ちこぼれに、楽くんの今の姿見せつけてきなさいって」

 僕がそう言っても、兄の表情には何の変化も見られなかった。まるで凪いだ水面のように。

「ま、あの人はそういう人やろな」

 僕はビールを口に流し込む。その滑らかな喉越しが、何だか酷く心地良かった。


 それから、どうしたんだっけ。確か兄に勧められるまま、色んなお酒を試してみたような。そのあとは、あれ? 思い出せない。記憶に靄がかかっているような、ところどころ断絶して途切れているような。僕はどうやって帰ったんだっけ。そもそもここは――

 僕は飛び起きた。眩しい陽光が目を刺すのと同時に、頭ががんがんと鳴った。鉛を頭蓋の中に仕込まれたかのように痛む。身体中も何だか酷く軋んでいた。僕は細めた目で周りを見わたす。そこは公園のようだった。背の高いビルに囲まれて、滑り台やブランコなんかが肩を寄せ合うかのように並んでいる。僕は公園の端にあるベンチで眠っていたようだった。なんで僕はこんなところにいるんだ? 僕は急いでポケットをまさぐる。幸い、スマホはきちんとポケットに収められていた。とりあえず欠けた記憶を補うために、兄に電話をかける。数コールして声が聞こえた。

『ああ、楽人。どうしたん』

「ちょっと、兄さん、僕なんで公園で寝てたの」

『そんなん知らんけど。俺途中で帰ったし』

「え、なんで」

『なんでって言われても、昨日自分で言うてたやん。さっさと失せろって』

「は? そんなこと、言うわけないでしょう」

『いやほんまやって。ほら見てみ』

 兄がそう言うと間もなく、耳に当てたスマホが軽く揺れた。兄とのトーク画面に、何かのリンクが送られていた。それを開くと、SNSのページに飛ぶ。それは動画のようだった。昨日の居酒屋に似た店の映像が映し出された。画質が荒くて詳細は分からないけど、三人の男性が見える。客らしき男二人と、制服を着た店員さん。ふたりの客のうち、白い服を着た方が店員さんの胸ぐらを掴む。


「おい、あんま舐めた態度取ってんとちゃうぞ」

「お客様、暴力はおやめください」

「黙れや、低学歴のくせに。こっちは○○商社の人間やぞ」

「楽人、もうやめろって」

「うっさいわ。さっさと失せろ。僕はずっとお前のことが――」


 そこで映像は途切れていた。間もなくして、ループ再生が始まる。僕は慌ててそれを止めた。

『あの店におった人が俺らの動画撮って、SNSに投稿したらしい。それが色んなところに転載されて、今結構すごいことになってる』

 そうして兄はまた、いくつかのリンクをトークに貼った。動画に面白おかしくタイトルがつけられ、物凄い数の「いいね」がついている。コメント欄を見ると、名前も知らない誰かが、僕をあらん限りの厳しい言葉で罵っている。「死ね」「地獄に落ちればいい」「こいつ生きてる価値あんの」

 そして、どうやって特定したのだろうか、コメントのうちのひとつに僕の顔写真が載せられていた。それだけじゃない。名前、高校、大学、実家の住所まで。そのコメントもまた、すごい勢いで拡散されていた。僕はそのあまりに衝撃的な出来事を、上手く自分のこととして捉えることができなかった。まるでスクリーンの向こう側の出来事を見ているようで。早く劇場から立ち去ってしまいたかった。でも、もちろん出口なんて分からない。

『たぶん会社にも何かしら連絡がいってるやろうな。動画ん中で名前出してもうてるし。もしかしたら家にも誰か凸ってきてるかもしれん』

「どうして、止めてくれなかったんだよ」

 僕は思わず声を荒げた。こんなに淡々としている兄が少し苛立たしかった。こんなことになる前に、どうすることもできたはずなのに。どうして。

『どうしてってそりゃ、さっきも言うたやんか。お前が言ったからやろ? 失せろって。もちろん俺も止めたけどさ、でもお前の意見は尊重しなあかんやろ』

「意見って、そんな」

『いや、俺はちょっと嬉しかったんやで? ずっと母さんの操り人形だった楽人が、自分の意見を言うなんて。本音というか、本当の楽人が見られたみたいで』

「こんなの、僕じゃないよ」

 声が震えていた。僕はどうしようもなく恐ろしかった。僕が、あんな酷い態度を取ったなんて。僕はずっと、正しくあろうとしていたのに。実際僕は今まで、正しく生きてきたはずだ。社会の規範通りに、教科書通りに、あるいは、母の言う通りに。

『僕じゃない?』

 スピーカー越しに、低い声が聞こえた。顔が見えないからか、その声はただひたすらに威圧的に響いた。

『それは違うな。全部お前だよ。酒に酔ったお前も、母さんに従うだけのお前も。全部地続きの自分だ。どこまでも自分は自分で、その責任は自分自身にあるんだよ。だからこそ人生は自分で選び取るんだろ。なら選び取れよ。どうしようもなく地続きな自分として。なあ、これからお前はどうするんだ?』

 息が詰まった。声のひとつも出てこない。少しの沈黙があって、また声が聞こえた。

『ほな俺、今日のライブの準備しなあかんから。もう切るわ』

 ブッ。糸がちぎれるような音がして通話が終わる。僕は思わずよろけてしまいそうになった。昨日の二日酔いは、もうすっかり醒めてしまっていた。

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